第1章【嘘つきの魔女と本物の悪魔~名前のない花~】
私は魔女なんかじゃない。
ただ、そう言わなければ生きられなかっただけだ。
森は静かだった。
風が枝を揺らし、乾いた葉が擦れ合う音だけが続く。
人の気配はない。
本来なら、人間が長くいられる場所ではないからだ。
遠くで魔獣の声が鳴く。
ここは、魔獣の森。
濃い瘴気に満ちたこの場所では、普通の人間は立っているだけで吐き気を覚える。長くは耐えられない。
「……起きてるの、わかってるよ」
そう言うと、木の上で大きな尻尾がゆっくり揺れた。
灰色の魔獣が枝から降りてきて、私の前に音もなく着地する。
(お腹すいた)
その喉の奥から低い声が響く。
人間にはただの唸り声にしか聞こえないだろう。
私は小さく笑って、家に戻ると鍋をかき混ぜた。
器に取り分けて外に出ると、魔獣は大人しく座って待っている。
「今日は肉、少なめだからね
昨日あなたが食べすぎたせい」
魔獣は不満そうに尻尾を揺らす。
けれど逃げないし、牙も向けない。
普通なら、ありえないことだ。
魔獣は人を襲う。
人は魔獣を恐れる。
——それが、この国の常識。
けれど私にとっては違う。
「ほら、順番」
器を置くと、茂みからもう一匹、さらにもう一匹と姿を現す。
角のあるもの。
翼のあるもの。
目が三つあるもの。
誰も私を襲わない。
むしろ、静かに座って待っている。
まるで、家族みたいに。
私は木のスプーンを握りながら、小さく息を吐いた。
「……凶暴な子なんていないのに」
器の片付けをしていると、背後で布がわずかに動いた。
「……ディア」
低い声が聞こえ、振り返ると、黒い髪の男が寝台の上でこちらを見ていた。
赤い瞳が、まだ半分眠そうに細められている。
「起きたの?」
「……お前が動くと、嫌でも目が覚める」
「嘘、お腹が減って起きたんでしょ?」
そう言うと、彼は面倒そうに身体を起こした。
人間より少し鋭い目。
少しだけ長い犬歯。
そして、魔獣たちが絶対に近づかない気配。
この森で、唯一の――――――悪魔。
「ヴァル、スープ飲む?」
「……肉は」
「ない」
「は?」
「昨日、全部、食べられちゃった」
「……あいつら、あとで焼く」
「私の友達を傷つけたら怒るからね?
ほら、ごはん食べたら“任務”に行かなきゃ
手伝ってくれるでしょ?」
ディアが微笑むと、赤い瞳がわずかに揺れた。
この国では、色を持つ瞳は特別な意味を持つ。
黒以外の色を宿す者は“魔女”と呼ばれ、ルクシア帝国によって保護されるのだ。
男性にはその力は宿らない。
だから、帝国における魔女の価値は、女性のみに認められた特権であり、同時に重い責任でもある。
ルクシア帝国――
魔女の力で、国を支配する大国。
魔女は保護される。
だが同時に、従わされる。
瞳の色は魔女の証であり、隠すことはできない。
魔女は精霊と契約し、炎や雷、氷や森を操る力を持つ。
だが、魔力とは魂の色。
感情と魂の輝きから生まれるその力は、使うたびに持ち主の“本来の色”を削っていく。
炎:橙
水、氷:蒼
植物:翠
雷:金
闇:紫黒
光:淡金
力を使いすぎた者は、やがて髪や瞳から色を失い、静かに命を終える。
それでも、生きるためには帝国に従わなければならない。
ディアの瞳は“赤”。髪の色は“白”。
赤い瞳は、本来なら魔女の証ではない。
むしろ、人が恐れる“魔の色”。
白は終わりの色。
だから、人々から気味悪がられ、両親に売られたと聞かされて育った。
両親と過ごした記憶がないのが、何よりの証拠だった。
ディアという名も、自分で名付けた。
目の前にいる悪魔――ヴァルディスから響きを借りて。
「任務って、俺が入れば暴れる雑魚は居ないだろ?」
ディアの役目は、森に潜む魔獣を抑え、帝国が定める領域の秩序を守ること。
被害が出れば、帝国の命令に従い、任務として駆り出される。
「木の実や薬草のスープでいいなら、
行かずにのんびりできるんだけど」
「…………荷物持ちか」
ディアは荷物をまとめると、フードを深く被った。
ルクシア帝国の魔女たちは、全員黒い衣装を身に纏う。
黒は単なる色ではない――魔女の証であり、力を持つ者としての象徴でもある。
