プロローグ おわりのはじまり
……ありがとう。そう聞こえた気がして、男は振り返った。
そこに落ちた首には、微笑みだけが、彼へと向いていた。
先刻まで城壁を横なぐった雨は、黙って去っていった。空を塞いだ鉛色の雲が、散り散りと逃げていく。
空一面に広がる茜の輝きが、夕刻を告げた。
目が眩むほどの鮮やかな橙の光が、窓から差し込む。
――ここは、城のとある一室。
そこにひとり、厳しい鎧で身を固めた男が立っていた。
男の視線の先には、白いドレスの女が横たわっている。
いや、緋色の絨毯に映えるほどドレスが白かったのは、わずかばかり過去のこと。それは時々刻々と、燃え立つような赤に塗り変わりつつあった。
ドレスを染める、斜陽とも絨毯とも違う鮮烈な彩り。それは、あるべきもののない女の首から、止めどなく溢れる血の赤だ。
首から零れる血は、息衝くほどに鮮やかだった。
白いドレスを染め、絨毯を這い、転がる首へと注がれていく。
それは、命を離れた体に――最後の温もりを与えるようだった。
首から零れる血は、息衝くほどの鮮やかさで触れるものを染めていく。
ドレスの白を、絨毯の緋色を、転がる己の頭までも。命を吹き込むように全てを赤で飲み込み、立ち尽くす男の足元で力尽きた。
その隣で突き立つ剣から、赤いしずくが伝う。二つの赤は足元で混じり合い、ひとつの溜まりをなした。
切り離された頭、動かない躯……女が息絶えているのは一目瞭然である。そして、二人しかいない部屋、男の右手に収まる血濡れた剣……女の息の根を止めたのが男なのも歴然だった。
ただ、ひとり立つ男の瞳は喜びも悲しみも浮かばない。床で転がる女の満面の笑みだけを、虚ろな目に映していた。
男にとって、その笑顔は見慣れたものだ。
それもそのはず。ついひと月前までは、この女と将来を誓い合うほど近しかったのだから。
幸せだった日々をあの頃と振り返るには近すぎる。まだ色褪せない思い出は瞬くより早く記憶に浮かび、心臓が早鐘を打った。
しかし、今さら胸が高鳴ったとて……耐え難い苦痛しか覚えず、男はそっと目を逸らした。
――どうして、こんな、
言いかけて、男はぐっと唇を噛む。怒りをぶつけても、愛を囁いても、女の唇はもう緩やかに弧を描くだけなのだ。
すべて、終わってしまった。
男の頬に、ぽたりと雫が落ちた。湿り気を含んだ風が、ガラスの割れた窓から押し入ってくる。
それはむせかえるような戦火の残り香を撒き散らすついでに、床に広がるドレスの裾をぱさりとめくった。
男がはっとして、それに目を向ける。
堰を切ったように胸から湧き上がるのは……二人ですごした喜び、裏切りの憎しみ、逝ってしまった悲しみ。
相容れない感情たちがひしめきあい、苦しくて、全部掻き出してしまいたい。
なのに、指の先すら動かす気が起きない。
ただ、煤けた後悔だけは鮮明に鼻を突き、目頭から悔しさが溢れだす。滲んだ視界でいつからこうなったと記憶を漁れば、辿り着くのは二人が袂を分かたった日だ。
思い返せば、あの日は彼女の笑顔を見ていない。
****
神の時代を語り継ぐのは誰か。
その答えは神のみぞ知る。
ここに確と、世界のはじまりは伝わる。
この世界は、神の恩恵だ。
恵みに富んだ大地も、育まれる生命も、全てが。
世界を創造した神の名は、ラグナディール。
その御身は、三つの大地に。
その力は、三つの恵みに。
その御心は、生命の種となる魂に。
三つの大地に緑が芽生え、満ち、溢れる。
陽の光の恵みは、闇を払う輝神となる。
魂は肉の体を授かった。
月明かりの恵みは、闇を灯す慈神となる。
魂は心を授かった。
光を縁取る闇の恵みは、闇を領く衡神となる。
魂は知恵を授かった。
肉の体から、力を。
心から、情を。
知恵から、欲を。
魂は、それらを携えて。
己の意思で命を営む、生き物へと姿を変えた。
そして、命の交代がはじまった。
強い力を得た生物は獣となる。
弱きものを喰らい、縄張りを広げた。
知恵をつけた生物は人となる。
食われぬよう群れて、知恵を重ねた。
やがて、集まった知恵は恩恵を当然と受け入れる。
望む世界を創れる神の力に、魅せられ、欲しがり――神の筋道を外れていく。
欲は際限なく膨らみ、神をも犯す大きな力となった。
