萎れた父
公爵夫人を見送り、その馬車が我が家の敷地を出るのを見届けてから私は父の書斎へ足を運んだ。
「リンダありがとう。」
「侍女としてお嬢様の一助となるよう行動しただけにございます。」
何時もジャニアに伺いを立ててから父と会うようにしているのだけれど、私の行動を察したリンダが先にジャニアへ父の予定を聞いてくれたのだ。更に幸いなことに丁度父の仕事が一段落ついたらしく、今から夕食までは時間が取れると聞いている。
私が書斎の扉を叩き、中から開かれたかと思えば顔を出したのはジャニア。
「お父様とお話しても?」
「勿論です。寧ろお嬢様にはアレをどうにかして頂きたく…」
苦笑いのジャニアが入室を促すように扉を大きく開いた。
夕日の差し込む重厚な部屋に父はいた。のだけれど、顔を机に付けた状態で羽ペンで何かを書いている父はなんというか、前の人生の『やる気無い学生』を彷彿とさせるのは気のせいだろうか。
今までに無くやる気の見られない父に思わず「お父様に今お会いしても、大丈夫なのよね?」と小声でジャニアに確認を取れば大きく頷いてから、目を逸らされた。
「お嬢様が細やかな茶会を楽しまれている最中、ずっとあの状態でお仕事をなさっておられました。滞りなどは無かったので今まで咎めはしませんでしたが、是非ともお嬢様にはどうにかして頂きたく…」
あの姿勢で仕事が出来る父は凄いが、あの姿を同室で数時間放置できるジャニアも凄い。
諦めの表情で「滞らせたのは自分なんですけどねえ」と呟いたジャニアに、私は責任の一端を感じて気まずくなった。
アニスの茶会の一件で酷く心配を掛けてしまった父は、私と一緒に寝たあの日から急ぎの仕事をジャニアに選別させ、それらに目を通して仕事をする以外の一切を私と共に過ごそうとしたらしい。実際、私が心配になるくらい父は私の部屋に訪れて私と一緒にいてくれた。
不安から何度も大丈夫かと聞いていたのに、父は笑顔で頷くだけ。ジャニアに問うと表情こそ芳しく無かったが『お嬢様の快癒が最優先ですので』とだけ。
私に予定が入った今日まで父との時間は増えに増えていたのだけれど、今朝ジャニアが朝食を終えた父を有無を言わせない笑顔で引き摺っていく姿に、仕事を滞らせるのにも限界が来たのは明確だった。
「拗ねる旦那様を宥め賺して仕事をして頂きましたが、そろそろ旦那様も限界のようですので。」
それで私が何とかしてくれ、と。そういうわけね。
私に気付いているのかいないのか、父は机から顔を上げることなく視線は羽ペンが描く何かを見つめている。そろりと近寄っても反応は無く、後ろへ回って机の上を覗うとグルグルと不規則な円が何度も、何度も、何度も書かれているだけ。
…その下に“契約書”と見えるのはきっと気の所為ね。
「お父様、お父様。」
「リリルフィアの幻聴がする…」
末期だ。
ジャニアとリンダを見ると、両者呆れと驚きを混ぜた難解な顔をして父を見ていた。二人の姿もだけれどこんな父も今まで見たことがない。
まるで枯れそうなまでに水を失った草木のようだ。
「お父様、幻聴ではありませんわ。私とお話をして頂きたいのです。」
「リリルフィア…話…」
ゆっくりと首を擡げ、こちらを見る。表情の抜け落ちた姿に水を与える術は心得ている、ジャニアが『どうにかして』と私にいったのだから、どうにかしようじゃないか。
グルグルで埋め尽くされた書類にまだ羽ペンを動かしている父の手を握り、父の瞳と目を合わせながら最大限の表情筋を駆使して微笑む。イメージは公爵夫人の慈愛ある微笑みだ。
「お仕事お疲れさまです、お父様。少し、リリーとお話しませんか?」
目線を合わせるために首を傾げたら髪がサラリと机に落ちた。夕日に照らされた父とお揃いの色のそれは深い色になっている。
私を見つめて動かなくなった父の羽ペンを抜き取り、インクで服が汚れては大変なのでラクガキと化した書類も机と父の腕から抜き取って。
そうしてもう一度父を見れば、目を見開いてこちらを見ていた。
「リリルフィア?」
「はい。お父様、お仕事お疲れさまです。」
暫しの沈黙。
私を凝視した父が私の頬を撫でるまで続き、ゆっくりと頬を滑る父の指が擽ったくて笑えば、それが何かカチッとスイッチを押したような気がした。
「リリルフィア…!!!!!」
立ち上がった父に掬うように抱き上げられ、片腕に乗せられる。クルクル回って強く抱き締められ、離されたかと思えば瞳を合わせた後にまたクルクル。存在を確認するかのような一連の動きは数十分間続いた。