とある日侍従はお仕置きしに帰りました。(中編)
妹が産まれた。
待望の女児ということで一族は沸き立ち、邸は連日お祭り騒ぎだった。しかし同時にラウールの足元は一気に冷え込むこととなった。
あの食堂での一件も手伝って、ラウールへのメイド達の態度は腫れ物を触るかのようなものになり、母とはどこかギクシャクとした関係になってしまった。今までラウールを神童だ天才だなどと持ち上げていた分家の者達も、家を継げぬ男には用はないとばかりに、一部を除き彼を蔑むようになった。
父だけは今まで通りにラウールに接してくれていたが、密かに思い悩んでいることをラウールは知っていた。
口さがない親戚たちが本家を訪れて妹と母を褒め称えつつラウールを貶す度に父がお気に入りのロッキングチェアに腰掛けて窓の外を浮かない顔で眺め、フッと目を伏せるのを、ラウールは親戚達の目から逃げ込んだ庭の植え込みからこっそりと見ていた。
入り婿であり、魔法使いでもない父の発言権はこの家において大きいとは言い難く、ラウールを庇おうにも一時凌ぎでしかなかったが、当時のラウールにとっては父の傍が最も安全な場所だった。
「ラウールさま、授業をお受けにならないのですか?」
親戚筋である分家にも、ラウールを蔑ろにしない者がいないわけではなかった。そのうちの一人である令嬢は、ラウールが邸を抜け出す度に彼を追ってきた。
「……」
市場が開かれている広場の片隅に無造作に置かれた空の木箱に座っていたラウールが彼女の質問に答えず黙り込んでいると、彼女はそのまま彼の横に腰を下ろした。
「……おい、服が汚れるぞ」
ラウールが座った木箱はお世辞にも綺麗とは言い難かった。案の定、彼女のスカートには土埃がついてしまっていた。
「まぁっ、心配してくださったんですか?」
ラウールの言葉に彼女は大きく目を見開き口に手を当てて驚きを示した。
「なわけねーだろ」
わざとらしさ極まる態度にラウールは顔を引きつらせた。私、嬉しいですっ!と高い歓声を上げキラキラした満面の笑みを彼に向ける彼女は間違いなく計画犯だ。笑顔の仮面をひっくり返せばその裏側に、してやったりというニヤニヤ顔が見られるのではないだろうか。ラウールは低く嘆息し、上半身を倒して目を閉じた。パラパラと木屑が髪やシャツについたが、彼の知ったことではない。
「御髪が汚れますよ」
「いつものことだろ」
周囲を探ると、こちらを伺う視線が一、ニ、三、四つ。これもいつものことだ。父に命じられたのだろう。
(ま、これなら大丈夫だな)
ラウールは隣から微かな揺れが伝わってくるのを感じながら、ほんのり頬を温める日差しに身体の力を抜いた。今日もいつもと同じようにこっそり持ち出してきた本を開いているのだろう。少しざらついた紙が擦れる音と、古いインクの香りがした。
……。
――ほら、ご覧になって。
――ああ……本家の。魔法の練習をしてるみたいね。
――あんなに必死になっちゃって。……可哀想にねぇ!
――どうせ全部無駄なのに。
ズビシッ!!
