アールス・ブランブルーム③
姉のセシルが嫁ぎ、半年ほどで生まれたのは男爵家待望の男子だった。名をディアスという。
男爵は手放しで喜んだらしいが、第一夫人の心境たるや複雑なものだっただろう。
第一夫人の子は二人いたが、どちらも女子であり、必然的にセシルの子であるディアスが跡取りの第一候補に躍り出たのだから。
これで第一夫人に男子が生まれることがあれば、また違ったかもしれない。
この国では、どれだけ妻がいようが、家督を継ぐ優先権は第一に男子、第二に妻の序列なのである。
もしも第一夫人が男子を生めば、その瞬間にディアスは跡取りの第二候補となる。
ところが、運命とは思い通りに動かない。
ディアスが生まれて間もなく、男爵が体調不良を訴えた。
初めは軽い目眩や倦怠感が続き、一度床についたところですっかり起き上がれなくなってしまったようだ。
そのまま少しずつ衰弱し、とうとうセシルが嫁いでから僅か二年で亡くなってしまった。
これで、ディアスが正式に男爵家の家督を継いだ――のであれば、話はここで終わっていたかもしれない。
だが、貴族議会から届いた爵位継承に関する書類には、驚くべきことが記されていた。
男爵位の継承権は、第一夫人の長女にあるというのだ。
正確には、将来長女の夫となるべき人物に譲渡されるまでの仮継承ということらしい。
議会によれば、直系子孫により十代以上続く子爵位までの下位貴族に限り、直系男子がいなければ女子に爵位継承権が発生するのだという。
血と伝統を重んじる貴族議会では、下位の貴族家こそ直系の血を繋ぐことが重要との考えがあるようだ。
庶子や傍流など、どこの血筋ともわからない者が貴族社会の末端に入り込むのを防ぐための措置なのだろう。
だだしこれは、五年以内にその女子が婿をとる場合のみ例外的に適応される。
第一夫人の長女は十歳。五年もすれば、まさに適齢期だ。
そういった理由から、貴族議会は長女に男爵位の継承を条件付きで許可する書類を送ってきたのだ。
では、ディアスはどうなのかといえば。
実は男爵は、議会にセシルとの婚姻の書類を提出していなかったのだ。
つまりセシルは第二夫人ではなくただの妾で、ディアスは庶子という扱いである。
継承権など最初から持っていなかった。
これには関係者全員が驚いたが、第一夫人にとっては思いがけず転がり込んできた幸運以外のなにものでもない。
勿論、セシルとディアスにとってはただの不幸でしかなかったが。
今となっては亡き男爵が何を思ったのかはわからないが、これは大変なことになる。
一時は、愛人に夫の寵愛も家督を継ぐ権利も奪われていた第一夫人だ。
セシルを仇敵のように思い、方々の茶会で第二夫人の悪口を隠すこともなく披露していたことは誰もが知っている。
今までは男爵の手前大人しくしていたが、彼女がこの好機を逃すはずもない。
とはいえ、セシルは侯爵家の娘だ。
実家の方から圧力をかけられれば、男爵家などひとたまりもない。
すわ、未亡人と妾の戦争か――誰もがそう思い、片田舎の男爵家が俄に国中の注目を浴びた。
しかし大方の予想とは裏腹に、そういったことは起こらなかった。
早々にセシルが白旗をあげて実家へと出戻ったからだ。
少し考えれば、苦労して男爵家に居座るよりも、侯爵家に戻った方がセシルの生活は楽になる。
国中で膨れ上がった、好奇の視線に晒される醜聞さえ気にしなければ、だが。
きっとセシルは今更醜聞の一つ二つどうということもなかったのだろう。
しかし、あっさりと実家に戻ったセシルとは対照的に、侯爵は醜聞に耐えられなかったようだ。
侯爵はセシルの嫁入り騒動のとき、体調不良という方便を使ったために王都の貴族社会から見事に脱落した。
そして度重なる醜聞にとうとう耐え切れなくなったのか、本当に体調を崩して寝込んでしまったのだ。
原因不明の発熱、倦怠感、食欲不振、目眩、悪寒などが続き、体が痺れて動かなくなる。
薬の一切も効かない。
医者は心因性のものであると匙を投げた。
アールスが実家に戻ったとき、あの威厳ある父の姿はなく、年齢よりも二十は老けて見える痩せ衰えた老人のようになった父が虚ろな瞳をしているだけだった。
実家の父や姉が大変なときに、アールスはといえば暢気に剣の稽古に明け暮れていた。
貴族令息として嗜む程度だった剣技も、六年間の騎士学校生活でそれなりの腕前になった。
士官するつもりはないが、いずれ爵位を継いだときに役立つだろうと、戦術や人心掌握術、歴史、貴族系譜、宮廷マナーなども意欲的に学んでいた。
学友たちのように隠れて休日に街に繰り出すこともなく、自己研鑽に勤しんだことが、結果的にブランブルーム家の情報を遮断することになる。
勿論、街の噂でブランブルーム家の内情を知る学友もいたのであろうが、彼らは学生とはいえ騎士道精神に溢れ、口さがない噂や陰口を決して表に出すことはなかった。
アールス自身に好奇心を持って近付く者はいない。
仮に、悪意を持ってそういうことをする者がいたとしても、それはアールスの元に辿り着く前に多数の善良な学生によって排除された。
要は、アールスは周りの気遣いにより何も知らずにぬくぬくと楽しい学生生活を送っていたのである。
そのことに彼自身が気付いたのは、無事に学園を卒業してからであった。
死の影が色濃く覆う父、感情を押し込めた貴族の微笑みを湛えた姉と何も知らず無邪気に笑う甥、数を減らし疲れ切った顔で頭を下げる使用人たち。
アールスはそれら全てに愕然とし、不甲斐ない己に唇を噛んだ。
そして、そんなアールスを嘲弄しツケを払えとでもいうように、運命は父の命を容赦なく取り立てていった。