知らない心と怖い騎士
出来る限りあの方の部屋から離れたくて、走る。
走って走って、たまにすれ違う人が「アルジェント?」と心配そうに声をかけてくれるのは聞こえていたけど、止まって何を言えば良いのか分からなくて「すみませんっ!失礼します!!」って逃げる。
辿り着いたのは少し暗くて冷たい風が通る倉庫の前。
そこに置かれた木箱の横にズルズルと腰掛ける。
「な、に、やってんの…僕…」
何であんなこと言ったの。何で逃げたの。
自分でさえも分からない自分の行動に動揺して、何時もと違う心が恐くて、足を抱えて蹲る。
ここのお家に雇われる前は、何時もこうしてた。こうしていれば何も見なくていいし、体が小さいから見つかることもなかった。痛いことも、少なくて済んだ。
雇われてからは、痛いことが無くなった。お金を貰えて、褒めてもらえて、『ありがとう』って言ってくれる。
『この子は“所有物”ではないわ!』
初めて見た時は、大きな声が恐かった。
怒ったような、叱るような声。高くて大きなその声が恐くて、でも僕をどうにかしようとしてくれたことはわかった。
『お前は助けられたんだ、感謝しろよ。その足首の黒いやつが残ってたら、お前みたいな痩せたガキはすぐに奴隷に戻ってただろうよ。』
起きた僕にそう教えてくれたジルさんは、恐かったけど色々教えてくれる人だった。貴族様のお家ってこと、僕は奴隷だけど奴隷じゃなくなったこと。
僕が『あの時居た人…女の子と男の人、会えますか?』と言ったら少し驚いて『ああ、意識あったのか。』ってその二人がお嬢様と旦那様ってことも教えてくれた。
お湯を使えて、ご飯も食べれて、『会うのは明日で良い』とフカフカのベッドで寝かせてもらえて。
『貴方はどうしたい?』
僕がどうしたいかを聞いてくれる、この可愛いお嬢様。
偉い人ってわかって、けれど僕を助けてくれるような優しい人って思って、ここで働けばお礼もできるって考えた。
けど僕は痩せてて力もないから出来ることが少なくて。
『アルジェント、甘い物は好き?』
なのにお嬢様は僕に笑ってくれて。
『利用出来るものはした方がいいわよ』
どんどん、どんどんお礼したいことが積み重なっていく。
だから少しでもお嬢様に喜んでほしくて仕事の合間にジャニア様からお茶を教えてもらって、リンダ様からお嬢様の好みを教わって。
なのに結局、お嬢様の淹れてくださったお茶を頂けて、お菓子まで頂いて。
『アルジェントなら出来るわ。』
夢のような温かい時間を、僕が貰ってしまった。
ジルさんに相談しても『返せなかったらずっとこの屋敷で働くことになるなあ?』と笑われて。それでもいいかもなんて思ってしまう図々しい自分もいて。
少しずつお礼を繰り返して、お嬢様に笑って頂けたら。
そう思って、それだけで良いって、思ってたのに。
『リリ様!!』
オレンジの人がお嬢様を呼んだ時、自分が少しずつ積み重ねていたモノの小ささを知ってしまった気がした。
自分が恐がって距離を置いていたくせに、それを軽々と超えてしまったその人が、羨ましく思ってしまった。
「…こんなの、知らない。」
得体のしれないナニカが口から出てしまいそうな、お腹の奥が黒い霧で覆われたような、何が何でも遠いあの人に手を伸ばしたくなるような。
こんな気持ち、知らない。
知らない気持ちは自分の思うように鎮められなくて、気付けば大きな空の色の瞳が驚きと困惑に染まっていた。
「りり…さま…」
自分が呼んだって、違和感しか感じない。
呼んだのは自分のくせに、違和感を感じることに思うのは苛立ち。
「はあ…どうしよう。」
「あれ?アルジェント、さん?でしたっけ。」
突然降ってきた声に顔を上げれば、大きな木箱を2つ重ねて抱えるオレンジの人。
力持ちだなあ。そう思っていたら「こんなとこで何してんです?」と倉庫と僕を見比べて首を傾げている。
流石にこんなところで蹲っていたら、誰だって変に思うよね。慌てて立った僕を気にするような感じでもなく、オレンジの人…確かラングさんは箱を置いて「あ、そういえば!」と僕に向き直る。
「さっきは挨拶まだでしたね!!ラングって言います!!」
「あ、アルジェントです…」
頭を下げる僕に「やめてください!そんなことされるような身分じゃないですよお!!」と嫌そうな顔をして首を横に振っている。
騎士様って偉いんじゃなかったっけ。知っている常識では騎士様は強くて国を守れる人たちだから、身分に関わらず尊敬するべきだと思っていた。
「アルジェントさんは歳幾つですか?俺と近いかな!」
笑って聞いてくるラングさんは、確かに身長は少し僕より高いけど細身だから同じくらいかも。なのに重そうな木箱を2つ抱えられる…僕はまだ1つ持つだけで精一杯なのに。
「13です。あと、アルジェントで良いです。…僕は平民なので…」
僕がお嬢様たちに拾われた事は領のお屋敷の皆が知っていたから、自分から身分を言う機会は今まで無かった。この屋敷でも仕事が出来て旦那様に雇われているなら関係ないらしく、特に身分を言うことはなかったし。
返事が無いラングさんが気になって地面に向けていた顔を上げると、ゴトゴトン!と木箱が落とされて驚いた様子のラングさんがフラフラ僕に歩み寄ってきた。
「じ、13…?この身長で?」
確かに少し前まで痩せてて上手く背も伸びなかったから、お嬢様に女の子と間違われるくらい小さかったけど。今は伸びてるんですよ。
そう言いたかったけど、あまりにも驚いた様子のラングさんがなんだか怖くて言えなかった。
近づくラングさんは僕に腕を伸ばしてきて、それが怖くて後ずさる。
「何で逃げるの…?」
「ひっ…!!」
コテンと首を傾げるラングさんが怖くて、何でか悲しそうに笑う表情が怖くて、思わず僕はラングさんから逃げた。
「待ってよ…!!」
「ぅわ…ええええ…!?」
な、何で追いかけてくるの!?
僕はラングさんに追われて屋敷へ逃げ帰った。
さっきまでの気持ちも、お腹の奥の靄も、何時の間にか考えることをすっかり忘れていた。