「――ぃいったッ!? な、何だ!?」
額から後頭部まで真っ直ぐ突き抜ける衝撃にラウールはガバリと起き上がった。見開いた目に淡いオレンジ色に光る石畳が映った。
(眠り込んでたのか)
彼はぐっと伸びをしながら身を起こした。傾いた陽に照らされた市場はとっくに店じまいをして天幕を畳んでいるところもあった。
「随分と長いお昼寝でしたね」
可憐な微笑みを浮かべたデコピン犯にラウールはじっとりした目を向けた。
「もっと別の起こし方があったんじゃねーの」
責めるような口調になったのは仕方ないだろう。何せ額が割れたかと思ったくらいなのだ。直撃部位はまだヒリヒリしていた。
「あら、もっと痛い起こし方をお望みだったんですか?」
もしや音に聞く『まぞひすと』とかいう人種でいらっしゃるのですか?とハッとしたように言う彼女は実にイイ性格をしている。
「はぁ……後で覚えてろよ」
「今忘れました」
「……」
ラウールはスンッ、と真顔になった。
邸に帰ったラウールは一緒に付いてきた彼女を馬車に乗せて帰すと、その足でとある一室に向かった。
不思議なことに、彼が廊下を歩いていても誰一人として彼の姿を目に入れることはなかった。廊下を行く、両腕に洗濯籠を抱えたメイドも、片眼鏡を押さえた執事も、彼を見ることなく避けてすれ違った。そして誰もそのことを意識していないようだった。
辿り着いた部屋のピカピカ光る真鍮のドアノブをラウールはゆっくりと回した。白く塗られた扉は微かに軋んで重たげに彼を迎え入れた。
広い部屋は白を基調としてパステルカラーでまとめられていた。部屋の中は窓から差し込む仄暗い光と、控えているメイド達が点けたのか、ポツポツとした丸い灯りで照らされており、この部屋の主への気遣いが感じさせられた。そしてこの部屋でもまた、ラウールに注意を払う者はいなかった。
その「主」は揺り籠の中でぷすー、ぷすーと鼻息を立てて眠っていた。ラウールに気付かぬメイドたちはその様子をほっこりとした穏やかな笑みを浮かべて見守っている。
彼はメイド達から視線を逸らして揺り籠に近付いた。
(この部屋に来るのもひと苦労だなー……)
妹の部屋に来るために、ラウールは認識阻害の魔法(本来はラウールのような少年が使える魔法ではないのだが)を使う必要があった。
次期当主候補筆頭である妹と、(分家の者達曰く)伯爵家にとっては「お荷物」であるラウール。食堂での一件もあって、彼は妹に対しての警戒対象として親戚達や邸の使用人達から妹との面会を妨害されていた(両親がいるときはその限りではなかったが)。そのため、妹と表向き会えるのは一週間に一回がいいところだった。
それを知ったのだろう、父は先日密かに妹の部屋の結界の「鍵」をラウールに与えた。内緒だぞ、と以前より細く骨張った人差し指を立ててみせた父は、眉を下げて困ったように微笑んでいた。
(……病弱なのに、無理、してないと良いんだけど)
頭の隅でチラリとそんな思考がよぎったが、
(いや、今は考えるのをよそう。そんなに長い時間認識阻害の魔法を維持できるわけじゃねーし)
長く息を吐き出して切り替えた。そして、彼は揺り籠の側に膝をついて中を覗き込んだ。妹は気づかず寝息を立てている。
ラウールからすれば、この妹は自分の立場や居場所を奪った仇のはずだ。それなのに、こうして毎日のように様子を見に来てしまう。一日の終わりに妹の寝顔を見ないとどうしてか落ち着いていられないのだ。
一度、母に介助されながら妹を抱かせてもらったことがある。ほとんど母が抱いていたと言っても過言ではなかった上、まだ妹の首が座っていないこともあってそれ以降させてもらっていないが、骨の無いようなふにゃふにゃとした身体は見た目よりもずっと重く、ラウールの記憶に否応なく染みつけられていた。
彼がほんのりと紅い顔をじっと見つめていると、妹の目がパチリと開いた。こちらのことは見えていないはずだが、彼女の澄んで艶々とした瞳を真正面から捉えたラウールは肩をビクリと震わせた。そのまま硬直していると、揺り籠の縁に置いた手に、フニ、と何かが触れた。
妹のふくふくと柔らかな紅葉が彼の指を握り込んでいた。
(――っ!?)
