第22話:夕暮れの地図と、ほどけかけた赤いリボン 〜未来とは、描きながら迷う白い余白である〜
放課後の王立騎士養成学校は、昼間の熱をゆっくりと冷ましていた。
訓練場の砂は、何度も踏み荒らされた跡を残している。木剣で削られた細かな木屑が、夕暮れの光を受けて金色に光り、風が吹くたびに、さらさらと足元を転がっていく。石造りの校舎の壁は西日を浴び、白かったはずの表面を淡い橙色に染めていた。
遠くの鐘楼から、夕方を告げる鐘が鳴る。
からん。
からん。
その音は高く澄んでいて、校庭に残る生徒たちの笑い声や、剣を片づける木の音や、馬小屋の方から聞こえる鼻息を、ゆっくり包み込んでいった。
春の風が、少しだけ冷たくなっていた。
昼間は明るく揺れていた花の木も、今は影を長く伸ばしている。枝先に残った花びらが、夕陽の中で薄く透けていた。風が通るたび、はら、はら、と数枚が落ちる。白く小さな花びらは石畳に触れると、音もなく止まった。
その校舎裏の古木の下で、ゼイクとリリアは並んで座っていた。
二人の膝の上には、例の未完成の地図が広げられている。
昼に見た時よりも、地図はずいぶん賑やかになっていた。
ゼイクの引いた線はまっすぐだった。道の曲がり方、川の流れ、森の広がり、山までの距離。どれも細かく、迷いがない。黒いインクの線は、白い紙の上で凛としていた。
一方で、リリアの書き込みは自由だった。
川のそばには魚の絵。
森の中には、やたら笑顔のきのこ。
北の空白には『きっとすごい景色』と大きく書かれている。
さらに、王都の外れには、丸で囲まれた場所があった。
『未来の拠点』
その下には、リリアの字で『ゼイクとリリアの無敵城』と書いてある。
ゼイクは、それを見て深く眉を寄せた。
「何度見ても、名称が軽すぎる」
「えー、いいじゃん。強そうで」
「強そうではない。子供が砂場に作った砦の名だ」
「じゃあ、ゼイクなら何にするの?」
「暁の砦」
リリアは、少し黙った。
そして、ぷっと吹き出した。
「なにそれ。真面目すぎて逆に恥ずかしい」
「君の案よりはましだ」
「じゃあ間を取って、暁のどんぐり城」
「なぜ混ぜた」
「平和的な解決」
「悪化している」
リリアは声を立てて笑った。
その笑い声に、近くの枝に止まっていた小鳥が驚き、羽ばたいて飛び立った。ばさばさ、と小さな羽音が夕暮れの空へ消えていく。
ゼイクはため息をついたが、羽根ペンを置かなかった。
彼は地図の端に小さな四角を描き、その横に几帳面な文字で『候補地』と書いた。
リリアがそれを覗き込む。
「あ、残してくれるんだ」
「地形的には悪くない。水場が近く、高台もある。見張りを置くなら有利だ」
「でしょ? 私の勘、すごいでしょ?」
「勘で場所を決めるな」
「でも当たった」
「たまたまだ」
「たまたまでも当たったら勝ち」
「勝ち負けの話ではない」
ゼイクはそう言いながらも、候補地の周囲に道を書き足した。
その横顔を、リリアは少しだけじっと見ていた。
夕陽が彼の頬に斜めから当たり、銀灰色の髪の縁を淡く光らせている。真剣な目。きっちり結ばれた唇。少し不機嫌そうに見えるのに、地図を描く手つきはどこか楽しそうだった。
リリアは、ふっと笑った。
「ゼイクってさ」
「何だ」
「文句言いながら、ちゃんと付き合ってくれるよね」
「不正確な地図を放置できないだけだ」
「はいはい。そういうことにしておいてあげる」
「事実だ」
「うん。ゼイクの事実は、ちょっと照れ屋だもんね」
ゼイクのペン先が、かすかに紙をひっかいた。
ほんの少しだけ、線が曲がる。
彼は無言で、その線を見つめた。
リリアは目ざとく気づいた。
「あ、今ちょっと動揺した」
「していない」
「線が曲がったよ」
「風だ」
「風、便利だね」