導きの手を振り払い、牙を剥いた非力で強欲な存在。
神の嘆きは、宙から降り注ぐ氷の刃となった。
神の悲しみは、天を走り地を穿つ雷となった。
神の怒りは、生物から知恵を剥ぎ取った。
人が築いた知恵は呆気なく崩れた。
緑を焼き尽くす炎は消えない。
獣も人も、欲のままのたうつ肉の塊に化けた。
神の逆鱗から逃れた人々は、己の無力さを思い知り、誓った。
同じ過ちを繰り返さぬように、神の偉大さと畏れを後代へ語り継いだ。
ここからが、歴史のはじまりとなった。
****
創造歴1000年。
創造神ラグナディールを讃える節の第一日目。
初日の光が差し込む港に、帆船が静かに浮かぶ。
暁光が石造りの街並みを照らし、塗り重なった壁の漆喰が、長い年月で培った知恵を映し出していた。
ここは、タルダント大陸。
鉱物資源に恵まれ、技術の粋を集めた国――統括帝国メフィストフェレスが治める地。
人が再び群れを成し、千年を迎えた。
神の創りし三つの大陸には、いまや三つの国が築かれ、栄えるまでになっていた。
……ひと月前までは、そうだった。
街に立ち並んでいた建物は、今や瓦礫に変わり果てている。
港には煙が立ちこめ、船の影も見えない。
世界のどこを見ても、同じ。
緑に満ちていた大陸は、焦げた土に覆われていた。
住処を追われ、狂った獣が人を喰らう。
命の気配すら希薄で、人の姿は沈黙に溶けて、消えてしまった。
その惨状は、絶えず語り継がれる神の怒りの再来を思わせる。
だが、この惨禍をもたらしたのは神ではない。
――人の姿をまとうそれ。
ごきげんようと微笑めば、消えない炎が渦巻き、緑を焼いた。
こんにちはと手を振れば、氷の刃が街を裂いた。
鼻歌交じりに命を攫っては、肉の塊を積み上げる。
それが振るう力は、語り継がれる神の怒りそのもの。
人のくくりを外れた『それ』を、人々は――脅威と呼んだ。
****
世界は終焉を迎えつつある。もちろん、タルダント大陸も例外でない。
帝国の北部に、首都と呼ぶにふさわしい景観を備えた街があった。
美しく整った白の建物たちもいまや砕け散り、ひび割れた石畳が辛うじてそれの名残をとどめるだけだ。
崩れた家屋の間に動く影はない。雨風だけが、縦横無尽に暴れ回る。
残骸を殴りつける雨粒の音が、荒れすさんだ街を寒々しく覆っていた。
どん!
熱が爆ぜる耳障りな音が唐突に轟く。次いで、地を揺らす低い振動がびりびりと辺りを震わせた。
音の出処は、国の要だった街を見下すようにそびえ立つ黒岩の城だ。
城壁から立ちのぼる黒い煙が鈍色の雲と交わって、世界を重苦しく包み込んでいく。
まるで、歴史に幕を引くかのように。
絶望が漂う空気のなかを、再び城からの爆音がこだまする。かと思えば、突然の大きな雄叫びがそれをかき消した。
叫んでいるのは、幾百にも及ぶ、鎧で身を固めた者たちだ。
黒岩の城のへし折れた城門の前でひとしきり喊声をあげると、ひとつにまとまり……猛々しい流れを成しながら城内へとなだれ込んだ。
進路を塞ぐ壁から対敵の全てに、おびただしい刀痕を刻む。廊下はもう立ち上がらない者で埋め尽くされていく。
それでも彼らは勢いをとどめることなく、階下へと降っていった。
地階からの衝撃が、石材で築かれた堅牢な大廈を小刻みに揺らす。
今にも崩れそうな城の、ひときわ揺れが激しい一室に、ひとり――白いドレスの女がいた。
地下の衝突など気にもとめず、割れた窓からぼんやり雨を眺める。
この女こそが、脅威と呼ばれる存在だ。
風が女の気を引くように、ぴゅうと吹いた。窓枠に残っていたなけなしのガラスが、雨と一緒にきらきら舞って、白い靴の上に降りかかる。女はわずかに窓から身を引くも、物憂げな面持ちのまま曇天を眺めていた。
女を「世界を揺るがす脅威」と見なせば、たかが一城の枠に収まるとは思えない。
しかし、生身はなんの変哲もない女人の丈。もとより部屋を占めていた長机と十数の椅子を片さずとも、窓の前にちょこんと収まっていた。
それなのに、どの椅子机も足を折ってはひれ伏している。ガラスのない窓に、掛かるカーテンはその半身を炎に食われていた。
分厚い木の扉は平然とそれらを閉ざすようにみえて、釘一本のみで辛うじて壁にしがみついている。
この部屋に堂々と立つのは、脅威だけだった。
