愛依は、初めて実戦に出る
翔士に実戦の機会が与えられたのは、その凡そ十日後だった。
宮の眠りを守る依人の一人が、呪陣の一つ、緯峰の陣に不穏を感じ、依人らが確認に赴く事が急遽決まったのだ。
緯峰に出向く事を命じられたのは、それぞれの愛依を連れた格付けの奏慧と司凉、後は宜張と、愛依を連れた伊崔である。
伊崔は殊の外子ども好きで、翔士のこともよく構っていた。
先頭を奏慧と司凉が歩き、真ん中を宜張と伊崔に守られるように翔士が続き、しんがりは女性依人二人が歩いているといった格好だ。
愛依二人は女同士という事で話が合うらしく、さっきから楽しそうに二人で喋っている。
初めての現場同行で緊張を隠せない翔士も、二人の楽しそうな笑い声を聞いていると、だんだんと緊張が解れてくるのを感じていた。
「腐臭がするな」
山麓の邑に馬を繋ぎ、徒で分け入った獣道を真っ直ぐに進みながら、奏慧が低く呟く。
実際に何かが臭っていると言うより、空気そのものが澱んで、邪気を大気にまき散らしているという感じだった。
「ああ。どうやら不浄が呼び込まれたようだ」
覚えのある感覚に、忌々し気に司凉がそう相槌を打った。
首筋がちりちりするような嫌な感覚が、山の中腹辺りからずっと続いていた。何か原因がなければ、ここまで陣の破綻が進むことはない。
宮の眠りを守る依人が感じ取ったのは、この凶事だったのだろう。
一方、傍らを歩く宜張に守られるようにその少し後ろを歩いていた翔士は、司凉の言う意味が分からずに宜張の顔を仰いだ。
「不浄が呼びこまれたって、どういうこと?」
宜張は翔士を見下ろした。
「流れ者が行き倒れたか、あるいは夜盗か野犬に襲われたんだろう」
その言葉に、伊崔もまた苦々しい語調で続けた。
「この緯峰に、軽々しく近づくような阿呆がいるとは思わなかったがな」
「緯峰は、土地の者が近付かぬだけあって、山菜や淡水魚には事欠かない。
食い詰めてつい入り込んでしまったんじゃないか」
宜張はそう答え、歩く途中に手折った枝から、赤く熟れた実を一つ二つもぎ取って口に入れる。
ふてぶてしいまでに肝が据わった宜張には、呪場に生る物を口にする事に、何の抵抗も感じないようだ。
「それにしても、気が澱むにしては進行が早すぎないか」
不安そうに瞳を揺らした翔士の頭を安心させるようにぽんと叩き、伊崔は僅かに首を傾げる。宜張は軽く頷き、ぷっと口の中の種を吐き出しながら答えた。
「今は特に時期が悪いからな。
宮の祝が全き時には、骸の一つ二つで結界が緩むなどありえんさ」
とはいえ、山には立ち入らぬよう、きちんと看板は出ていた筈だ。宮の隠れを知らぬ民はいないというのに、よくもまあ、こう愚かしい真似をしてくれたものだ。
とその時、草をかき分けるように先頭を歩いていた司凉が、珍しくも怯んだように足を止めた。
「どうした、司凉」
奏慧の問いに、司凉は厳しい表情で前方を指す。
「あれを……」
草を払い、司凉が指し示した先を見て、一同は絶句した。
ほんの十数歩の山肌から、緑が一切失われていた。草は茶色く萎れ、木々の葉は悉く落ちて地を舞っている。
それより先はさらに惨く、干からびた枝ばかりが無残な枯れ姿を晒し、更にその向こうには、木一本、草の一つも生えぬ不毛の地が、依人たちを嘲笑うかのように開かれていた。
「ここまで陣の破綻が進んでいようとは」
荒廃した大地を踏みしめながら、奏慧がぞっとした表情でそう呟く。
つい一月前に見回った時は、青々とした樹木が陣近くまで広がっていた。それが今や見る影もない。
地面はひび割れて真っ黒い泥水が噴き出し、あちこちの水溜りからは、ぽこぽこと不気味な泡が立っている。
何より悍ましいのは、すり切れかけた結界の裂け目に縫い付けられたように影を揺らしている、生臭い異形の生き物だ。
