第一節 今の世界
2026/06/26 改稿しました。
創造歴1600年。
昼日国は今日も、晴れ。
普段から人で賑わう城下街は、昨日の祭りの余韻が残りいっそう騒がしい。
あちらこちらで英雄ザムルーズを讃える歌が口ずさまれ、屋台からは肉串の焼けた匂いが鼻をくすぐる。
そんな外の陽気など一切跳ね除け、窓のない部屋で玉座にうずくまる男がいる。茶色い巻き毛を両手で抱えながら、じっと部屋の扉を睨んでいた。
視線で開けと圧しても、扉は知らぬ顔で閉じたまま。
男はため息をつく。
ばん!
扉が勢いよく左右に開いた。
吐きかけの息を詰まらせ男はむせ返る。現れた熟年の騎士は気にせず、玉座が据えられた段の前で片膝をついた。
「陛下! 件の間者が戻りました!」
玉座の男は立ち上がり……しばらく咳き込んでから、
「よ、ようやく……帰ったか……!」
切れ切れに声を絞りだした。
****
——時は遡り、数日前。
夕刻の昼日国城は勤めを終えた軽い足音で賑わしい。
しかし、謁見室の空気はことさら重い。
「……本当に、間違いなくレグからか?」
玉座で口を開いた茶色の巻き毛の男は、昼日国王リアム。
そのすぐ傍らに立つ片眼鏡の老爺が頷いた。
「短い走り書きですが、字の癖はほぼ間違いなく彼かと」
「ならローガン、読み上げてくれ」
「かしこまりました」
ローガンは手にした紙切れを広げ、片眼鏡をくいと上げた。
――帰城。ラグナディール節、上月、十九日――
役目を終えた紙切れがローガンの懐に消えるのを横目で追い、リアムは腕を組む。
「明後日、ですか」
玉座の正面に立つ、茶色の騎士服をまとう壮年の男が小さく唸った。
「平和記念の日とは、また間の悪い……」
「カールデン」
愚痴じみた呟きをリアムが制する。
「間の問題ではない、最大の警戒を」
「失礼いたしました」
カールデンは素直に頭を下げる。赤の騎士服が窮屈そうな熟年の男が、隣で垂れる茶髪を見下ろした。
「カールデン、街の警備も近衛で引き受けられるか?」
その言葉でカールデンはゆっくり頭を上げ、筋肉ではち切れそうな赤の騎士服に目を向ける。
「余力はあるが……騎士団はどうするんだ? ジルベルト」
「野獣の繁殖期なんでな。ギルドも追いついておらん」
ジルベルトは言葉を区切ると小さく息を吐き、
「まぁ、魔獣でなければいい。あの光景は二度と見たくない」
と吐き捨てた。
住民の阿鼻叫喚、倒れる騎士たち、地面を覆う血。
短くない時を経ても、鮮明によみがえる。
全員が唇を噛み締めた。
「……当然だ。騎士も、民も……いったい何百人が犠牲になったと思っている……」
部屋の静けさを損なわないような低いカールデンの声は、わずかに震えていた。
雑談を交わす声が近づき、遠ざかる。
「だからこそ、レグたちを帝国に送った」
三人は玉座へ顔を向けた。
「話を戻そう。魔獣と帝国の繋がりを探る、昼日国の未来のためにもこれが最優先だ」
リアムはひとつ、咳払いをした。
「ましてや、この十年で……帝国の情報を持ち帰れたのはレグだけ」
大きな瞳で集まる視線を順に受け止めると、ぎゅっと細める。
「必ず、生かしてこの城へ」
「御意」
三老は静かに頭を下げた。
****
——そうして、今に至る。
リアムはそっと玉座に腰を下ろした。まだいがらっぽい喉に、ゆっくり空気を通す。
「レグたちは……無事か?」
片膝をついたまま、ジルベルトは玉座を見上げた。
「彼らはひとまず医務室へ運びました」
わずかに安堵の息がもれる口元から目を離さない。
「送り込んだ間者六名のうち、帰還したのは二名。レグとオーツです」
リアムの口がきゅっと締まった。
「オーツの火傷は内蔵に及んでおり、厳しい状況です」
「すぐに聖女の依頼を!」
言うが早いか、リアムが立ち上がる。勢いのまま振った腕が、羽織を大きく揺らした。
