手順を踏んで……
「シューズ家のなかでも、君が世話になっていたあの一家は、もともとそんなに裕福じゃなかった。それがいつの間にか、邸を建て増しし、旅行へ行き、年に数回しか洗濯をしない、贅沢な暮らしに変化していった」
〈化学宮〉の控え室のひとつに、ウールは居た。すでに石鹸卿と、石鹸卿のいとこの妻だというとても優しいまっしろい石鹸に丁寧に洗ってもらい、彼女は生まれ変わったように清潔になっていた。
石鹸卿はぬけめない。それに、洗濯含む洗いものに対して、ホットプロセスのような熱い気持ちを持っていた。
三十度ほどのぬるま湯にせっけんを溶かし、ウールをそこへいれて、優しく押し洗いしてくれた。長年の汚れは一度では落ちなかったけれど、石鹸卿は体を細らせてもウールを綺麗にしたいと、頑張ってくれた。
おかげで石鹸卿はかなり小さくなってしまったが、今、厨房であたらしい石鹸素地と一緒に枠にはいっている。なんにも心配要らないから、縮まないでいいのよと、石鹸卿の亡きいとこの妻、ヘットはウールが縮まないようにうすめた酢水をかけてくれた。自分がべたべたになるのも厭わずに。
清潔になったことで、はっきりしなかったウールの模様があらわになっていた。彼女は純毛製の、まことに素晴らしい編み物だった。純毛であることが信じられないような、薔薇やマーガレットを模した繊細な模様が編み込まれ、ピコットや見かけのピコットやスプリット編み、モックリングにジョセフィンノット、あらゆる種類のピコつなぎがつかわれた、実に豪華な。
彼女は本来、マットはマットでも、華奢な花瓶や皿の下に敷かれるような細工が施された、しかし頑丈な素晴らしい編み物だったのだ。
執政皇太子は、傍らに控えた側近のマングル卿に手を伸ばした。マングル卿は少々おそろしい見た目なので、ウールはあまり見ないようにしている。落ち着かないので、しばらく前に自分で編み足したブリッジをなんとなく触っていた。見ているだけでもフェルトになってしまいそうな気がしてくるのだ。
彼女はバスタオルに包まれていた。ウールをきつくしぼるのは縮む要因だそうで、乾いたバスタオルでつつみ、バスタオルが濡れたらあたらしいものにかえるというのを先程から繰り返している。ヘットがウールの後見人のように傍に控えていて、度々割ってはいってはそれをしてくれている。勿論、その際には男性陣は礼儀正しく顔を背けてくれた。
マングル卿が殿下へ紙束を渡す。なにかの成分表示だろうか?
「君が一家にひきとられた時期と、一家の暮らしが派手になりはじめた時期が重なるんだ」
「はあ……」
「君がマット家の女相続人だと云うことは?」
ウールは絶句した。
ウールはマット家の生き残りだった。
マット家は古くからの家柄だが、徐々に数を減らし、「ランチョン・マット」「バス・マット」「ヨガ・マット」「ジムナスティックス・マット」「カッティング・マット」などが生き残るのみであった。
しかし、ヨガ・マットとフラノ・マットの間に生まれたウールを残し、一族は失踪したり死んでしまったり、姿を消した。「需要がなくなっている」と震える字で書き残した者もあったという。
ウールはマット家の、条件付き相続人になった。結婚したらウール家の財産を自由にでき、男児ができたら跡を継がせて「敷物卿」を引き継がせることができる。
「ところが、たまたま一番の近親だったあの一家は、君を預かるやいなやマット家の財産を勝手につかうようになった。後見人だったから自由にできたんだ」
「そんな……」
「勿論、君が結婚したら、卑劣なつかいこみが露見してしまう。ということで、彼らは君が間違っても結婚しないよう、体を清潔にすることに対して苦手意識を持つように仕向けた。君のその素晴らしい編み目も模様も、汚れていて誰にも見えないように」
ウールは言葉もなかった。自分が今の今まで信じていたものはなんだったのだろう?