魔女同士では顔を見せても構わない。
だが、人前に出るときはフードを被り、髪と瞳を隠すのが決まりだ。
理由はただ一つ。
自らの寿命――魂の色の終わりを悟られないため。
ディアは無言で肩に荷物をかけ、森の小道を歩き始めた。
帝国の領域に足を踏み入れるのは、いつも緊張する。
小鳥のさえずりと、乾いた落ち葉の音だけが響く。
「怖いなら、手よこせ」
ヴァルの手は、氷みたいに冷たい。
どんなに、ふわふわで柔らかく見える魔獣でも、温もりは無い。
悪魔も同じだ。
ディアの熱がヴァルに移ることはない。
「……ありがとう」
それでも、胸の奥がふわりと温かくなるのは、どうしてだろう。
氷のように冷たい手なのに、心がほんの少しほどける――その理由を、ディアはまだ理解できなかった。
■□■□
「【終焉の白】が来たぞ」
誰がそう叫ぶと、騒がしく賑わっていた場所から音が消える。
嫌われている自覚はあった。
水や植物の力を使う魔女は優遇される。
人の役にたつからだ。
逆に闇や雷の攻撃的な力は怯えられる事あるが、国にとっては戦力になるので一目置かれている。
しかし、ディアはそのどちらでもなかった。
「干し肉、あとは、これと、この肉のブロックも2つ、それから……新鮮な血があれば全部もらいます」
「血抜きは終わって処分済みだ
そんなに血が欲しければ魔獣でも狩って飲んだらどうだ?」
「…………では、次の時にまたお願いします
腐ると困るので、できるだけ空気を抜いて保存してくれると嬉しいです」
魔獣にとって血は、栄養源だ。
人の血は凶暴化したり、攻撃性が高まる可能が多いので、動物の血しか与えることはできない。
定期的に仕入れているが今日は手に入れることは出来なかった。
「ほら、これで全部だ
用が済んだならとっとと帰ってくれ、商売にならない」
追い出されるように店を後にする。
ヴァルの機嫌が悪そうで、「いつものことでしょ?」と励ましたが、何故かさらに不機嫌になっていく。
「やるか?」
「……ダメ、変に目立ってもいいことないよ」
「お前が逃げたいって言えば、連れ出してやる」
「私はどこにも行けないよ
それに、今の暮らしも悪くないでしょ?
みんなと一緒にご飯食べて、ヴァルが隣にいる
それだけで幸せだよ」
街に目を向ければ、年老いた夫婦がベンチに座っている。
歳を重ねるたびに髪の色が黒から銀へと変わっていく。
その様子は誰もが知っている、自然の摂理。
肌のしわや体の衰えと同じく、白髪は命の時間を静かに刻む印だった。
誰もがその差を無意識に理解している。
魔女と人間は同じ時間を生きても、命の色の扱いが根本から違うのだ。
けれど――
ディアは、自分の前髪に触れた。
指に絡む柔らかな白。
老人のような鈍い銀ではない。
雪のように、色の抜けきった白。
まだ若い自分の頭にあるには、不自然すぎる色だった。
瞳の色も違う。
人間にはありえない色。
魔女の色でもない。
魔獣と同じ色。
人は言う。
赤い瞳は不吉だと。
魔女の証だと。
怪物の目だと。
ーーーーだから、殺してもいいのだと。
「くだらないことで悩むな」
ディアが顔を上げると、ヴァルの赤い瞳が暗く光っていた。
「私ってさ」
少し迷ってから続けた。
「何なんだろうね」
しばらく沈黙が落ちる。
そしてヴァルは、退屈そうに答えた。
「人間だろう」
その言葉は冷たい。
でも――――どこか、優しかった。
人間でも、魔女でもない、そのどちらにもなれない色。
まるで最初から、
何かを失って生まれてきたみたいだ。
ディアは空を見上げて呟いた。
「……私は、魔女だよ」
そう言って、ディアは小さく笑った。
自分でも、どこか嘘くさいと思う笑い方だった。
ヴァルは何も言わない。
ただ、真っ直ぐ前を歩いている。
黒いコートが静かに揺れ、長い影を追いかけるように後を追う。
「ねえ」
呼びかけに応じるように、ヴァルは振り返る。
赤い瞳。
自分と同じ色。
ディアは少しだけ迷ってから、ぽつりと言った。
「もしさ
私が魔女じゃなかったら、どうする?」
少しの沈黙の後、ヴァルは面倒くさそうに答えた。
「どうもしない」
