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君に深紅の花束を  作者: 小川 綾
■序章
1/60

プロローグ おわりのはじまり


 ……ありがとう。そう聞こえた気がして、男は振り返った。

 そこに落ちた首には、微笑みだけが、彼へと向いていた。



 先刻まで城壁を横なぐった雨は、黙って去っていった。空を塞いだ鉛色の雲が、散り散りと逃げていく。


 空一面に広がる茜の輝きが、夕刻を告げた。

 目が眩むほどの鮮やかな橙の光が、窓から差し込む。

 ――ここは、城のとある一室。

 そこにひとり、厳しい鎧で身を固めた男が立っていた。


 男の視線の先には、白いドレスの女が横たわっている。

 いや、緋色の絨毯に映えるほどドレスが白かったのは、わずかばかり過去のこと。それは時々刻々と、燃え立つような赤に塗り変わりつつあった。

 ドレスを染める、斜陽とも絨毯とも違う鮮烈な彩り。それは、()()()()()()のない女の首から、止めどなく溢れる血の赤だ。


首から零れる血は、息衝くほどに鮮やかだった。

白いドレスを染め、絨毯を這い、転がる首へと注がれていく。

それは、命を離れた体に――最後の温もりを与えるようだった。


 首から零れる血は、息衝くほどの鮮やかさで触れるものを染めていく。

 ドレスの白を、絨毯の緋色を、転がる己の頭までも。命を吹き込むように全てを赤で飲み込み、立ち尽くす男の足元で力尽きた。

 その隣で突き立つ剣から、赤いしずくが伝う。二つの赤は足元で混じり合い、ひとつの溜まりをなした。


 切り離された頭、動かない躯……女が息絶えているのは一目瞭然である。そして、二人しかいない部屋、男の右手に収まる血濡れた剣……女の息の根を止めたのが男なのも歴然だった。


