第10話『命乞いと資産価値』
静寂は、唐突に破られた。
ズズズズズ……。
山の奥底から響くような、重低音。
氷の大地が微振動を始め、ゼインたちがへばりついていた窓ガラスがカタカタと揺れる。
「な、なんだ……?」
ゼインが、死人のような顔でゆっくりと目を開けた。
振動は急速に大きくなる。
足元の氷に亀裂が走り、蜘蛛の巣のように広がっていく。
「おい、まさか……」
「嘘でしょ……ここ、深層のルート上よ……?」
カーラの顔色が、雪よりも白くなる。
彼らは忘れていた。
リドの要塞が通り過ぎた後とはいえ、ここはSランクダンジョン『グラン・アビス』の深層だということを。
そして、先ほどまで自分たちが、狂ったように大声を上げ、装甲を叩き続けていたことを。
音。
深層において、それは死への招待状だ。
彼らが泣き叫び、装甲を叩いたその騒音が、眠れる悪夢を呼び覚ましたのだ。
ドォォォォォォォン!!
轟音と共に、要塞の背後の氷原が爆発したように舞い上がった。
飛沫の向こうから現れたのは、悪夢そのものだった。
円筒形の巨体。
先端には目がなく、代わりに無数の牙が三重螺旋を描く口腔。
深淵の捕食者、アビス・ワーム。
その全長は優に三十メートルを超えている。
「ヒッ、ヒグッ……!」
エリスが短い悲鳴を上げて腰を抜かした。
戦う? 無理だ。
万全の状態でも、四人がかりでようやく撃退できるかどうかという怪物だ。
今の彼らは、寒さで手がかじかみ、武器は刃こぼれし、マナも枯渇している。
勝算など、万に一つもなかった。
ギィィィィィィン……!
ワームが耳障りな咆哮を上げる。
その口腔が、ゆっくりと四人へと向けられた。
捕食対象としてロックオンされたのだ。
「あ、あけるのよ! 早く! 早く開けなさいよ!!」
エリスが半狂乱になって、再び窓ガラスを叩き始めた。
爪が割れ、血が滲んでもやめない。
もはやプライドなどない。あるのは、剥き出しの生存本能だけだった。
「リド! いるんでしょ! 助けて! 死んじゃう! 私たち死んじゃうのよ!?」
「くそっ、オレだぞ! リーダーのゼインだぞ! 今までのことは水に流してやる! だから入れろ!!」
「おい荷物持ち! 盾くらいにはなってやるから!」
口々に叫ぶ彼らの言葉は、恐怖で支離滅裂になっていた。
ワームが、鎌首をもたげるように体を反らせる。
突進の構えだ。
◇
車内。
アラート音で目を覚ました俺は、サイドテーブルのモニターを気だるげに眺めていた。
『振動および音響感知。個体名:アビス・ワーム。推奨討伐レベル:A+』
シィの冷静な報告が響く。
モニター越しに見えるのは、絶望的な状況に陥った元仲間たちの姿だ。
音声はミュートにしているが、その表情と口の動きで何を叫んでいるかはおおよそ見当がついた。
命乞い、だ。
「……醜いな」
俺は冷めかけたコーヒーを一口すすった。
ブラックのままだ。……苦い。
彼らはまだ、自分たちに「助けられる価値」があると思っているのだろうか。
俺は、コンソールパネルを操作し、外部スピーカーのスイッチを入れた。
こちらの声は届くが、向こうの声は聞こえない一方通行の設定だ。
「……聞こえているか」
俺の声が響くと、彼らは一斉に動きを止めた。
救いの糸が垂らされたと思ったのだろう。エリスが顔をくしゃくしゃにして、ガラスに頬を押し付けた。
俺はミュートを解除する。
途端に、絶叫のような懇願が雪崩れ込んできた。
「リド! お願い、開けてぇぇ! 寒い! 痛いの! 死にたくない! もう嫌ぁぁぁ!」
「そうだよリド! 俺たちはパーティだろ!? 仲間だろ!?」
仲間。
その単語を聞いた瞬間、俺の脳裏に、古い記憶がフラッシュバックした。
──『リド、君は俺たちの家族だ』
冒険者を始めたばかりの頃。
焚き火を囲んで、まだ安物の剣を持っていたゼインがそう言って笑った。
エリスが、俺の擦りむいた膝に絆創膏を貼ってくれた。
あの時、確かにそこには温もりがあった。
俺が守りたかった、居場所があった。
(……ああ)
胸の奥が、一瞬だけチクリと痛んだ。
だが……その痛みは、次の息を吐く頃には消えていた。影も形もない。
その「家族」は、俺を雪原に捨てたのだ。
コストカットという、あまりにも薄っぺらい理由で。
なら、こちらも「コスト」で判断するのが道理だろう。
「リド……ねえ、聞いて……!」
エリスが、ガラス越しに媚びるような上目遣いを見せた。涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃになり、かつての「聖女」の面影はどこにもない。あるのは死を恐れるただの雌の顔だけだ。
「わ、私、なんでもする! 靴でもなんでも舐める! だから入れて! お願いだからぁ! 死にたくないよぉぉ!」
「おいエリス! てめぇ!」
「うるさい! あんたなんかより私の方が役に立つのよ! リドぉ! お願いぃぃ! 奴隷でもいいからぁぁ!」
必死な形相で、服の襟元を寛げようとするエリス。
それを見て、俺の中に残っていた最後の一欠片の情すらも、溝の底に落ちていくように消えた。
彼らは理解していない。
俺が求めているのは、対等な取引だ。
感情や情欲といった不確定な要素は、今の俺にとっては最も不要なノイズでしかない。
「……シィ」
『はい、マスター』
俺は、飲み干したコーヒーカップをテーブルに置いた。
————カチャン。
乾いた音が、車内の静寂に響く。
「損益分岐点の計算をしてくれ」
『対象は?』
「外にいる四人。彼らをこの要塞に収容・維持した場合の、消費と利益の比較だ」
『了解しました』
シィの電子音が鳴る。
俺は冷めた目で、窓の外で身を寄せ合い、震えている四人を見下ろした。
武器は刃こぼれし、鎧はひしゃげ、瞳からは理性の光が消えている。
修理できそうにない、ガラクタ。
……何となく、そんな印象があった。
ワームが、巨体をバネのように縮め、飛び掛かる予備動作に入っている。
あと数秒で、あの牙が彼らを飲み込む。
モニターに、無機質な文字列が流れ始める。
ワームの影が、窓の向こうで膨れ上がっていく。