ゼイクは咳払いをした。
リリアは楽しそうに肩を揺らす。
その軽い空気の中で、古木の枝がまた揺れた。
花びらが一枚、リリアの赤いリボンに引っかかる。彼女は気づかないまま、地図へ手を伸ばした。リボンの結び目が少し緩んでいる。細い布の端が風にあおられ、頼りなく揺れた。
ゼイクはそれを見て、わずかに眉を寄せた。
「リリア」
「ん?」
「リボンがほどけかけている」
「あ、本当?」
リリアは後ろ手で結び目に触れようとしたが、うまく届かなかった。指先が髪を少し乱し、赤い布をさらに緩めてしまう。
「あー、見えない。ゼイク、結んで」
「自分で結べ」
「見えないんだってば」
「一度外せばいいだろう」
「今外したら風で飛ぶ」
「なら最初からきちんと結んでおけ」
「お説教しながらでもいいから結んで」
ゼイクは黙った。
沈黙が、二人の間に落ちる。
その沈黙は重くはなかった。ただ、少しだけ不器用だった。
リリアは背を向けて、膝の上の地図を押さえている。赤茶色の髪が夕陽に透け、風に揺れるたび、細い毛先が光った。赤いリボンはほどけかけたまま、今にも飛ばされそうに震えている。
ゼイクは、短く息を吐いた。
「……動くな」
「はいはい」
「返事は一回でいい」
「はい」
ゼイクはリボンに手を伸ばした。
指先が、細い布に触れる。
布は思ったより柔らかかった。訓練で使う革紐とも、書類を束ねる紐とも違う。少し古びていて、何度も結び直された跡がある。それでも丁寧に使われているのがわかった。
結び目をほどき、整え、もう一度結ぶ。
風が吹いた。
リリアの髪がゼイクの指に触れた。ほんの一瞬だった。春の草と、太陽を含んだ布のような匂いがした。
ゼイクは無言で結び終えた。
「終わった」
「ありがと」
リリアは振り返り、笑った。
その笑顔は、夕暮れの光の中でまぶしかった。
ゼイクは視線を地図へ戻した。
「次からは自分で結べ」
「うん。次もお願いするね」
「話を聞いていたか」
「聞いてたよ。ゼイクが結ぶの上手だなって」
「そういう話ではない」
リリアはまた笑った。
ゼイクは今度こそ大きくため息をついたが、その手は、地図の上に戻っていた。
リリアは丸で囲んだ『未来の拠点』を指差した。
「ねえ、ここにさ。いつか本当に行こうよ」
「候補地としては悪くないと言っただけだ」
「じゃあ候補地を確認しに行く必要がある」
「勝手に予定を作るな」
「予定じゃなくて、約束」
ゼイクの手が止まった。
リリアの声が、少しだけ静かになっていた。
先ほどまでの軽さはまだ残っている。けれど、その奥に、わずかに違う色が混じっていた。
夕暮れの空に、雲が細く伸びている。
橙色の光がその縁を染め、遠くの屋根の上で鳥の群れが黒い点になって流れていく。
リリアは地図を見つめたまま、小さく言った。
「私たち、ずっと一緒だよね」
風が止まった。
花びらの音も消えた。
遠くの訓練場で片づけられていた木剣の音だけが、かん、と乾いて響いた。
ゼイクはリリアを見た。
彼女は笑っていなかった。
琥珀色の瞳は、地図の先ではなく、もっと遠いどこかを見ているようだった。
ゼイクは、少しだけ不思議に思った。
そんなこと、聞くまでもない。
リリアは隣にいる。
今日も、明日も。
卒業して、正規の騎士になっても。
任務に出ても、地図を広げても、面倒な寄り道に付き合わされても。
彼女がいない未来など、ゼイクの中には存在していなかった。
「当たり前だろ」
だから、彼は迷わず答えた。
「私と君はペアだ。卒業しても、それは変わらない」
リリアの瞳が、少しだけ揺れた。
そして次の瞬間、彼女はいつもの顔に戻った。
「そっか」
悪戯っぽく笑う。
「じゃあ、私が将来サボって怒られた時も、ゼイクがずーっとかばってくれるってことだね」