 ただ、ひとり立つ男の瞳は喜びも悲しみも浮かばない。床で転がる女の満面の笑みだけを、虚ろな目に映していた。


 男にとって、その笑顔は見慣れたものだ。

 それもそのはず。ついひと月前までは、この女と将来を誓い合うほど近しかったのだから。

 幸せだった日々をあの頃と振り返るには近すぎる。まだ色褪せない思い出は瞬くより早く記憶に浮かび、心臓が早鐘を打った。

 しかし、今さら胸が高鳴ったとて……耐え難い苦痛しか覚えず、男はそっと目を逸らした。


 ――どうして、こんな、


 言いかけて、男はぐっと唇を噛む。怒りをぶつけても、愛を囁いても、女の唇はもう緩やかに弧を描くだけなのだ。

 すべて、終わってしまった。



 男の頬に、ぽたりと雫が落ちた。湿り気を含んだ風が、ガラスの割れた窓から押し入ってくる。

 それはむせかえるような戦火の残り香を撒き散らすついでに、床に広がるドレスの裾をぱさりとめくった。

 男がはっとして、それに目を向ける。

 堰を切ったように胸から湧き上がるのは……二人ですごした喜び、裏切りの憎しみ、逝ってしまった悲しみ。

 相容れない感情たちがひしめきあい、苦しくて、全部掻き出してしまいたい。

 なのに、指の先すら動かす気が起きない。


 ただ、煤けた後悔だけは鮮明に鼻を突き、目頭から悔しさが溢れだす。滲んだ視界でいつからこうなったと記憶を漁れば、辿り着くのは二人が袂を分かたった日だ。


 思い返せば、あの日は彼女の笑顔を見ていない。



****



 神の時代を語り継ぐのは誰か。

 その答えは神のみぞ知る。

 ここに確と、世界のはじまりは伝わる。


 この世界は、神の恩恵だ。

 恵みに富んだ大地も、育まれる生命も、全てが。


 世界を創造した神の名は、ラグナディール。


 その御身は、三つの大地に。

 その力は、三つの恵みに。

 その御心は、生命の種となる魂に。


 三つの大地に緑が芽生え、満ち、溢れる。


 陽の光の恵みは、闇を払う輝神となる。

 魂は肉の体を授かった。

 月明かりの恵みは、闇を灯す慈神となる。

 魂は心を授かった。

 光を縁取る闇の恵みは、闇を()く衡神となる。

 魂は知恵を授かった。


 肉の体から、力を。

 心から、情を。

 知恵から、欲を。


 魂は、それらを携えて。

 己の意思で命を営む、生き物へと姿を変えた。


 そして、命の交代がはじまった。


 強い力を得た生物は獣となる。

 弱きものを喰らい、縄張りを広げた。

 知恵をつけた生物は人となる。

 食われぬよう群れて、知恵を重ねた。


 やがて、集まった知恵は恩恵を当然と受け入れる。

 望む世界を創れる神の力に、魅せられ、欲しがり――神の筋道を外れていく。

 欲は際限なく膨らみ、神をも犯す大きな力となった。


 導きの手を振り払い、牙を剥いた非力で強欲な存在(ひと)

 神の嘆きは、宙から降り注ぐ氷の刃となった。

 神の悲しみは、天を走り地を穿つ雷となった。

 神の怒りは、生物から知恵を剥ぎ取った。


 人が築いた知恵は呆気なく崩れた。

 緑を焼き尽くす炎は消えない。

 獣も人も、欲のままのたうつ肉の塊に化けた。


 神の逆鱗から逃れた人々は、己の無力さを思い知り、誓った。

 同じ過ちを繰り返さぬように、神の偉大さと畏れを後代へ語り継いだ。


 ここからが、歴史のはじまりとなった。



****



 創造歴1000年。

 創造神ラグナディールを讃える節の第一日目。



 初日の光が差し込む港に、帆船が静かに浮かぶ。

 暁光が石造りの街並みを照らし、塗り重なった壁の漆喰が、長い年月で培った知恵を映し出していた。


 ここは、タルダント大陸。

 鉱物資源に恵まれ、技術の粋を集めた国――統括帝国メフィストフェレスが治める地。


 人が再び群れを成し、千年を迎えた。

 神の創りし三つの大陸には、いまや三つの国が築かれ、栄えるまでになっていた。


 ……ひと月前までは、そうだった。


 街に立ち並んでいた建物は、今や瓦礫に変わり果てている。

 港には煙が立ちこめ、船の影も見えない。


 世界のどこを見ても、同じ。

 緑に満ちていた大陸は、焦げた土に覆われていた。

 住処を追われ、狂った獣が人を喰らう。

 命の気配すら希薄で、人の姿は沈黙に溶けて、消えてしまった。


 その惨状は、絶えず語り継がれる神の怒りの再来を思わせる。

 だが、この惨禍をもたらしたのは神ではない。


 ――人の姿をまとう()()


 ごきげんようと微笑めば、消えない炎が渦巻き、緑を焼いた。

 こんにちはと手を振れば、氷の刃が街を裂いた。


 鼻歌交じりに命を攫っては、肉の塊を積み上げる。


  ()()が振るう力は、語り継がれる神の怒りそのもの。

 人のくくりを外れた『それ』を、人々は――脅威と呼んだ。



****



 世界は終焉を迎えつつある。もちろん、タルダント大陸も例外でない。

 帝国の北部に、首都と呼ぶにふさわしい景観を備えた街があった。

 美しく整った白の建物たちもいまや砕け散り、ひび割れた石畳が辛うじてそれの名残をとどめるだけだ。

 崩れた家屋の間に動く影はない。雨風だけが、縦横無尽に暴れ回る。

 残骸を殴りつける雨粒の音が、荒れすさんだ街を寒々しく覆っていた。


 どん!


