第5話『汚泥と楽園』
第六十二層へ向かう途中。
俺は上機嫌でシィに話しかけた。
「シィ、収支報告はどうなってる?」
『はい、マスター。先ほどのスノー・グール掃討戦で獲得した魔石を加え、現在の総在庫は約六十個です。大幅な黒字となりました』
「素晴らしい。使い道を考えようか」
本来なら貯蓄すべきだ。分かっている。
だが、今の俺には「理想郷の構築」という崇高な目的がある。
我慢して節約する生活なんて、地上で散々やってきた。
ここは誰もいない山岳迷宮だ。
誰に遠慮する必要がある?
「……居住区画の拡張だ」
『拡張、ですか?』
「ああ。今の設備も悪くないが、長く住むなら精神的な潤いが必要だ」
──檜風呂が欲しい。
一度そう思ったら、もう止まらなかった。
今の俺なら「手に入る」のだ。
「シィ、居住設備をグレードアップしたい。何ができる?」
『『ランク2』へのアップグレードが可能です。檜風呂、娯楽設備などが解放されます』
「それだ。全部やれ」
『了解。ランク2へのアップグレードには、物質創造術式の解放が必要です。単なるエネルギー変換とは桁違いの魔力を消費します』
シィの声が、どこか重く感じた。
『見積もりは……魔石五十個分。今回の黒字がほぼ飛びます。推奨しません。あまりに刹那的で、賢明とは言えない投資です』
「構わん。家への投資をケチる者は心から貧しくなる。やれ」
俺は忠告を無視して承認した。
『承認されました。……魔力充填開始。居住区画、再構築します』
(仕事が早いな)
思わず心中でツッコミを入れたが、もう止まらない。
光が収束する。
浴室は木の香り漂う贅沢な造りに。居間には大画面の映像設備が追加された。
魔石五十個。一般人の年収に相当する額が消えたが、安い投資だ。
また稼げばいい。資金ならある。
慢心。
そう呼ばれれば否定はできない。
だが、この時の俺は、この「投資」が後に致命的な事態を招くことなど、微塵も考えていなかった。
◇
数時間後。
ゼインたちは呆然と立ち尽くしていた。
彼らが通るはずだったルートの先。そこに、信じられない光景が広がっていた。
「……なんだ、これは」
目の前に広がるのは、スノー・グールの死体の山だ。
頭が吹き飛んだもの。胴体が千切れ飛んだもの。
そのすべてが、一撃で絶命していた。
「五十匹はいるぞ……。誰がこんな真似を……」
ベルトが震える声で呟く。
「他の冒険者か? いや、こんな深層に来られるのは俺たち以外にいないはずだ」
ゼインは死体の一つを調べた。
剣傷でも、魔法による火傷でもない。
未知の力で「消し飛ばされた」ような痕跡。
ギルドからの救援か? いや、こんな深層まで来られるはずがない。
だが、他に考えられる可能性がなかった。
雪に刻まれた奇妙な痕。馬車にしては太すぎる。
だが、疲弊した彼らの脳は、それを「大型荷馬車」だと無理やり解釈した。
「急ぐぞ! 追いつけば、温かい食事が食える!」
欲が、恐怖を上書きする。
昨晩からの絶え間ない寒さと疲労で、彼らの思考は凍りついていた。
理性的な判断など、とうに消え失せている。
ただ、その「温もり」だけが、唯一の救いであるかのように思えたのだ。
彼らは走り出した。
その先にいるのは、彼らを救う聖人ではない。
彼らを「コスト」として切り捨てた、かつての仲間だというのに。
「待っててください……! 今行きますからぁ!」
エリスの切迫した声が、氷の回廊に虚しく響いた。
◇
『警告。後方より生体反応が接近中』
檜風呂から上がり、湯上がりの羽織り姿で映画を観ていた俺に、シィが告げた。
手元には、シィが「ポップコーン」と呼ぶ菓子がある。穀物を熱で弾けさせた、軽い食感のスナックだ。
フィンは俺の足元で、丸くなって高いびきをかいている。
「魔物か?」
『いえ、人間です。四名。識別パターン……パーティ名『オリオンの牙』と合致』
「……へえ」
俺はポップコーンを口に放り込んだ。
意外としぶといな。まだ生きていたのか。
「まあ、放っておけ。どうせ追いつけない」
この悪路を、要塞は止まることなく進み続ける。
徒歩の彼らが追いつけるはずがない。
『ですが、彼らは痕跡を追跡しています。このまま停車して休息を取った場合、数時間で接触する可能性があります』
「なら、休まず進めばいい。俺が操縦を続ける」
『了解。……マスター、一つ報告が』
「なんだ?」
『先ほどの設備投資により、魔石の在庫が残りわずかとなりました。現状のペースで移動と暖房を維持した場合、次の補給なしでは十二時間後に稼働停止します』
「……は?」
ポップコーンを持つ手が止まった。
「おい、待て。黒字だったんじゃないのか?」
『はい。黒字分はすべて檜風呂とホームシアターに変換されました』
「……まあ、また稼げばいいさ」
俺は軽く肩をすくめた。
問題ない。これまでと同じように、魔物を狩れば補充できる。
「シィ、周辺に獲物は?」
『周辺エリアの魔物分布をスキャン中……。反応なし。この先のエリアは「静寂地帯」です。魔石の現地調達は困難と推測されます』
「……は?」
ポップコーンを持つ手が止まった。
口の中のポップコーンが、急に砂のように味気なく感じた。
静寂地帯。
つまり、敵が出ないエリア。
ということは、魔石も手に入らない。
「(……マジかよ)」
背筋を冷たいものが走り抜ける。気のせいじゃない。
要塞の室温が、既に下がり始めているような錯覚を覚える。
やってしまった。
調子に乗りすぎた。
たかが風呂のために、命綱を使い切ったのか、俺は。
後ろからは元仲間たちが追ってくる。あの顔は、さぞかしゾンビのような形相だろう。
懐はすっからかん。
そして外は極寒の地獄。
……まずい。
これは、非常にまずい展開になってきた。