妹の掌はラウールの体温よりも少しだけ熱くて、ぷにぷにとした感触を伝えてくる。小さくか弱い、強く握り込みでもすればまだ子供の彼の力でも簡単に砕けてしまいそうな手。それなのに彼の指を握り込んでくる力はひどく強かった。
ラウールはくしゃりと顔を歪めた。
「はは、……ひでーな」
嫌うことも憎むことも無関心になることもできないのだから。
ラウールは頬を熱いものが伝うのを感じながら、ちいさなちいさな愛しい温かさをそっと両手で包み込んだ。
* * *
伯爵家の門をくぐったラウール達を出迎えたのは、彼の八歳年下の妹だった。
「……お久しぶりですね、兄様」
彼女は蒼い顔をしてぎこちなく挨拶をした。ラウールは手早く彼女の全身を魔法でチェックして、取り敢えず身体にはどこにも怪我や病気等の異常が無いのを見てとってホッと息を吐いた。無事だという報告は受けていたが、こうして姿を確認するまでは密かに焦燥感を募らせていたのだった。
「ああ。バ……奴らに軟禁されていたそうだが、無事なようで何よりだ。早速ですまんが、奴らのところに案内してくれ」
「ええ……こちらです」
落ち着いた色のドレスの裾を翻した彼女はラウール達を先導して歩き出した。
コツ、コツ、コツ
長い廊下に、足音だけが響く。誰も何も言わない。沈黙がその場を支配していた。
ラウール達から少し離れて、ラウールの妹は彼らの前を歩いている。ラウールは歩きながら妹のドレスの裾を縁取る細やかなレースと磨かれた自分の靴との間の床をぼうっと見つめた。そうしていると、木目を透かして底の見えない谷が見えてくるような気がした。
(……いつからだったかな)
いつから、妹との間にこんなに深い溝ができてしまったのだろうか。少なくとも昨日、一昨日の話ではないのは確かだった。
妹が淑女教育やブラン伯爵家の次期当主としての教育を受け始める前くらいまでは、休暇の度にままごとに付き合ったり、膝に乗せて絵本を読んでやったりしたものだが、ラウールがフィリップに仕え始め、ある時の休暇から急に彼女の態度がよそよそしいものに変わったのだ。
ラウールが帰ってくる度に「にいさま、にいさま」と後を付いて回っていた妹は、気付いたときには離れた場所からほの暗い瞳で彼を見つめた後にスッと目を逸らすようになった。話し掛けると事務的な会話はするが雑談しようとすると「用事がありますので」と断られる。
(嫌われてる……んだろうなー……)
何が彼に対する妹の態度を豹変させたのかアレコレ考えてはみたものの、これだという確証を持つには至らなかった。そしてどんな理由で避けられているか分からない以上迂闊に近づいて妹を傷つけでもしたらと思うと、話しかけることもままならないのだった。
「こちらです」
妹に案内されたのは、本館から渡り廊下を通った先にある別館の隅に縮こまるように存在する部屋だった。ラウールも大昔に好奇心から入ってみたことがあるのだが、実はこの部屋の戸は内側から開けることができないので、自力で出られないことに気づいてから当時まだ存命だった父に救出されるまでひたすら泣き喚いていたのはいい思い出だ。閉じ込められたと分かった時はこのまま一生出られないのではないか、喉が渇いても水すら飲めずお腹が空いても何も食べられずにここが墓場と化すのではないかと心底恐怖した。
正直ちびった。干からびた死体になった自分をリアルに想像して。辛うじて閉所恐怖症にはならなかったのは幸いだった。その時のことを思い出したラウールは自分の目が悟りを開いた者のそれになるのを感じた。今日は実に良い天気だ。因みにこの廊下、窓は無い。
(あー、青空が目に染みるなー……っとそうじゃないだろ俺)