 熱が爆ぜる耳障りな音が唐突に轟く。次いで、地を揺らす低い振動がびりびりと辺りを震わせた。

 音の出処は、国の要だった街を見下すようにそびえ立つ黒岩の城だ。

 城壁から立ちのぼる黒い煙が鈍色の雲と交わって、世界を重苦しく包み込んでいく。


 まるで、歴史に幕を引くかのように。


 絶望が漂う空気のなかを、再び城からの爆音がこだまする。かと思えば、突然の大きな雄叫びがそれをかき消した。


 叫んでいるのは、幾百にも及ぶ、鎧で身を固めた者たちだ。

 黒岩の城のへし折れた城門の前でひとしきり喊声をあげると、ひとつにまとまり……猛々しい流れを成しながら城内へとなだれ込んだ。

 進路を塞ぐ壁から対敵の全てに、おびただしい刀痕を刻む。廊下はもう立ち上がらない者で埋め尽くされていく。

 それでも彼らは勢いをとどめることなく、階下へと(くだ)っていった。



 地階からの衝撃が、石材で築かれた堅牢な大廈(たいか)を小刻みに揺らす。

 今にも崩れそうな城の、ひときわ揺れが激しい一室に、ひとり――白いドレスの女がいた。

 地下の衝突など気にもとめず、割れた窓からぼんやり雨を眺める。


 この女こそが、脅威と呼ばれる存在だ。


 風が女の気を引くように、ぴゅうと吹いた。窓枠に残っていたなけなしのガラスが、雨と一緒にきらきら舞って、白い靴の上に降りかかる。女はわずかに窓から身を引くも、物憂げな面持ちのまま曇天を眺めていた。


 女を「世界を揺るがす脅威」と見なせば、たかが一城の枠に収まるとは思えない。

 しかし、生身はなんの変哲もない女人の丈。もとより部屋を占めていた長机と十数の椅子を片さずとも、窓の前にちょこんと収まっていた。

 それなのに、どの椅子机も足を折ってはひれ伏している。ガラスのない窓に、掛かるカーテンはその半身を炎に食われていた。

 分厚い木の扉は平然とそれらを閉ざすようにみえて、釘一本のみで辛うじて壁にしがみついている。

 この部屋に堂々と立つのは、脅威(おんな)だけだった。



 強く吹き込んだ風に煽られ、カーテンが窓枠を手放した。炎に巻かれた布地は、ゆらゆらひらひらと落ちながら女の顔を明るく照らす。


 焔を映してもまだ白いままの肌に、深い海を思わせる青い瞳。張りのある頬を結ぶ唇は、みずみずしく膨らむ。質素な白いドレスが、風に踊る群青の髪をいっそう際立たせていた。