素っ気ない声。
「お前はお前だろ」
まるで、そんなことを聞く意味がわからないみたいに。
ディアは目を丸くして、それからくすっと笑った。
「……そっか」
魔女でもない。
人間でもない。
そんな自分でも――隣にいてくれる存在がいる。
それだけで、少しだけ息がしやすくなる。
ディアはそっと手を伸ばした。
「……ありがと、ヴァル」
ヴァルは答えない。
けれど、その手を振り払うこともしなかった。
■□■□
遠くで金属の音が鳴る。鎧が擦れる重い足音。森に慣れていない人間の歩き方だった。
ヴァルはため息を吐き、嫌そうに呟く。
「……帝国か」
案の定、しばらくして現れたのは騎士だった。
瘴気に顔色を悪くしながら、それでも歩み寄ってくる。
「魔女ディア」
扉を乱暴に開けると、騎士は短く告げる。
「帝国からの命令だ」
淡々と告げられる言葉に、ディアはゆっくり立ち上がる。棚に取り出したばかりの瓶を戻しながら、机の上に広がっている木の実を布に包んだ。
木の実のパイを作る予定だったのに、すぐ帰って来れるかな?
そう思った瞬間、横から伸びた手が机の木の実を一つさらった。
「ヴァル、それパイ用なんだけど」
ヴァルは気にせず口に放り込む。
「これ、美味くないな」
「知ってる、だからパイにするの」
二人のやり取りなど気にも留めず、騎士は部屋の入口に立ったまま眉をしかめている。
森の瘴気に慣れていないのだろう。
早く用件を済ませたいのか、騎士は淡々と告げた。
「魔女の捕獲任務だ
対象は、魔獣の森へ逃げ込んだ」
逃げることも、断ることもできない任務。
「捕獲ってことは、今回は生きたまま連れ戻せばいいの?」
ディアの問に「死にかけの魔女だ、無理をする必要は無いが、回収できるものは全て持ち帰れ」と告げられる。
騎士から手渡された書面には、ミレイナ・ルナリアという名が記されている。
十八歳、属性は翠――植物を司る、穏やかな魔女【花庭の魔女】。
読み終えると、ディアは深呼吸して、ヴァルに目を向けた。
「行こうか」
ヴァルは壁にもたれたまま、視線だけを向けた。
赤い瞳がわずかに細くなる。
■□■□
枯れ葉を踏みしめながら、ミレイナは森の奥へと走っていた。
息が苦しい。
視界が霞む。
それでも足を止めることはできなかった。
目の前に居るのは鎧の騎士【ノエル・セリウス】。
本来なら、自分を監視するはずの存在だ。
「ねぇ、どうして……」
ミレイナは震える声で言った。
「こんなことしたら……
貴方まで処分になるわよ」
ノエルは答えない。
ただ前を見たまま、歩き続ける。
「監視役なんでしょ?」
ミレイナは苦しそうに笑った。
「私が逃げずに命令に従うようにするのが、
貴方の役割なのよ?」
もう長くないと、自分でも分かっている。
この身体は弱く、これ以上は耐えられない。
「っ……お願い」
声が掠れる。
「私はもう、いいから」
ノエルの足が止まる。
「今ならまだ……
私の体の一部でも持ち帰れば
貴方だけは許されるから」
ノエルは必死に首を振った。
「だからお願いッ……
……ノル、お願いだから、帰って?」
ノル
大切な、私の騎士。
『なんでノルなんだよ……もっとカッコイイのがいい』
『やだ、ノルって可愛いもん』
『可愛くなくていいんだけど』
『いいの! 私だけの特別な愛称なの!』
『……じゃあ僕もミアって呼ぶからな』
思い出すのは、いつだって楽しい記憶ばかりだ。
翠の瞳が潤む。
涙が、静かに頬を伝った。
「泣かないで」
静かな声だった。
ノエルはようやくミレイナを見る。
「僕は……ミアに、生きて欲しい」
涙を拭おうと手を伸ばした――その瞬間。
空気が裂けた。
鼓膜が破れるほどの咆哮。
視界が赤く染まる。
痛みは無い。
それなのに身体が動かない。
理解するのに、数秒かかった。
魔獣だ。
「ッ――いやぁあ!!ノル!!」
ミレイナの叫びが森に響く。
ミレイナ・ルナリアの騎士になったのは、父上の推薦だった。
遊ぶことより、親の期待に応えることを選んできた。
最年少で騎士団に入団した。
可愛げがない。
何度もそう言われた。
けれど――
ミアだけは違った。
『可愛い!!
