幸せはまどろみの中に
今私は夢を見ている。
見慣れた夢だ。
こうも毎日のように見ていると流石にすぐに夢だと気づいてしまうけれど、それでも私はこの思い出を延々と繰り返し見続ける。
幸せだったあの頃。
もう取り戻せないあの頃の夢を。
多少の不満や不安は勿論あったけれど、それでもこの身から溢れそうなぐらいの幸福感に満たされていた毎日。
愛する人が居て、愛する我が子たちが居た。
望めばすぐに手が届く範囲にあった。
上の子は勝気でわんぱくで、でもとっても思いやりがある素直な良い子で。
下の子は淋しがりやで甘えん坊で、でもすごく賢い良い子で。
あの人は頼り甲斐があるのに不器用で、そしてとても愛しい人。
いつだって私の側にいてくれた、私の大事な大事な家族たち。
この楽しくて懐かしくて寂しい思い出に浸れるならば、私は永遠に眠っていられるだろう。
それすらも叶わぬ身であるけれど。
いつも最初はあの夜からだ。
崩れかけたビル群の間。
ボロボロに寂れた公園の隅っこで、『昔』の私を抱えて見下ろす若い頃のあの人。
『大丈夫か? お前』
『う、うん。ありがとう……』
見惚れながらその顔を凝視する若い頃の、そして『人間』だった頃の私が居る。
最初の出会いだ。
この出会いのあったあの夜に、私は幸せの尻尾を掴んだのだ。忘れる事なんてありえない。
やがて場面が切り替わり、血だらけのあの人が私の肩を抱いて居る。
『助けてって言えよ! お前の為なら俺は! なんだってしてやる!』
傷だらけになりながら、歯を食いしばりながら私を守ってくれた最愛の人。
『ひっく……た、助けてぇ……私を助けてぇ!』
涙を流しながらその胸に守られる私。
この想いを自覚し、そしてそれが確実な物になったあの夜。
深い絶望から私を掬い上げてくれただけじゃなく光へと導いてくれた私の王子様。
何年経ってもこの想いは色褪せない。むしろ時が経てば経つほどに強く重くなっていく。
晃平くん……。晃平くん、晃平くん!
晃平くん!!
決して聞こえることのない叫びを上げて、そこには居るはずの無い『今』の私が手を伸ばす。
指先は無情にも霞へと変わり、思い出の中の私たちは遠く彼方へ消えていく。
あぁ、やっぱり届かない。
もう何度同じ事を繰り返しているのかも分からないけれど、私は何度だってあの人を求めている。
たとえそれが私の無意識に描いた思い出の虚像であっても、目の前に晃平くんが居るならば私はきっと求め続けるだろう。
会いたいよ。
逢って触れたいよ……晃平くん。
やがて場面は変わり、真っ白な強い光を放つ部屋になった。
ここは分娩室だ。
そこにいるのは私と、私の手をしっかりと握る晃平くんと看護師さんとお医者様。
汗と涙と鼻水にまみれて悲鳴をあげながら、苦悶の表情を浮かべる私を青ざめた顔の晃平くんがずっと励まし続けている。
やがて私の声が一際大きく室内に響き渡り、それを聞いた晃平くんはより血の気を失ってお医者様を見た。
心配性の癖に、無理しちゃって。
やがて聞こえてくる、私達が待ちに待った声。
『ふにぇ! んにゃぁあああああああ!』
元気な産声を上げて、私の宝物はこの世に生を受けた。
真っ赤なお猿さんみたいだったけど、とても可愛らしい男の子。
手をぎゅっと握り口を大きく開けて、一生懸命に私を呼ぶその姿に涙した。
お医者様から息子を手渡された晃平くんは慌てながら、そしてビクビクしながらその胸に抱き、人目も憚らずにワンワンと泣いた。
途切れそうな意識をつなぎ合わせて、荒い息を整えながらその光景を見逃さないようしっかりと見る。
『ああ……俺達の子だぜ? 俺と、お前の子だってよぉ。しっんじらんねぇよなぁ。ああ、くっそ。スッゲェ可愛い……』
『はぁ……はぁ……もうっ、泣きすぎだってばぁ』
そういう私だって感極まってしまっていたけれど、晃平くんには負けたと思う。
『ほら、母ちゃんだぞ』
『んびぇええっ! んびゃああああ!』
そういって晃平さんは私に子供を優しく預けた。
その小さな背中に腕を回し、胸の上で重さを感じ取る。
震えて泣き続けるその頭に軽くキスをして、そっと頬を添えた。
『かあさん、だよ?』
『んびゃぁぁああああ!』
耳の側で響くその声は、少なくても私たち夫婦にとってはずっと聞き続けられるほどに心地の良い音色だった。
名前は気の早い晃平くんがずっと前から決めていたもの。お腹の中に居た時から呼び続けていて、たまにお腹を蹴って反応してくれるぐらいこの子に馴染んだ名前。
でも顔を見て呼ぶのは、この時が初めてだったね?