「……今の発言を取り消す」
「だめ。聞いた。ちゃんと聞いた。地図に書いておこう」
「書くな」
リリアはすでにペンを握っていた。
地図の端に、勢いよく文字を書こうとする。
ゼイクは慌ててその手を止めた。
「やめろ。地図を私的な証書にするな」
「しょうしょ?」
「……約束を書き残す紙にするなという意味だ」
「じゃあ、なおさら書いた方がいいじゃん」
「よくない」
二人の手が、地図の上で重なった。
ほんの短い時間だった。
リリアの指は温かかった。
ゼイクはそれに気づいて、すぐに手を離した。
リリアは、何も言わなかった。
ただ、少しだけ嬉しそうに笑っていた。
その日の夕暮れは、何も壊れなかった。
地図は破れず、リボンは風に飛ばされず、二人は教官に少しだけ叱られ、リリアは「ゼイクのせいで遅れました」と平然と言い、ゼイクは人生で初めて、深く、本当に深く、人を言葉で叩きたくなった。
けれど、それもいつものことだった。
春は過ぎた。
花びらは散り、校舎裏の古木は青い葉を濃く茂らせた。雨が何度か降り、石畳の隙間に小さな草が伸びた。朝の空気に混じっていた柔らかな冷たさは消え、代わりに、肌へまとわりつくような重い湿気が王都を包むようになった。
夏が来ていた。
王立騎士養成学校の訓練場では、陽射しが白く跳ね返っていた。
砂は乾いているように見えて、靴底で踏むと内側にこもった湿り気が重く返ってくる。剣を振るたび、制服の内側に汗が滲み、首筋を伝った汗が襟に吸われていく。遠くの空には、巨大な白い雲が盛り上がっていた。まるで空の上に、見えない山が生えたようだった。
その雲の底だけが、少しずつ灰色に沈んでいた。
「雨が来るな」
ゼイクは空を見上げて言った。
訓練場の端で、リリアは水筒を傾けていた。額に張りついた髪を指で払い、赤いリボンを結び直す。夏の光を受けたその赤は、春よりも濃く見えた。
「ゼイク、天気まで読むの?」
「雲の形、風向き、湿度、鳥の飛び方を見ればある程度はわかる」
「うわ、かっこいいこと言ってるのに、ちょっと面倒くさい」
「面倒なのは君の感想だ」
「でも、今日は降らないでほしいな」
リリアは遠くの空を眺めた。
校庭の向こうでは、教官たちが荷馬車の準備をしている。槍、縄、簡易の盾、応急用の包帯。騎士見習いとして参加する初めての実地任務だった。
辺境の村の近くに、数体の魔獣が出た。
正規の騎士が主力を務め、見習いたちは後方支援と包囲の補助を担う。危険は低い。そう説明されていた。
ゼイクは、その説明をそのまま信じなかった。
彼は事前に配られた資料を何度も読み込んだ。村の位置。森の範囲。川の流れ。魔獣の目撃数。過去の被害。退避場所。風向き。逃走経路。
すべてを確認した。
すべてを線にした。
頭の中には、もう地図ができていた。
「予定通りに動けば問題ない」
ゼイクは言った。
「正規騎士が魔獣を追い込み、私たちは南側の退路を塞ぐ。村人はすでに避難済み。余計な行動を取らなければ、危険は最小限に抑えられる」
「余計な行動って?」
「君が突然、木に登るとか」
「任務中は登らないよ」
「どうだか」
「信用ないなぁ」
「実績がない」
「失礼な。私には実績があるよ」
「何のだ」
「ゼイクを困らせる実績」
「誇るな」
リリアは笑った。
その笑い声は夏の風に軽く乗り、訓練場の熱を少しだけ冷ました。
ゼイクは口では呆れながらも、鞄の中に地図を入れた。春から何度も描き足してきた、あの未完成の地図だった。今回向かう辺境の村も、少し前に二人で書き込んだ場所の近くにある。
リリアがそれに気づき、目を細めた。
「持っていくんだ」
「現地で修正が必要になる可能性がある」
「そっか」
