40 約束
我に返ったのは、十分近く経過した後だった。
リディアは今の状況に気付いて、ようやくヘンリーの胸から離れた。
「泣きすぎだ」
「だ、だって……帰ってこられると思っていなかったから……」
リディアは今も、目の前に彼がいるのが信じられなかった。
ヘンリーは帰らない可能性のほうが高いと、ハルクに言われたばかりだったこの状況で、誰が彼の帰還を予想できただろうか。
「国は……大丈夫なのですか?」
「ああ、継承権を放棄してきた。父上と母上には猛反対されたけど、別に俺以外にも皇位を継げる人間はいるわけだし。何より俺には……待たせてる大切な人たちがいるから」
そう口にしながら、ヘンリーは柔らかい笑みでリディアを見つめた。
その笑顔に、また一回胸が高鳴った。
やはり、ヘンリーは途中で投げ出すような人ではない。
絶対にここに帰ってくると、リディアは心の片隅で信じていた。
本当ならヘンリーがいなかった間のことを彼にゆっくりと話していたいところだが、あいにく今はそんなことをしている場合ではなかった。
リディアは助けを求めるように、ヘンリーの服を掴んだ。
「ヘンリー様!大変なんです!私、ネックレスを紛失してしまって……!」
「ネックレス……?」
リディアは劇中で身に着けるネックレスを失くしてしまったことをヘンリーに伝えた。
彼は彼女を責めることもなく、黙ったまま話を聞いていた。
「探しても探しても見つからなくて、私どうすればいいか……」
「……」
俯いて肩を震わせるリディアを、ヘンリーはじっと見つめていた。
何かを深く考え込んでいる様子の彼は、突然リディアの腕を掴んだ。
「リディア嬢、俺と一緒に行こう」
「ヘ、ヘンリー様!?どちらへ!?」
突然の提案にリディアは困惑しながらも、彼に引きずられながらついて行った。
(い、一体どこへ行くつもり……!?)
不思議だった、エリオットに触られたときは不快でたまらなかったのに。
どうしてヘンリーだと、何とも思わないんだろう。いや、むしろ――
「……」
リディアは自身の気持ちに気付かないフリをし、ヘンリーと共に劇場の外へ出た。
***
彼はリディアを馬車に乗せ、ある場所へやって来ていた。
リディアは王都にあるフロイト侯爵邸にも引けを取らない――いや、それ以上の大豪邸を見上げていた。
緑が生い茂る広い庭と、中央にそびえ立つ青い屋根の大邸宅。
「ここは……」
「マゼルダ公爵邸だ」
ヘンリーはリディアの手を引きながら、敷地内へと入った。
マゼルダ家と親戚関係である彼は、特に何の問題もなく家の前を守る騎士によって中へ通された。
(ヘンリー様はいつもこんなに広いところに住んでいるのね……)
庭を通り、二人は邸の中に入った。
リディアは自分が入っていいのかと悩んだが、彼は構うことなく進んでいく。
マゼルダ公爵家の者たちは既に寝ているのか、邸内は物音一つしなかった。
ヘンリーは部屋の隅っこにある大きな扉の前で立ち止まると、リディアを中へ入れた。
「お、お邪魔します……」
彼女は小声で挨拶をしながら足を踏み入れた。
中に誰がいるのだろうかと身構えていたが、彼女の予想に反して人はいなかった。
ゴシック調の室内に、アンティークの椅子やテーブルが設置されている。
キングサイズのベッドに、奥には大きな窓が二つ。ここに住んでいた誰かがしばらくの間出かけていたかのように、夜でもカーテンが閉められていなかった。
「――俺の部屋だ、驚いたか?」
「ヘ、ヘンリー様の……?」
リディアはギョッとしてヘンリーを見上げた。
驚くも何も、貴族令嬢が婚約者でもない男性の部屋に入るというのはよろしくない。
しかし、当のヘンリーはそんな貴族のしきたりなど全く気にしていなかった。
「さっき、ネックレスを失くしたって言ってたよな……」
「は、はい……」
ヘンリーは室内にあるクローゼットを探ると、丁寧にリボンがかけられた箱を取り出した。
彼はリボンを解き、箱を空けて中身をリディアに見せた。
「まぁ、とっても素敵……!」
箱の中から見えた綺麗な光に、リディアは思わず声を上げた。
中に入っていたのは、グリーンのオーバルブリリアントカットの宝石があしらわれたネックレスだった。宝石の色は、リディアの瞳とそっくりだ。
そして偶然か、ヴァイオレットが用意したリリアーヌのネックレスとも似ている。ダイヤモンドの形は少し違うけれど、遠くから見れば気付かないだろう。
「お前にプレゼントしようと思って、買っておいたんだ。ちょうど良い機会だし、本番に着けていけばいい」
「私に……?」
リディアは当然、エリオットから物なんて貰ったことはない。
異性から何かをプレゼントされるのは、生まれて初めてだった。
「嬉しいです、ヘンリー様!ありがとうございます」
ヘンリーは満面の笑みを浮かべるリディアの首に手を回すと、ネックレスを着けた。
俺の思った通り、よく似合う――と彼は嬉しそうに笑った。
いつもと少し違う、少年のような無邪気な笑顔に、リディアの胸が再びトクンと音を立てた。
着け終えたヘンリーは、部屋にある時計をチラリと見た。
「まだ夜の十時か……」
「もう夜の十時ですよ?」
「いや、まだまだ夜はこれからだ」
十時でまだこれからと言えるだなんて、一体いつも何時に寝ているのか。
尋ねようと口を開きかけたリディアの手を、彼が突然掴んで引いた。
右手を引かれ、前のめりになった彼女の腰を、ヘンリーが抱き寄せた。
そのポーズは、まるでリリアーヌとヒューゴのダンスシーンのようだった。
「前に、俺がマンツーマンで指導してやるって言っただろ?」
「あ……」
そこで、リディアは少し前に彼とした約束を思い出した。
心配なことがあるなら俺が指導してやると――たしかにリディアはヘンリーに言われていたのだ。
もしかして、今から?
「……音で迷惑になりませんかね?」
「この部屋、防音なんだよ。心配する必要はないさ」
「あら、ちょうどよかったですね」
リディアは安心したように笑うと、ヘンリーが彼女の腰を抱き寄せたままステップを踏んだ。
すぐさま彼に合わせるように、足を動かす。
リディアは彼がいなくなってからというもの、この日だけをずっと待ち望んでいた。
ようやく叶ったのがそれほど嬉しいのだろうか。ヘンリーとダンスをする彼女の顔は自然と明るくなっていた。
――二人だけの、夜のレッスンが幕を開けた――
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