レインやレインの両親は意地が悪かった。でもそれは、なにもできない自分にお金がかかるからだと思っていた。なのに、実際にはあの一家の暮らしをまかなっていたのが自分だという。
うろたえるウールに、ヘットがそっと、乾いたタオルをかぶせてくれた。まだ水気が残っているのだ。
「信じられません」ウールは編み目を縮める。雫が滴った。それが涙なのか、ウールをやわらかくしてくれたうすい酢水なのか、それは彼女以外にはわかるまい。「それじゃあ、わたしは、意味もなく意地悪をされていたんですか」
「それは正しくないな。君が結婚しないように、君の云うところの意地悪をしていたんだ。世の男性が君に目をとめないように。しかし、意地悪とは、なんとも穏やかな言葉だ。君がされていたのは虐待だよ」
「――あまり、わたしの未来の妻を怯えさせないでもらえますか、殿下」
石鹸卿はそう云いながら這入ってくると、まあたらしい顔を軽くしかめた。
石鹸卿は以前のような、横長のラウンドスクエア型の顔ではなく、すべての面がほぼ同じ大きさの立方体の顔だった。石鹸卿の一族の若者――透き通るキャスターや、石頭とあだなされるオレンジ色のレッドパームなど――のような形状だ。それに、真っ白ではない。
「ラウンドスクエアがよかったんだが、ソープボックスを持ってこなかった。厨房にあるのは我が一族の若者がばかをした時に形を整える、野暮ったいものだけで……ヘット、折角笑いをこらえるならもう少し控えめにしてもらえまいか?」
「あら失礼」ヘットは軽く左右に揺れる。「子どもの頃に戻ったみたいだったものだから。あなた、角が欠けたと大騒ぎしたことがあったわよね? わたしの夫のケンネと喧嘩して? 昔はその鋭い角がご自慢だったんだから、いいじゃないの」
石鹸卿はむっつりと黙って、ヘットを睨む。ヘットは肩をすくめた。いとこの妻が口を噤んだので、石鹸卿は溜め息まじりながら本来云いたかったことを付け加えた。
「厨房の連中は怠けていたと見える。ファットだし、塩析もしていなかった。その上でここにあったものにはいったから、不格好になってしまっているが、君の婚約者が水分と結びついて汗をかいてもしばらくは我慢してほしい、マット嬢。さいわいphは危険のない度数だ」
「そんな。我慢なんて、滅相もありません」
ウールは急き込んで云う。頭を振ると、しぶきが数滴飛んだ。
「あの、とっても素敵です、石鹸卿。いいえ、石鹸卿はいつだってすてきで……」
石鹸卿は虚を突かれ、うろたえたが、苦笑いした。「厨房の者に謝らなくてはならないらしい」
ウールの体は縮むことなくきちんと乾き、ふたりは腕を組んで広間へ戻っていた。これから陛下への謁見だ。
ウールのドレスは、ヘットの娘のバターが丁寧に洗い上げ、きちんと乾かしてくれたので、汚れはひとつもなく張りがあって素晴らしく、目を惹いた。
バターはウールに優しかった。ウールが石鹸卿と結婚すれば、バターの弟であるギーが石鹸卿の相続ができなくなるかもしれないのに、彼女は優しく、おじさまの鹸化価は104よ、忘れないでね、と教えてくれさえした。グラム換算で0.074だと。ウールはヘットとバターの優しい言葉、気遣わしげな手付きを思い出し、なんとも云えないしあわせな気分を覚えた。
是非、マット家の現在最後のひとりに会いたい、と、陛下がはしゃいでらしたと、ふたりは殿下から聴いている。
アルキルナフタリンスルホン酸塩の陛下は、化粧水卿や乳化卿と同年代で、そこに少し歳が下のウールの母親フラノと、叔母にあたるウーステッドがまざって、よく五人で狐狩りに行っていたらしい。化粧水卿と乳化卿がウールをじっと見ていたのは、フラノとウーステッドの姉妹を思い出してだし、姉妹について石鹸卿はふたりに訊ねた。
フラノとウーステッドは、ファブリック家の美人姉妹として、社交界に名をはせていたそうだ。ウールは知らぬうちに、自分の親戚と親しくなっていたのである。
勿論女性陣は狐狩りを見ているだけだが、フラノとウーステッドと陛下は編み物の腕を競って、狐狩りよりもそれが楽しかったと陛下がおっしゃたことがあるとか。
ウールをうんですぐに、事故に遭って亡くなったフラノと、編み物好きがきっかけでノッティング家に嫁いだが、産褥熱で亡くなってしまったウーステッドのお葬式には、陛下が織機を贈ってくださったそうだ。
レインの両親が捕まったことなどなかったかのように、広間では皆、楽しそうに歓談している。レインは姿がないが、ミセス・ステープルファイバーと一緒に、控え室に居るらしい。今後の沙汰次第だが、彼女はシューズ家の遠縁の家にひきとられるだろうと殿下は話していた。マット家のことやレインの両親がやったことを聴かされていても、ウールはレインのことを気の毒に感じた。
レインだって、根っから悪い子ではないのだ。レインの両親も、ウールをばらばらに解いてしまうことだってできたのにしなかった。少しだけでも彼らの良心が残っていることを、ウールは誰ともなく感謝している。
預かった女相続人の財産をつかいこんでいたレインの両親は、取り調べを受けている頃だ。シューズ家の財産になっていたものがこれから、売却され、或いはそのままの形で、ウールのもとへ戻ってくる。
「君が失った額に比べれば微々たるものだろうが」
石鹸卿はそう云いながら、顔をしかめた。「まあ、10gでも苛性ソーダは苛性ソーダだ、とも云うし、少しでも戻ればましなのかもしれないな」
納得はいかないが、ウールは優しい子だ。あまり感情を揺さぶるような、復讐心をあおるようなことは云いたくない。石鹸卿はまっしかくの顔に、できるだけ柔らかい表情をうかべた。
ウールはそれを見て微笑む。このひとはなんて優しくて、なんて心の豊かなひとだろう。自分もなにか、鷹揚なところを見せたい。
ウールは迷った揚げ句、はにかんで編み目をがたがたにしながら云った。
「はい。ほんとうによかったです。だって、苛性ソーダ10gではなくて、苛性ソーダを何百gもつかってできあがるかたをもらえたのだから」