リリアは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、また少し完成に近づくね」
「正確にな」
「うん。正確に、楽しく」
「楽しくは任務に不要だ」
「でも、あった方がいいよ」
ゼイクは答えなかった。
その時、遠くで雷が鳴った。
低い音だった。
空のずっと奥で、巨大な石が転がったような音。
誰もが一瞬だけ空を見た。
雲の底は、さっきより黒くなっていた。
*
辺境の村へ着いた頃、空は重く垂れ込めていた。
昼間のはずなのに、周囲の景色は灰色に沈んでいる。村の周囲には背の高い草が広がり、湿った風に押されて、ざわ、ざわ、と不安げに揺れていた。草いきれが濃い。青い匂いというより、雨の前に土の中から立ち上る重たい匂いだった。
村人たちは、すでに広場の奥へ避難しているはずだった。
そのはずだった。
ゼイクは隊列の後方で、村の地形を見ていた。資料と大きな違いはない。北に小さな森。東に川。南に低い丘。西側が開けている。
作戦は単純だった。
魔獣を森から追い出し、正規騎士が正面で受ける。見習いは左右へ散り、逃げ道を塞ぐ。川沿いはぬかるむため、近づきすぎない。黒雲の動きから見て、雨は近い。長引かせるべきではない。
「南側、予定通り押さえる」
ゼイクは班員へ短く告げた。
リリアが隣で頷く。
「了解」
彼女の声にも、いつもの軽さはなかった。
湿った風が吹いた。
赤いリボンが、頬の横で小さく揺れた。
森の奥から、魔獣の唸り声が響いた。
低く、濁った音。
次の瞬間、黒い毛並みを持つ獣が草を割って飛び出した。狼に似ているが、体は馬ほどもある。口の端から涎を垂らし、背中の毛は怒りで逆立っている。さらに奥から、二体、三体と続く。
正規騎士たちが盾を構えた。
金属が鳴る。
槍の穂先が灰色の光を受け、鈍く光った。
「包囲!」
教官の声が飛ぶ。
ゼイクたちは動いた。
訓練通りだった。
足元の草を踏む音。
革靴が湿った土を叩く音。
呼吸。
心臓の鼓動。
すべてがはっきり聞こえる。
ゼイクの頭は冷えていた。魔獣の動き、味方の位置、風向き、退路。すべてが線になり、面になり、頭の中の地図へ重なっていく。
問題ない。
このままなら、問題ない。
そう思った。
その時だった。
「待って!」
リリアの声がした。
ゼイクは視線だけを動かした。
村の外れ。
崩れかけた小屋の影。
そこに、小さな子供がいた。
五つか六つほどの男の子だった。恐怖で腰を抜かしたのか、泥の上に座り込んでいる。避難の列からはぐれたのだろう。泣き声すら出せず、目を見開いて固まっていた。
魔獣の一体が、その子供に気づいた。
頭を低くする。
唸り声が変わる。
獲物を見つけた音だった。
「隊列を維持しろ!」
教官が叫んだ。
正しい指示だった。
ここで包囲を崩せば、魔獣が抜ける。見習いが勝手に動く場面ではない。子供を救うなら、正規騎士が動くべきだった。
ゼイクは理解していた。
理解していたのに。
「助けなきゃ!」
リリアが走り出そうとした。
ゼイクは彼女の腕を掴んだ。
「待て。勝手に動くな」
「でも、あの子が!」
「今動けば包囲が崩れる」
「崩れたって、また立て直せばいい!」
「危険だ」
「危険でも、目の前で見捨てる方が嫌!」
リリアの瞳が、まっすぐゼイクを見た。
雨の匂いが濃くなる。
遠くで雷が鳴った。
ゼイクの頭の中で、地図が揺れた。
規律。
作戦。
隊列。
正しい判断。
そのすべての上に、春の木漏れ日の中で笑っていたリリアの声が重なった。
完璧な地図を持ってから出発しようと思ったら、きっと一生どこにも行けないよ。
ゼイクは、一瞬だけ迷った。
その一瞬が、すべてだった。
「……行くぞ」
彼は言った。
リリアの顔が、ぱっと明るくなる。