強く吹き込んだ風に煽られ、カーテンが窓枠を手放した。炎に巻かれた布地は、ゆらゆらひらひらと落ちながら女の顔を明るく照らす。
焔を映してもまだ白いままの肌に、深い海を思わせる青い瞳。張りのある頬を結ぶ唇は、みずみずしく膨らむ。質素な白いドレスが、風に踊る群青の髪をいっそう際立たせていた。
その髪の上に、赤く細長い花弁を火花のように広げる花が一輪、挿されている。
風でふわりと花が浮いた。
女が手を添えた拍子に、遠くで床を刻む音が耳に滑り込む。急ぎ足の硬い音は、迷いなく大きくなっていく。
女は扉を振り返りはしない。ただそわそわと、何度もその音に横目を滑らせた。
程なくして……等身大になった靴の音は、部屋の前で止まる。
女は深く息を吸い込むと、花を押さえていた手を離した。
見計らったかのように、扉が断末魔を上げた。
鉄靴を履いた足が、倒れた分厚い板を容赦なく踏み抜く。足の主は長い金色の髪をひとまとめにした、端正な顔立ちの青年だ。
青年は部屋の最奥に立つ群青の髪を目にするやいなや、すぐ腰の剣に手をかける。
「ふふ、久しぶりね。ようこそザムルーズ」
女は背を向けたままザムルーズを迎えた。
その親しげな呼びかけを聞くなり、ザムルーズの整った顔が一瞬で歪む。
「……お前に馴れ馴れしく呼ばれる覚えはない」
「あら、なによ」
女はようやく振り向くと、わざとらしく頬をぷくりと膨らませた。
「婚約者に対して冷たいんじゃない?」
「元だ。自分で棄てたくせに」
女のおどけた仕草にも、ザムルーズは寄せたしわひとつ崩さない。それどころか切れ長の目をさらに鋭くし、あどけなさを装う女を睨みつける。
「あら、そうだったかしらね?」
女は頬にためた息を吐き出すと、とぼけて視線を逸らした。
言葉を交わすには遠い距離を縮めることなく、二人は向き合う。
床で燻るカーテンの燃え残りが、やけにぱちぱちと存在を主張した。
シュッ――と、金属の滑る音が耳障りな静けさをかき消す。
「……駄弁は満足したか?」
ザムルーズはわざと音をたて抜いた剣の先を、まっすぐ女の方へ突きつけた。
「ここまでだ、エミーナ。いや……『脅威』と呼ぶべきか? そういえば『黄昏の魔女』なんて呼び名もあったな」
「お好きなように。それより……なにそれ? そんなもので私をどうにかできると思うの?」
エミーナは切っ先を鼻で笑いながら、刃先に向けてすっと腕を伸ばす。
エミーナの手のひらから、ぱらぱらと火の粉が散ったかと思えば――瞬く間に手を芯として燃え盛る、大きな炎となった。
間合いがあるにも関わらず、凄まじい熱気がザムルーズの身を圧する。
彼女は目の前で、一切の理を無視し無から事象を創り出した。
その姿は皆が恐れる脅威そのもので、ザムルーズの額を嫌な汗が伝う。
ばちっと火の粉が飛んだ拍子に、進む以外を捨てたはずの靴がきゅっと悲鳴をあげて後ずさった。
それでも、構えだけは崩さないように剣を持つ右手をぐっと握りしめる。わずかに震える左手は、腰にぶら下げた荷袋に隠した……かと思えば、すぐ何かを引っ張り出した。
手の中にあったのは、脚のついた銀の杯だった。
「杯よ! あの力を消してくれ!」
ザムルーズは叫ぶが早いかそれを掲げる。
びしっ! と。
ガラスにひびが入るような鋭い音が響き、エミーナの手を覆っていた炎は杯に吸い込まれ……消えた。
エミーナは伸ばすだけになった手をひらひらと振る。ただ白い手だけが揺れた。
「なるほど。いい仕事するわね、それ」
エミーナは杯の力に感心して、さっさと腕を引く。それを見届けてからザムルーズも杯をしまった。
「自分で用意した物にやられる気分はどうだ? これでもう、お前は力を使えない!」
言い切った勢いに合わせ、一歩踏み込みながら剣を前に突き出す。
エミーナは切っ先から目を離さないものの、面倒くさそうにゆっくり息を吐いた。
互いに動かず、言葉もない。
降りしきる雨の跳ねる音が、部屋を満たす。
ふいに、階下の衝撃が大きな歓声に変わった。
喜びと労いが入り交じる声に誘われ、ザムルーズは足元に視線を落とす。それと一緒に床に垂れた剣の先を、エミーナも目で追った。
「暴虐の王は、終わった、か……」
「あら、イーサー負けちゃったのね」
エミーナはどうでもいいように言い捨てると、すぐザムルーズに視線を戻す。