 その髪の上に、赤く細長い花弁を火花のように広げる花が一輪、挿されている。


 風でふわりと花が浮いた。

 女が手を添えた拍子に、遠くで床を刻む音が耳に滑り込む。急ぎ足の硬い音は、迷いなく大きくなっていく。

 女は扉を振り返りはしない。ただそわそわと、何度もその音に横目を滑らせた。

 程なくして……等身大になった靴の音は、部屋の前で止まる。

 女は深く息を吸い込むと、花を押さえていた手を離した。


 見計らったかのように、扉が断末魔を上げた。


 鉄靴を履いた足が、倒れた分厚い板を容赦なく踏み抜く。足の主は長い金色の髪をひとまとめにした、端正な顔立ちの青年だ。

 青年は部屋の最奥に立つ群青の髪を目にするやいなや、すぐ腰の剣に手をかける。


「ふふ、久しぶりね。ようこそザムルーズ」

 女は背を向けたままザムルーズを迎えた。


 その親しげな呼びかけを聞くなり、ザムルーズの整った顔が一瞬で歪む。

「……お前に馴れ馴れしく呼ばれる覚えはない」

「あら、なによ」

 女はようやく振り向くと、わざとらしく頬をぷくりと膨らませた。

「婚約者に対して冷たいんじゃない?」

「元だ。自分で棄てたくせに」

 女のおどけた仕草にも、ザムルーズは寄せたしわひとつ崩さない。それどころか切れ長の目をさらに鋭くし、あどけなさを装う女を睨みつける。

「あら、そうだったかしらね?」

 女は頬にためた息を吐き出すと、とぼけて視線を逸らした。


 言葉を交わすには遠い距離を縮めることなく、二人は向き合う。

 床で燻るカーテンの燃え残りが、やけにぱちぱちと存在を主張した。


 シュッ――と、金属の滑る音が耳障りな静けさをかき消す。


「……駄弁(おしゃべり)は満足したか?」

 ザムルーズはわざと音をたて抜いた剣の先を、まっすぐ女の方へ突きつけた。

「ここまでだ、エミーナ。いや……『脅威』と呼ぶべきか? そういえば『黄昏の魔女』なんて呼び名もあったな」

「お好きなように。それより……なにそれ? そんなもので私をどうにかできると思うの?」

 エミーナは切っ先を鼻で笑いながら、刃先に向けてすっと腕を伸ばす。

 エミーナの手のひらから、ぱらぱらと火の粉が散ったかと思えば――瞬く間に手を芯として燃え盛る、大きな炎となった。


 間合いがあるにも関わらず、凄まじい熱気がザムルーズの身を圧する。


 彼女は目の前で、一切の理を無視し無から事象(ほのお)を創り出した。

 その姿は皆が恐れる脅威そのもので、ザムルーズの額を嫌な汗が伝う。

 ばちっと火の粉が飛んだ拍子に、進む以外を捨てたはずの靴がきゅっと悲鳴をあげて後ずさった。


 それでも、構えだけは崩さないように剣を持つ右手をぐっと握りしめる。わずかに震える左手は、腰にぶら下げた荷袋に隠した……かと思えば、すぐ何かを引っ張り出した。


 手の中にあったのは、脚のついた銀の杯だった。


「杯よ! あの力を消してくれ!」

 ザムルーズは叫ぶが早いかそれを掲げる。

 びしっ! と。

 ガラスにひびが入るような鋭い音が響き、エミーナの手を覆っていた炎は杯に吸い込まれ……消えた。


 エミーナは伸ばすだけになった手をひらひらと振る。ただ白い手だけが揺れた。

「なるほど。いい仕事するわね、それ」

 エミーナは杯の力に感心して、さっさと腕を引く。それを見届けてからザムルーズも杯をしまった。

「自分で用意した物にやられる気分はどうだ? これでもう、お前は力を使えない!」

 言い切った勢いに合わせ、一歩踏み込みながら剣を前に突き出す。

 エミーナは切っ先から目を離さないものの、面倒くさそうにゆっくり息を吐いた。


 互いに動かず、言葉もない。

 降りしきる雨の跳ねる音が、部屋を満たす。



 ふいに、階下の衝撃が大きな歓声に変わった。

 喜びと労いが入り交じる声に誘われ、ザムルーズは足元に視線を落とす。それと一緒に床に垂れた剣の先を、エミーナも目で追った。

「暴虐の王は、終わった、か……」

「あら、イーサー負けちゃったのね」

 エミーナはどうでもいいように言い捨てると、すぐザムルーズに視線を戻す。

 ザムルーズはまだ階下を見たままだ。

 ただ、さっきまで微塵も緩まなかった頬が、誇らしげに深く窪んでいた。


 その笑顔はエミーナの消せない思い出を、否応なしに引きずりだす。破れそうなほど胸が脈打ち、余裕を気取っていた唇がわずかに綻んだ。