『ハッピーバースデイ……薫平』
『ふにゃっ』
鼻にかかった可愛い声を出して、薫平は一瞬だけ泣き止んだ。
晃平くんと二人目を合わせて、私たちは涙を流しながら笑う。
私も晃平くんもきっとこの時考えていた事は一緒なんだと思う。
きっと私たち夫婦は、この子に会う為に出会ったんだって。そう、確信していたから。
薫平。
優しくて、強いお兄ちゃん。
私のお腹の中で育んだ、最初の宝物。
あぁ。なんて懐かしい。
そして、なんて愛らしい。
その小さな命に触れようと手を伸ばすと、ものすごいスピードで遠ざかっていく。
まただ。
この夢は私の夢なのに、いつもいつだって私を悲しませる。
喉の奥がひりついて、目頭が熱くなる。
抱きしめたいのに。
あの柔らかい体と、暖かい温もりを1秒だけでいいから感じたいのに!
待って。行かないで。
お願いもう少しだけ。
そんな思いも虚しく、あの日の光景はもうはるか彼方へと遠ざかって行った。
ぎゅっと目を閉じて、堪える。
泣いちゃダメ。
たとえ夢の中でも、泣いてしまえば心が折れる。
抑え込んでいたものが、吹き出してきてしまう。
『ほら薫平、お前の弟だ』
『おとーと? このこが?』
すぐに目を開けた。
ああ、この光景も。
ずっと焦がれていたものだから。
『そうだよ? 薫平の弟。名前は翔平』
病院のベッドで授乳しながら、もう一つの大切な宝物を抱く私。
少しだけ小さく生まれた、新しい命。
母乳を飲む勢いも心配するぐらい弱々しくて、いつだって目が離せなかったあの子。
ベッドの上で座りながら弟を見るお兄ちゃんを、隣に立つ晃平くんが微笑んで見守っている。
カッコつけちゃって。少し前まで涙ぐんでた癖に。
『しょーへい』
『うん。ほら薫平。触ってごらん?』
じっと弟を見つめるお兄ちゃんが、私の声で動き出した。
静かに母乳を飲むその頬に恐る恐る手を伸ばす。
プニプニのほっぺに小さな指がやんわりと沈み、お兄ちゃんは大きな息を漏らした。
ゆっくりと手を離すと、今度は緩く開かれた紅葉のような手のひらにその指を乗せる。
『あっ』
弟はお兄ちゃんの指を強くギュッと握った。
驚いた顔をしたお兄ちゃんはすぐに鼻息荒く微笑むと、満開の笑顔になった。
『えへ、えへへへ。しょーへい。とうちゃん、しょーへいがにぎった』
『ああ、よろしくなってさ』
『うん。うんっ』
顔を真っ赤にするほど喜んだ薫平の硬い髪を、晃平くんがワシャワシャと強く撫でる。
父親譲りのその髪の毛。
こうして見ると本当にそっくりだよね。
この時はまだ生え揃っていないけれど、翔平の髪は私と同じ色と髪質をしていた。
そういう小さな発見も、また大きな喜びだった。
『しょーへい。もうすこししたらあそぼうね? なにする? おにごっこ? かくれんぼ? やきゅうとかサッカーもしようね?』
気が早いお兄ちゃんだなー。
もう少し大きくなってからね?
何度も何度も繰り返し見てる筈なのに、私は今も其処にいる錯覚に陥ってしまう。
手を伸ばしても、触れられないのに。
もうあの頃とは、違うのに。
胸の前で強く手を握る。
震える唇を強く噛んだ。瞬きすら惜しくなる。
一瞬一瞬、刹那を切り取っても全て覚えているのに、見落とすのが怖いから。
『あぅ』
『あっ、とうちゃん! しょーへいわらった!』
まだ開かない目を緩めた翔平を見て、薫平が晃平くんに嬉しそうに報告をする。
晃平くんが優しく微笑みながら頷いた時、病室の景色が急に遠ざかった。
黒い闇の中に吸い込まれるように、どんどんと小さくなっていく。
完全に一つの光が消え去って、周囲は真っ暗になった。
あたりを見渡す。
うっすらと四角い窓が次々と浮かびあがり、その一つ一つに景色が映る。
初めて家族四人でドライブした時のサービスエリア。運転を怖がってた晃平くんと違って、薫平も翔平も大喜びだったね?