ザムルーズはまだ階下を見たままだ。
ただ、さっきまで微塵も緩まなかった頬が、誇らしげに深く窪んでいた。
その笑顔はエミーナの消せない思い出を、否応なしに引きずりだす。破れそうなほど胸が脈打ち、余裕を気取っていた唇がわずかに綻んだ。
エミーナは慌てて口元を手で覆う。
ザムルーズは、見ていない。
エミーナは緩んだ唇をそっと噛み締め、手を下ろした。
「さて」
階下の凱歌に促され、ザムルーズは視線を前に戻す。
「残るはお前だけだ」
再び頬を引き締めると、床に落としていた剣の先を倒すべき敵に向けた。
エミーナは軽く笑って両腕をぷらぷらと揺らす。
「お好きにどうぞ」
「……何を企んでる?」
「なぁんにも。力も使えないし、イーサーもいなくなった。現実を受けいれたのよ」
言い終えるとエミーナは瞼を下ろし、ザムルーズの勘ぐるような視線を遮った。
今さら負けを認めたエミーナの態度には違和感を覚える。だが、彼女の言うとおりだ。
脅威たる力も、共謀者である暴虐の王も封じた。他に味方はなく、武術の類もからっきしなエミーナにもう打つ手などない。
ザムルーズの腕なら逃げる気のない彼女に近づいて、たった一太刀、剣を振り抜けば終わる。
そう頭でわかっているのに……はじめの一歩が出ない。
動かない足に代わり、ザムルーズの口が動いた。
「……最期くらい、言うこと、あるだろ?」
エミーナが目を見開く。
少しそっけなく、乱暴で、小刻みに震えた声。
黄金色の鋭い眼差しは瞼を閉じる前と変わらず、一切の詮索を拒んでいる。
だが、エミーナの聞き違いではないとわかる。
なぜなら彼は、待っている。
最期の言葉を問うザムルーズの、あれほど頼りない声は初めて聞いた。
――馬鹿ね私、彼を裏切ったんだから別れを惜しむはずないじゃない。
エミーナは自分に言い聞かせる。しかし、思い出で溢れかえる心は都合よく取り違えたがって、押し殺してきた気持ちがどっと込み上げた。
「ずっと……」
声を発したとたん、ザムルーズの眉間にしわが寄る。
エミーナは、はっと息を呑んだ。
きっと彼はこのひと月で、多くの大切なものを失ってきただろう。それがどれだけ辛くても、今のように瞳を逸らさずここにたどり着いた。
どうかこの先も、まっすぐ前を向いていて欲しいとエミーナは願う。
だからもう、想いは声にしない。
エミーナは吐きかけた本音をぐっと飲み下した。
「……後世に語り継ぎなさい。世界に脅威をもたらした、黄昏の魔女という存在を。私の魂は神の力の源であり不滅。たとえ躯を失おうと、人がまた愚かしく神の力を欲すれば私は蘇り、再び世界に脅威をもたらすでしょう」
皆が脅威と認識する自分に見合った台詞を考えながら、つい髪に手をやる。指先に、風で浮いてずれたままの花が触れた。
エミーナはこの赤い花が好きだ。色も形も特性も……なにより、エミーナの人生にこの上ない幸福を運んでくれた。
結局、その幸せは自ら手放してしまった。
後悔はない。
ただ、ささやかな願いはある。
「……また、未来で会いましょう。英雄様」
名を呼んだ声が少し上擦った。ザムルーズがぎゅっと目をつぶる。エミーナはそれを見て見ない振りで、花を髪に挿し直し、また静かに瞼を閉じた。
ザムルーズは頭をひと振りしてから目を開き、剣の狙いを悠然と立つエミーナの白い首へと定める。
いつの間にか、剣を持つ手が汗でぐっしょりと濡れていた。拭いもせず柄を握り直す。全てを投げ出したくなる衝動を奥歯にぐっと挟んで、踏み出すつま先に力を込めた。
「さよなら、エミーナ」
息だけで呟き、ザムルーズは正面から一直線に駆け込む。
視界が現実を拒む前に――渾身の力で、一気に剣を振り抜いた。
一閃。
絶えなく響いていた歓声が、ふと途切れる。
代わりに響くのは、絶望を断ち切る鈍く重い剣身の悲鳴。
脅威の首が体を離れた。
赤い飛沫と髪からはずれた花が、ゆっくり宙を舞う。
まず首が。
おくれて体が、ごとりと崩れ落ちた。
緋色の床に群青の髪が散らばる。
その上に赤い花がふわりと乗った。
勝利を祝う合唱が、また足元から部屋を包む。
それに紛れて、「ありがとう」と、もう聞こえないはずの声が耳をかすめた。
ザムルーズが振り返る。
エミーナの微笑みは、彼に向いていた。