貴方が私の騎士様なの?!』
初めて会った日に、抱きついてきて。
『 これからよろしくね!!』
そう言って、頭を撫でてきた。
今思えば。
ミアはずっと――
騎士というより、弟みたいに扱っていた。
逃げて
そう言いたいのに、声が出ない。
魔獣の影がミレイナへ覆いかぶさる。
牙が振り下ろされる、その瞬間――――空気が裂けた。
黒い影が一閃する。
重い音と共に、魔獣の巨体が横に吹き飛んだ。
地面を転がり、木々をなぎ倒しながら止まる。
遅れて、血の匂いが広がった。
ノエルの視界に、一人の男の背中が映る。
黒いコートに黒髪、そして――ー赤い瞳。
振り払われた手から、魔獣の血が地面へ滴り落ちた。男は退屈そうに魔獣を一瞥する。
「……弱いな」
低く、冷たい声だった。魔獣はまだ生きている。
しかし男はもう興味を失ったように視線を外した。
その赤い瞳が、ゆっくりとこちらを見る。
ノエルの背筋に寒気が走る。
人間ではない。
本能がそう告げていた。
男は面倒くさそうに呟く。
「おい、ディア」
森の奥へ声を投げる。
「見つけたぞ」
少し間を置いて、草を踏む音が近づく。フードの隙間から白い髪が揺れ、少女が姿を現す。雪のような白髪。そして、男と同じ赤い瞳。
「ミレイナ・ルナリア」
名を呼ばれ、状況は一瞬で理解できた。
ミアを連れ戻しに来たのだと。
「死にかけだ」
ディアは軽く睨む。
「ヴァル」
「事実だ」
ミレイナはかすれた声で呟いた。
「……魔女……?」
ディアは少しだけ首を傾げて、小さく笑った。
「魔女だよ」
その時だった。
森の奥で、枝が折れる音がした。
血の匂いに引き寄せられたのか、もう一匹の魔獣がゆっくりと姿を現す。
赤い瞳。
濁った息。
人の血を覚えた魔獣だった。
ディアは静かにその姿を見つめる。
それから、ぽつりと呟いた。
「……あの子は人の血を覚えちゃった」
悲しそうに目を細める。
「きっと、すごく苦しいよね」
少しの沈黙の後、ディアはヴァルを見上げた。
「ヴァル」
その声に、ヴァルがわずかに視線を向ける。
「助けてあげて」
ヴァルは小さく息を吐いた。
「最初からそう言え」
次の瞬間、黒い影が動いた。
あの時と同じだと、ディアはヴァルの姿を目で追う。胸の奥に、古い記憶が浮かぶ。
私は子供の頃の記憶がない。
生まれた頃、両親に気味悪がられて捨てられたのだと聞かされた。
覚えているのは――【魔獣の檻】からだ。
五歳の頃だ。目を覚ましたとき、手足は鎖に繋がれていた。
寒くて、暗くて、怖かった。
自分を守るように膝を抱えて、小さく縮こまる。
すると、遠くから歓声が聞こえてきた。
悲鳴と、笑い声。
何が起きているのか分からない。
その時、扉が開いた。
男が一人、こちらへ歩いてくる。
無言のまま鎖を引いた。
首に巻かれた鉄が締まり、息が詰まる。
咳き込みながら引きずられていく。
そして――乱暴に投げ捨てられた。
顔を上げると、そこにいたのは、巨大な獣だった。
真っ黒な体、真っ赤な瞳。
檻の外から声が飛ぶ。
「五分もつかな」
「ワシは一分だな」
「楽しませてくれよな」
逃げようと振り返るが、鉄の檻が周囲を囲んでいる。
逃げ場はない。
地面は血でぬかるみ、吐き気がするほど生臭かった。
――――――――死ぬんだ
そう理解した、その瞬間。
声が聞こえた。
頭の奥に直接響くような声。
『手を上にあげろ』
誰の声か分からない。それでも、体が勝手に動いた。
『そのまま――――――魔獣に向けろ』
言われるまま、手を伸ばす。
そして、振り下ろした。
その瞬間。
魔獣の体が、真っ二つに裂けた。
遅れて、血が噴き上がり、巨大な体が地面に倒れ込む。同時に煙幕が上がった。