 エミーナは慌てて口元を手で覆う。

 ザムルーズは、見ていない。

 エミーナは緩んだ唇をそっと噛み締め、手を下ろした。



「さて」

 階下の凱歌に促され、ザムルーズは視線を前に戻す。

「残るはお前だけだ」

 再び頬を引き締めると、床に落としていた剣の先を倒すべき敵に向けた。


 エミーナは軽く笑って両腕をぷらぷらと揺らす。

「お好きにどうぞ」

「……何を企んでる?」

「なぁんにも。力も使えないし、イーサーもいなくなった。現実を受けいれたのよ」

 言い終えるとエミーナは瞼を下ろし、ザムルーズの勘ぐるような視線を遮った。


 今さら負けを認めたエミーナの態度には違和感を覚える。だが、彼女の言うとおりだ。

 脅威たる力も、共謀者である暴虐の王(イーサー)も封じた。他に味方はなく、武術の類もからっきしなエミーナにもう打つ手などない。

 ザムルーズの腕なら逃げる気のない彼女に近づいて、たった一太刀、剣を振り抜けば終わる。


 そう頭でわかっているのに……はじめの一歩が出ない。


 動かない足に代わり、ザムルーズの口が動いた。

「……最期くらい、言うこと、あるだろ?」



 エミーナが目を見開く。


 少しそっけなく、乱暴で、小刻みに震えた声。

 黄金色の鋭い眼差しは瞼を閉じる前と変わらず、一切の詮索を拒んでいる。

 だが、エミーナの聞き違いではないとわかる。


 なぜなら彼は、()()()いる。


 最期の言葉を問うザムルーズの、あれほど頼りない声は初めて聞いた。

 ――馬鹿ね私、彼を裏切ったんだから別れを惜しむはずないじゃない。

 エミーナは自分に言い聞かせる。しかし、思い出で溢れかえる心は都合よく取り違えたがって、押し殺してきた気持ちがどっと込み上げた。

「ずっと……」

 声を発したとたん、ザムルーズの眉間にしわが寄る。

 エミーナは、はっと息を呑んだ。


 きっと彼はこのひと月で、多くの大切なものを失ってきただろう。それがどれだけ辛くても、今のように瞳を逸らさずここにたどり着いた。

 どうかこの先も、まっすぐ前を向いていて欲しいとエミーナは願う。

 だからもう、想いは声にしない。

 エミーナは吐きかけた本音をぐっと飲み下した。


「……後世に語り継ぎなさい。世界に脅威をもたらした、黄昏の魔女という存在を。私の魂は神の力の源であり不滅。たとえ(うつわ)を失おうと、人がまた愚かしく神の力を欲すれば私は蘇り、再び世界に脅威をもたらすでしょう」

 皆が脅威と認識する自分に見合った台詞を考えながら、つい髪に手をやる。指先に、風で浮いてずれたままの花が触れた。


 エミーナはこの赤い花が好きだ。色も形も特性も……なにより、エミーナの人生にこの上ない幸福を運んでくれた。

 結局、その幸せは自ら手放してしまった。

 後悔はない。

 ただ、ささやかな願いはある。


「……また、未来で会いましょう。英雄様(ザムルーズ)

 名を呼んだ声が少し上擦った。ザムルーズがぎゅっと目をつぶる。エミーナはそれを見て見ない振りで、花を髪に挿し直し、また静かに瞼を閉じた。



 ザムルーズは頭をひと振りしてから目を開き、剣の狙いを悠然と立つエミーナの白い首へと定める。

 いつの間にか、剣を持つ手が汗でぐっしょりと濡れていた。拭いもせず柄を握り直す。全てを投げ出したくなる衝動を奥歯にぐっと挟んで、踏み出すつま先に力を込めた。


「さよなら、エミーナ」

 息だけで呟き、ザムルーズは正面から一直線に駆け込む。

 視界が現実を拒む前に――渾身の力で、一気に剣を振り抜いた。



 一閃。



 絶えなく響いていた歓声が、ふと途切れる。

 代わりに響くのは、絶望を断ち切る鈍く重い剣身の悲鳴。

 脅威の首が体を離れた。

 赤い飛沫と髪からはずれた花が、ゆっくり宙を舞う。


 まず首が。

 おくれて体が、ごとりと崩れ落ちた。

 緋色の床に群青の髪が散らばる。

 その上に赤い花がふわりと乗った。


 勝利を祝う合唱が、また足元から部屋を包む。

 それに紛れて、「ありがとう」と、もう聞こえないはずの声が耳をかすめた。


 ザムルーズが振り返る。



 エミーナの微笑みは、彼に向いていた。

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