いつの間にか心の中の青空を超えてキラキラした虹のたもとまで短い間意識を飛ばしていたラウールはブンブンと頭を振って自分の身体に戻ってきた。一連の彼の様子を見ていた随伴の者が不審者を見たような顔をして軽くドン引いて一歩後ろに下がったのだが、そのくらいは些末なことだろう、多分。恐らく。
妹がドアノブを捻ると重厚な扉は見た目に反して軽い音を立てて開いた。ラウール達も後に続こうとすると、背後から涼しげな声がした。
「ラウール」
聞き覚えのある声にラウールが振り向くと、華奢な令嬢が佇んでいた。風が吹けばそのまま攫われてしまいそうに儚げな容姿で、本人もそれを解っていて「可憐な令嬢」に見られるようにラウールに対してすら猫を被っていた(彼にはバレバレだった)が、決して大人しく守られてくれるような女性ではないのは彼も気づいていた。そしてつい最近——具体的には一昨日知ったことだが、ラウールの想定以上に強靭な女性だった。
「どうしたんだ? 仕事は?」
返答には予想がついていたがラウールがそう訊ねると、彼女はにっこりと微笑んだ。
「休暇申請はしています。王女殿下には、『恋人を手伝って実家のやらかしたバカ達を再教育してこようと思うので休暇を頂けますか』とお伝えしたら満面の笑みでお見送りしてくださいました」
「うんまあそうだよね分かってた」
未来の義姉を慕うアニエスが、その姉を危険に晒した原因と言える者達をみすみす見逃すはずはないのだ。それはもうトラウマとなる恐怖(「トラウマレベルの恐怖」ではない。確実にトラウマとなる恐怖)を植え付けまくるに決まっている。今回アニエス本人が出向いて来ないだけ、「バカ達」にとってはマシだろう。
「私はまだまだ未熟で王女殿下のような調きょ……再教育はできませんが、バカ達をせめて世間様にご迷惑をお掛けしない真人間にできるように精一杯務めさせていただきます。……尤も、まともな行動ができるようになったとしても生来のバカが治るかは怪しいところですけれど」
バカにつける薬は無いと聞いたことがあります、と恋人に豆知識を披露した彼女——アンナは可愛らしい照れ笑いを浮かべた。照れるタイミングが根本的に違うような気がする。
(主に似て毒舌ッ! でもそんなとこも好き!!)
……ラウールは喜んでいたようなのできっとこれで良いのだろう。
「うん、じゃー手伝ってもらおうかな」
ラウールがそう言うと、彼女は喜色を滲ませて頷いた。
室内には数人の女性達がおり、こちらに気が付くともの凄い形相で睨み据えてきた。
(反省するどころか何がいけなかったのか全く分かっていない顔だな、こりゃ)
アンナが現れてから何故か浮気男を見るような目で彼を見ていた妹は手で女性たちを指し示した。
「彼女たちが今回の首謀者です。実行に加わった男たちは別の場所で拘束しています」
「そうか、じゃあそっちには後で向かうとしよう。とりあえずこいつらに罪状と処分を教えてやらないとな」
ラウールの言葉を聞いた女性たちは顔を怒りに歪ませ、一人が彼に噛みついてきた。
「処分ですって!? お前が!? わたくし達に!? 冗談も程々になさいな!!」
「冗談? 何の冗談を俺が言うというんだ?」
「とぼけないで!! お前如きがわたくし達に処分など下せるはずが無いでしょう!?」
ラウールが心底何のことか分からず訊ねると彼女は一層声を荒げた。他の女性達も同調するように大きく頷いた。彼女はそれに勇気づけられたようで、ラウールを嘲るように唇を吊り上げて更に言い募ろうと口を開いた。
「所詮男でこの家を継ぐ権利すら無い無能のくせに——」
バシン!という突然の破裂音が空気を揺らした。
(——は?)
一瞬何が起こったのか分からなかった。気が付くとラウールに暴言を放った女性が倒れ込み、その上からくすんだ色のドレスを纏った少女が女性を床に押さえつけて殴りつけていた。




