第8話『残飯を奪い合うSランク』
クレバスへ続く斜面。
吹雪の中で、リーダーのゼインは目を細めた。
何かがある。
限界だった。
エリスの魔力は昨晩で底をつき、もう「ヒール」も使えない。
魔法使いのベルトは寒さで正気を失いかけ、呪文を唱えようとするが舌が凍りついて言葉にならない。
大柄な体が、みっともなく震えている。
赤髪の剣士カーラに至っては、もう言葉を発することすらなく、ただ機械のように足を動かしているだけだ。
あの冷たい瞳は、今や虚ろだ。
戻る道はない。
既に深層に踏み込みすぎていた。
本当は、俺が焦って深層への道を急ぎすぎたせいだ。
——リドを切り捨てた後、なぜか焦燥感に駆られていた。まるで、何かから逃げるように。
認めたくない事実が、ゼインの心を苛む。
そんな時だった。
斜面の途中に、不自然な色彩が転がっていたのは。
「……あれは、なんだ?」
近づいてみると、白い容器だった。
中にはオレンジ色の液体がわずかに残り、強烈な塩気の匂いが漂っている。
「食べ物……?」
エリスがふらりと歩み寄った。
彼女の目は虚ろだ。
最後にまともな食事を取ってから、もう二日が経過している。食料は凍りついて石のように硬くなり、噬み砕くこともできない。
高貴な聖女の面影は消え失せ、今はただの飢えた動物のような眼光を放っていた。
「待て! 毒かもしれない!」
エリスが飛びつく。汁を一気飲みし、瞳孔が開いた。
濃厚な魚介の香りが、凍りついた嗅覚を圧倒的に刺激する。
理性が焼き切れた。
ベルトが横取りし、残った具を雪ごとかき出した。
カーラが指ごと噛みつく。
「よこせぇ! 俺は前衛だぞ!」
「私が見つけたのよ!」
Sランクパーティ。
彼らが、たった一つの容器の残り汁を巡って、雪の上で取っ組み合いをしている。
指先の感覚はない。だが、舌の上に垂れたその最後の一滴が、涙が出るほどに美味かった。
雪原の上で、赤い血と、白い涎が混じり合う。
美味すぎて、惨めだった。
もはや人間としての尊厳など、どこにもなかった。
だが、ゼインだけは動かなかった。
彼は容器の側面を見て、凍りついていた。
「これ……文字が……」
見覚えのある手書き文字。
そして、鼻腔に残るスパイシーな香り。
黒胡椒——あいつも料理にやたらと振りかけていた、あの刺激臭だ。
「……嘘だろ」
ゼインは首を振った。
認めるわけにはいかなかった。
自分たちが泥水を啜っている時に、あいつがこんな上等な食事をしているわけがない。
だが、その香りが、かつての記憶──リドが作ってくれた温かいスープの味──を残酷に呼び起こす。
「……リド、なのか?」
その言葉に、争っていた三人が凍りついた。
「リド……? このゴミが?」
エリスが容器を見つめる。
よく見れば、それは明らかに人工物だ。
こんなダンジョンの深層に、こんなものが落ちているはずがない。
つまり、誰かがここで食事をし、捨てたのだろう。
自分たちが餓死寸前で彷徨っているこの場所で。
温かい食事を取り、不要になった容器を、ポイ捨てしたのだろう。
——それが、リドなのだろうか?
「ふ、ふざけるな……!」
ベルトが容器を握り潰した。
「俺たちが泥水をすすってる時に……あいつは!」
屈辱。
奪い合った「餌」が、リドの捨てた「ゴミ」かもしれないという事実。
プライドが砕け散る。
「許せねぇ……!」
カーラが短剣を雪に突き立てる。
彼女の目から、理性の光が消えた。
「殺してやる……! あいつを見つけ出して、すべて奪ってやる!」
エリスも、もう祈りを捧げようとはしなかった。
聖女の仮面は剥がれ落ち、そこには嫉妬と憎悪に歪んだ女の顔があった。
「そうよ……神様なんていない。奪うしかないのよ……私たちの『権利』を!」
ゼインはゆっくりと立ち上がった。
彼の目には、後悔も反省もない。
あるのは、燃え上がるような殺意と、強欲だけだ。
「行くぞ。あいつは近くにいる」
ゼインが指差した先には、キャタピラの跡が続いている。
それは巨大なクレバスへと向かっていた。
「あの跡の先にいるやつを見つけ出せ。食料も、すべて俺たちのものだ。あいつはズルをして、俺たちの『運』まで盗んでいったんだ」
そう。
あいつだけが得をするのはおかしい。
これは強盗ではない。不当に奪われた『権利』の回収だ。
「リドには……相応の報いを受けさせてやる」
彼らは歩き出した。
もはや冒険者ではない。
歪んだ正義を掲げる強盗団に堕ちた彼らは、狂気を孕んだ瞳で、雪の荒野を進んでいった。