二人は隊列を離れた。
湿った草を蹴り、子供へ向かって走る。
靴底が泥を跳ね上げる。草の葉についた水滴が、脛に冷たく当たる。魔獣がこちらへ向きを変えた。ゼイクは剣を抜き、リリアは子供へ手を伸ばす。
「大丈夫! こっちへ!」
リリアの声は、雷の下でもはっきり響いた。
子供が泣きながら腕を伸ばす。
リリアがその体を抱き寄せた。
その瞬間、空が裂けた。
白い光。
遅れて、耳を塞ぎたくなるような轟音。
雷が、近くの木に落ちた。
幹が弾け、焦げた匂いが風に混じる。
同時に、雨が来た。
一粒、二粒ではない。
空の底が抜けたように、激しい雨が一気に地上へ叩きつけられた。
視界が白く潰れる。
地面が瞬く間に泥へ変わった。
川の方から、嫌な音がした。
ごおおおお、と、腹の底を震わせる低い音。
ゼイクは振り返った。
東の川が膨れ上がっていた。
山側で降っていた雨が流れ込んだのだろう。濁った水が岸を越え、草地へ広がってくる。水は枝や石や泥を巻き込みながら、恐ろしい速さで迫っていた。
「リリア、下がれ!」
ゼイクが叫ぶ。
リリアは子供を抱えて走ろうとした。
だが、足元の土が崩れた。
雨を吸った斜面が、ずるりと滑った。
リリアの体が傾く。
ゼイクは手を伸ばした。
届くはずだった。
ほんの少し前なら。
しかし、魔獣が横から飛びかかった。
ゼイクは反射的に剣で受けた。
重い衝撃。
腕が痺れる。
泥水が顔に跳ねた。
視界が一瞬、茶色に染まる。
「ゼイク!」
リリアの声が聞こえた。
彼女は子供を、ゼイクの方へ突き飛ばしていた。
子供の体が泥の上を滑る。
ゼイクは剣を捨て、片腕でその子を受け止めた。
その直後。
リリアの背後から、濁流が襲った。
「リリア!」
ゼイクは叫んだ。
声は雨に叩き潰された。
リリアは振り返った。
泥に濡れた髪。
頬についた雨水。
ほどけかけた赤いリボン。
彼女は、笑っていなかった。
でも、泣いてもいなかった。
「ゼイク、逃げて!」
その言葉だけが、雷雨の中で不思議なほどはっきり届いた。
次の瞬間、魔獣の爪が彼女の肩を裂いた。
赤い色が雨に滲む。
リリアの体が揺れる。
ゼイクは走ろうとした。
足が泥に沈む。
子供が腕の中で泣き叫ぶ。
濁流が、リリアを飲み込んだ。
赤いリボンが、空中で一瞬だけほどけた。
夏の灰色の世界の中で、その赤だけが鮮やかだった。
ゼイクは手を伸ばした。
指先が、空を掴む。
届かなかった。
泥水が轟音を立てて流れていく。
リリアの姿は、もう見えなかった。
ただ、ほどけた赤いリボンだけが、水面に浮かび、泥と枝に絡まりながら、ゼイクの前を通り過ぎていった。
ゼイクはそれを掴もうとした。
しかし、濁流は冷たく、速く、容赦がなかった。
赤いリボンは、指先の少し先で沈んだ。
音が消えた。
いや、雨は降っていた。
雷も鳴っていた。
誰かの叫び声も、魔獣の唸り声も、泥を踏む足音もあった。
それなのに、ゼイクの耳には何も届かなかった。
世界が、厚い水の膜の向こうへ遠ざかったようだった。
腕の中の子供が泣いている。
助かった命がある。
目の前で消えた命もある。
ゼイクは、泥の中に膝をついた。
雨が顔を打つ。
髪から水が滴る。
唇が震える。
冷たい汗なのか、雨なのか、もうわからなかった。
「……リリア」
声は、喉の奥で壊れた。
返事はなかった。
泥水が流れていく。
未完成の地図を入れた鞄が、ゼイクの腰で重く濡れていた。
その中の紙に、きっと水が染みている。
二人で描いた線も、笑いながら書き足した文字も、未来の拠点も、全部、滲んでいる。
ゼイクは、動けなかった。
雨は降り続けた。
夏の空は黒く、重く、何も答えなかった。
そしてその日。
ゼイクの中で、「なんとかなる」という言葉は、死んだ。