夏休みを利用していった海水浴では浮き輪をつけた翔平の手を薫平が引き、晃平くんが抱いて泳いでいる。
動物園。鷲に興奮した薫平が翔平を抱っこして檻の中を見せてくれている。
とある暑い夏の日。洗濯物を畳む手伝いをしている薫平を見ながら、私は翔平を抱えて扇風機に当たっている。
仕事から帰ってきた晃平くんに走り寄る薫平を、まだ足元がおぼつかない翔平がヨタヨタと追いかけて行く。私がエプロンで手を拭きながら後を追うと、薫平を抱きかかえた晃平くんが翔平に手を伸ばしていた。
小学校の運動会で薫平と一緒に走る晃平くんを応援する私と翔平。
学芸会で翔平の視線に照れながら踊る薫平を、晃平くんが親バカ全開にして写真に収めていて、私はそれを見て笑いを堪えるのに必死だった。
家族で夜更かしして見た天の川。
穴場の行楽地の休憩所で川の字で眠るお父さんと息子たち。
スキーは誰も滑れなかったから、結局雪だるまを作ったっけ。
キャンプに行った時は子供たちより晃平くんがハシャいで大変だったな。
弁当を届けに職場にみんなで行ったときは、薫平が働く晃平くんを見てカッコいいってため息を漏らしてたよ?
翔平の4歳の誕生日。ケーキに並ぶ四つの蝋燭に翔平が頑張って息を吹きかけてもなかなか消えなくて、こっそり薫平が手伝ってたっけ。
父の日に薫平が書いた似顔絵は結構良く書けていて、小さいながらもよく見てるんだって二人では関心したよね。
母の日には子供たち二人で一輪のラベンダーをプレゼントしてくれたっけ。晃平くんが隠れて準備してたの、実は知ってたんだ。
結婚記念日に行った遊園地。子供たちの前でキスをしたらあの人は顔を真っ赤にして照れてて、幾つになっても可愛いなって思ったよ。でもそれ以上にカッコイイのも知ってるから。
毎日毎日本当に頑張ってお仕事してくれた事、とっても感謝してた。
晃平くんの自慢のお嫁さんで、薫平と翔平の自慢のお母さんでいようって私も必死だった。結局、こうなっちゃったけど。
決して裕福じゃなかったし、生活も楽じゃなかった。
でも私は幸せだった。
貴方の帰りを子供たちと待ちながら、ようやく帰ってきた貴方にただいまって言う瞬間が好きだった。
貴方と枕を並べて、子供たちの寝顔を見てるあの時間が本当に大好きだった。
子供たちと行ってらっしゃいって貴方を見送るのも、休みの日にみんなでお寝坊さんしようって決めて二度寝したあの日も。
貴方と出会ったあの日から、私は毎日が本当に幸せで。
周りにある思い出の小窓が、一つずつ消えていく。
全部全部、私の思い出。
決して色褪せない、あの日の記憶。
私はまだあの子たちの母親だ。
この幸せを噛み締められていれば、未来永劫私は風待薫でいられる。
そう、どんなに姿形が変わろうとも。
【ーーーーーーたま! ヒルデーーーーたま!】
声が聞こえる。
ああ、もう起きないと。
アンミラはとっても真面目な子だ。
私がお願いした時間通りに、私を起こそうとしているのだろう。
思い出の小窓はもう全部閉じている。
一つでも残ってないかと探して見たけれど、一個も見つからない。
【ヒルデガルダたま! お時間なのでしゅ! 起きてくださいませ!】
ええ、アン。
今起きるわ。
『かーちゃん!』
『かあさん!』
『薫!』
思い出に染み付いた家族の声が私を呼ぶ。
でも知っている。
これはあの人たちの声を真似た、私の未練の残響。
不甲斐ない、弱々しい部分の私の最後の抵抗。
『……行くね? 頑張らないと』
その声に微笑み返し、私は目を閉じる。
未練は認める。私は弱い。
でもそれ以上に、私は強い。
あの子たちと、晃平くんが生きているこの世界。
それを守り続ける事が、私の誇りなのだから。
母親を、舐めないでよね?
【起きてくださいませ! ヒルデガルダたま! ヒルダたま!】
夢から覚める時間が来た。
風待薫だった私が、ヒルデガルダに戻るのだ。
目覚めた先は隔絶された世界。
老いる事も許されない、私の生きる世界。
誰も立ち入ることを許されず、また出ることも許されない、理不尽な世界。
乳白色の空と、わずかに残った緑。
ここが、私の囚われた牢獄。