「なんとしてでも持ちこたえさせろ!」
「はっ!」
間髪入れず頷き、
「比較的傷の浅いレグからは『残りの四人は帰路で死亡した』と報告を受けております」
リアムの腰が、すとんと玉座に落ちた。
「はは……」
ジルベルトの短い言葉が耳でこだまし、視線が床を離れない。涙が鼻の奥から目頭を抜けようとする。
それを押し戻すように、リアムは額に手を当てた。
「命の重さは等しいからこそ、残酷だな」
「天秤は重い方に傾く、変えられない理です」
リアムは込み上げた怒りに任せてジルベルトを睨む。
命の散るさまを何度も目にしてきた老将の瞳は揺るがない。
「ただ、お気持ちはお察しします」
玉座から天井を仰ぎ見て、軽く目を擦るとリアムは正面に顔を戻した。
「……四人の大義は永遠に、私の胸に刻もう」
弱々しくもはっきりと言い切る。ジルベルトがわずかに目を細めた。
英雄を讃える奏がうっすらと鼓膜を揺らす。
リアムは玉座にかけなおし、頬の筋肉に力を入れた。
「話を聞きたいが、レグはどうだ?」
「現状立つのもままならず、安静が必要かと」
ほんのわずかに眉尻が落ちる。
「……ならば、彼の回復を待とう」
「レグ自身は一刻も早い謁見を望んでおり、『城内であれば』と医師の許可はとりました」
リアムは元々大きな目をさらに押し開いた。本音を射抜くような視線が胡桃色の瞳を捉える。
閉め切られた部屋が、今さら息苦しい。
気まずさを紛らわすように手が巻き毛を掴み、丸まる毛先を指に絡めた。払った拍子に、手が背もたれに当たる。
赤くて煌びやかで、世界に一つしかない椅子。
この椅子は、王しか座れない。
背の力を玉座に預け、リアムはふっと笑う。
「なぜジルベルトが鬼団長って呼ばれているか、少しだけ分かったよ」
巻き毛を掴んでいた手で、肘掛を強く叩いた。
「レグを謁見室に呼んでくれ」
「仰せのままに」
ジルベルトはうやうやしく頭を垂れた。
玉座の後ろ壁に掛かるカーテンが、風もないのに揺れる。
布擦れの音を合図にして、ジルベルトが立ち上がった。
勇ましい赤の騎士服の背を見て「あ」とリアムが引き止める。
「それと、アレクも呼んで……」
振り向いた鬼団長の眉尻が跳ね上がった。
続きがリアムの口に逃げ帰る。いったん全部飲み込んで、
「……アレク、サンダーも呼んでくれ」
選んだ言葉を慎重に連ねた。
ジルベルトはふんと鼻を鳴らす。
「一介の騎士を呼ぶ場ではありません」
「そう言って、この間も呼んでくれなかったじゃないか……この件に関して、彼は特別だ。知ってるだろう?」
しどろもどろになりながらも、折れそうにない屈強な騎士に食らいつく。
威嚇する子犬のような丸い瞳を眺め、ジルベルトはほんの少し口角を上げた。
「ならば、レグを連れ戻るまでに会えば伝えましょう」
ぽかんと口を開けるリアムを気に止めることなく、くるりと身を翻す。
ジルベルトはざっざっと勇ましい音を響かせ、謁見室を出ていった。
扉がぱたんと鳴り、謁見室は静けさを取り戻す。
リアムは大きく息を吐き、玉座に背を押し付けた。
——ようやく、ここまで来た。
高ぶる気持ちがおさまらず、手の甲を瞼になすりつける。
遠くでかすかに太鼓が鳴っている。
ほどよい静寂と手の温もりが心地よく、リアムはそのまま身を預けた。
幾度か深呼吸を繰り返したころ。
きぃと、不快な音が耳をかすめた。
軋む音は少しずつ近づき、やがて車輪だと気づく。
リアムははっとして、視界を遮る手をのけた。
ぼやけた視界に謁見室の重厚な扉が映る。
あれは、現実と凶夢の境目を引き連れる音だ。
この扉が開けば、平穏という化けの皮は剥がれ落ちる。
リアムの額に、嫌な汗がじんわり滲んだ。
――それでも、引き返す気はない。
扉を見つめ、そっと額を拭った。