視界が白く覆われる。何も見えない。
けれど――――
目の前に、誰かが立っていた。
煙の中から、黒い影が浮かび上がる。
真っ黒な体、そして、赤い瞳。
男がゆっくり口を開く。
「ヴァルディスだ」
綺麗な名前だと思った。
「おい」
低い声。
「お前の名前は?」
少女は少し考えてから、小さく答えた。
「……ディア」
ヴァルディスの目が細くなる。
「それは今、思いついたのか」
ディアは慌てて首を振る。
けれどヴァルディスは小さく笑った。
「俺の名から、勝手に取ったな」
ディアは何も言えない。
ただ黙って立っている。
ヴァルディスは、少しだけ面白そうに笑った。
「過去なんて、どうでもいい」
その赤い瞳が、まっすぐディアを見る。
「お前はここにいる――それだけで、俺にとってはすべてだ」
そして、静かに言った。
「お前は俺が護る」
ヴァルディスが悪魔だと知ったのは、それからしばらくしてからだった。
私は魔女なんかじゃない。
ただ――――【魔女】
そう呼ばれることでしか、生きられなかっただけだ。
■□■□
騒がしい音が止むと、ヴァルは「終わった」と告げた。
倒れた魔物は、溶けるように消えていく。
まるで、初めから存在しなかったかのように。
ディアはゆっくりとミレイナに近づき、静かに口を開いた。
「私の力では、彼を助けられないの
この傷では、帝国へ連れていくまでもたない
国境を越えさせて逃がすこともできない」
少し間を置いて、続ける。
「あなたも、このままだと瘴気に飲み込まれてしまう」
ディアの言葉に、ミレイナはしばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐く。
「……ノルと一緒にいるわ」
ノエルの頭を撫でながら、ミレイナは小さく笑う。
――――命が溶け合うその一瞬。
二人の歩んできた時間が森の空気を震わせたのを、ディアはただ黙って見ていた。
「ねぇ」
掠れた声。
「覚えてる?」
ノエルは答えない。
「内緒で咲かせた花のこと」
手を地面に触れると、翠の瞳が輝き、弱い魔力が流れた。
「ノル……」
息が震える。
「この花が好きだって言ってた」
その瞬間。
枯れた森の地面から、小さな芽が伸びる。
一つ。
また一つ。
やがて――ー―白い花が咲いた。
風に揺れる花が、二人を囲む。
「よかった……最後に……咲かせられた」
ノエルの手が、そっと彼女の指を握った。
花の香りが、静かに広がる。
ミレイナの髪が白くなる姿をみながらディアは唇を噛み締めた。
「どうせ連れ戻したとしても、アイツは処分されてた
それに、はじめから尽きかけていただろ」
ヴァルの声は、どこまでも冷たい。
「……違う」
ディアは、小さく首を振る。
「違うの……」
咲き広がる白い花を見つめながら、呟く。
「なんでかな……」
風に揺れる花びらが、静かに舞う。
「魔法って……こんなにも美しいんだね」
白い花に囲まれたまま、ミレイナは静かに息を引き取った。
ディアは二人の手をそっと重ねる。
「……一緒に眠れるようにしてあげる」
ディアは二人を森の奥に埋めた。
帝国には、魔獣に襲われたと報告するつもりだった。
それが、彼女にできる最後の嘘。
髪留めと身分証だけあれば、きっと信じるだろう。
風が吹く。
白い花が揺れる。
ミレイナの魔力は尽きたはずだった。
それでも花は枯れない。
名前のない白い花が、
二人を守るように咲き続けていた。
読んでいただきありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
よければ続きもお付き合いください。




