愛の奏者との約束
父の怒りが滲む声の後、暫く部屋は沈黙を貫いていた。
誰も言葉を発さない中で空気が変わったのは、コンコンという部屋の外からのノックによって。
「何かありましたか…?」
ジャニアがゆっくりと扉を開けば聞き慣れた声。ジャニアは彼を内に入れることなく自身が部屋の外に一旦出た。外で待機していたらしいオレンジ髪の彼と話すようだ。
閉まった扉によって、部屋は再び静かになる。けれど先程までの重苦しい雰囲気は幾分緩和されていて、父の溜息によって沈黙も終わった。
「…ねえ、リリルフィア。俺はね、娘が自分の命を軽く見ているのを許せるほど、希薄な関係を築いたつもりはないよ。」
「承知しているつもりですわ。」
「ううん、わかってない。覚えてないかな?彼女が亡くなった後、俺がどうなったのか。」
朧げで、ラングが一緒に居るようになる前だった気がするが、断片的に覚えている。
母が私が3歳の時に亡くなり、その死に際は全く覚えていないが、記憶にある父はその母の死を乗り越えられずにいた。
私が今目の前にいるフィルゼントを父と認識したとき父は、顔色が悪くやせ細った状態で執務室と私の居る部屋を行き来するだけの人だったと思う。
『ーーー。』
印象に残っているのが母の名を呼び、私を撫でる父。
最初は忘れ形見である私に触れることで母を思い出しているのかと思っていたが、違うと分かったのは私が好奇心から外に出ようと扉から廊下へ顔を出したときだった。
ちょうど父が私の居る部屋へ来たところだったらしく、目があった父は驚いたの後私の腕を強く引いて、部屋へ引きずるように連れ戻した。
『どこへ行くの。またいなくなるの。ねえ、ーーー。』
ああ、父は“リリルフィア”を見ていない。
あの時ほど実年齢と精神の年齢が乖離していたことに喜んだ日はない。もしも5歳前後の精神であの時の父といたら、私はきっと今この場に生きているかも怪しいのだから。
自分を見てくれない父に、私は部屋に閉じ込められた。出ようとすれば戻され、出たいと願えば怒られたことも覚えている。
「覚えておりますわ。母の名を呼び、私を見ないお父様。」
声に出せば父は苦しそうに目を伏せ、当時を知らないリンダは目を見開いて父を見る。
朧げでも、私を尊重してくれる今の父はあの時、父性の欠片もなかったことは断言できる。
「父様を、またあの状態にする気?」
温度の無くした瞳の父に、私は機械のように左右へ首を振った。
言いたいことは多数あるけれど、大切な存在を失った結果が前の父ならば、今私が言葉の選択を間違うとあの状態に戻るぞと言いたいらしい。
新手の脅しに私は即答する。
「戻りませんわ。お父様はもう、私を見てくれてますもの。」
『希薄な関係を築いたつもりはない』と父が先程言ったのだ。それは私も思うことで、父が私と誰かを重ね合わせて病んでしまうとは思っていない。
父の中で“リリルフィア”は、閉じ込めてしまってはいけないと認識しているのだから。
「それにこれも覚えておりますわ。私は何度でもいいますわよ?『私はリリルフィアであって、妻や人形じゃありません。』と。」
思えばあの時、リリルフィアとしての人生で初めて感情を顕にしていた。
自分を見てくれない、閉じ込めるだけの父。その胸を叩いて私は叫んだのだ。
あの時父が私の言葉を聞いて、泣いて私を抱き締めてくれなかったら、私はここに居ないし小説の世界だと知ることもなく、広くても自由の利かない部屋で一生を過ごしていたかもしれない。
父は失う恐怖を知っている。けれどあの時既に父は母を失ったときの、私を母の代わりにするような父ではなくなっているのだ。
「お父様、私は長生きしますわ。自ら死を選ぶつもりは毛頭ありません。正直言いますと、カップケーキの中に入っている害あるもの…“サグタニス”の効果を“フラティ”が強めるということを知っていましたので、眠り薬が強力になるのだと思っていましたわ。」
小説では茶会で倒れた招待客たちは全員目を覚ましていた。キステイン子爵令嬢も殺す気は無かったと書かれていたから、私は毒を飲み込めたのだ。
私の言葉を聞いた父は不服そうな様子は変わらないものの、死なないという私の気持ちは受け取ってくれたようだ。柔らかく私を抱きしめて「約束だからね…?」と囁いた。
「リリルフィアが居なくなったら、父様は狂ってしまうよ。」
「それは大変ですわ。いつかはお嫁に行きますのに。」
「「え。」」
「…え?」
令嬢は他家へ嫁ぐものだろう。父も公爵子息のお見合い話の件を見ると、そのつもりなのだと思っていたが。
首を傾げた私をリンダまで不思議そうな顔をして見てくる。抱擁がキツくなり、少し苦しさを感じると先程とは別人のような低い声がした。
「結婚なんてしなくていいよ。もしも、本当に、リリルフィアがしたいって言うなら、婿養子しか認めないからね。」
ああ、その手があったか。
頭から抜けていた父とずっと一緒にいる方法を提示され、私は素直に頷いた。
頭を撫でてくれる心地よさに身を任せ、私も大概父が大好きなのだなと思った。