薄らいだとはいえ、宮の封印が確実に効いているのだろう。
奇妙に膨らんだ腹から下を地面に縫い留められ、ぎいぎいと浅ましい声を上げながら、何とか地面から這いずり出ようと足掻いている。
枯れ枝のような細い腕が、獲物を欲しがるように闇雲に空を掻き毟っていた。
依人たちの甘い気の匂いを嗅ぎつけたらしく、不意に異形らが顔のような部分をこちらに向け、耳障りな哭き声をたて始めた。
避けた口元から涎を垂らし、奇声を上げてのたうち回る姿のあまりの醜悪さに、翔士の肌がそそけだった。
「以前より念の厚みが増しているな」
ため息交じりの司凉の言葉に、奏慧は小さく頷いた。
「ああ。思ったよりもひどい。この封印が切れれば、飛び出してくる異形は百や二百では済まないだろう」
緯峰の陣は、呪陣の中では小ぶりであった筈なのだが、これではまるで、室兄が殺られた井姜の呪陣に匹敵する。
かつて井姜の陣が決壊した時は、室兄が捨て身で〝おう殺呪法”を発動し、僅かに取りこぼした異形を駆け付けた依人らが封殺する事で片が付いた。
だが、今回はまだ、結界が瓦解している訳ではない。このまま修復だけ行った方がよいか、それともきちんと張り替えるか…。
「どう思う?」
奏慧に問われ、司凉は思案するように顎に手をやった。
「…修復も一つの手だが、ここまで破綻しているなら、いっそ張り替えるべきでは?
我々にまだ余力があるうちに、しっかり楔を打ち込んでおいた方がいい」
「…その方がいいだろうな」
奏慧は重い息を吐いた。
「取りあえず、祓えるだけの邪を今日祓って、早急に出直すか」
「ああ」
実際、ここの封印がこれほど弱まっているとは、葵翳ですら想像だにしていなかった筈だ。
宮が隠れてすでに十四年。封印の綻びと相反して増幅する念の厚みは、これからも至るところで現れていくのだろう。
「ねえ、宜張」
その頃、陣から少し離れた位置で腕を組んで立っていた宜張の袖を、翔士が遠慮がちにそっと引っ張っていた。
「もし一人でいた時、たくさんの異形に襲われたらどうするの?」
不安げな問いに、宜張はやや眼差しを和らげて翔士を見下ろした。
「身を隠せ」
「え?」
「気断ちしてやり過ごすんだ。生き延びることが先決だからな。
血の匂いさえ与えなければ、異形どもに見つかることはない」
「じゃ、もし怪我をしていたら?」
「そん時は尻をまくって逃げろ」
「はあ?」
翔士は思わず目を丸くした。
「依人がそんなんでいいの?」
「だからとどのつまり、命あっての物種なわけよ」
宜張は肩を竦めた。
「とにかく逃げる。逃げながら誰かの式を見つけたら、片っ端からそれを破砕しろ。式が倒されれば、それを作った依人が異変を感じ取るからな。
誰かが駆け付けるまで、とにかく持ち堪えればいい」
そして思い出したように、翔士を見下ろす。
「お前、司凉の符をちゃんと持っているな」
「あ、うん」
翔士は袍の上から司凉の符を押さえた。
「ちゃんと持ってるよ」
「ならいい」
宜張は安心したように笑った。
「いいか翔士、無謀な戦いは阿呆のする事だ。やばいと思ったら、すぐに符を破砕しろ。司凉なら、何を置いてでもお前を助けに向かうから」
「うん」
と、ようやく司凉との話もついたのか、不意に奏慧が振り返って翔士を呼んだ。
「はい」
慌てて走り寄る翔士を、やや厳しい面持ちで奏慧が見つめ下ろす。
「今からできるだけの邪を祓う。
司凉とも今話したんだが、まだここは多少なりとも宮の封印が効いているから、お前にとってはいい訓練になるだろう。
地に縫い留められたそいつらを、先ずはお前の真霊で封じてみろ」
「俺が……」
翔士はごくりと唾を呑んで奏慧の顔を見上げ、それからすぐに傍らの司凉へと視線を向けた。
司凉は表情を読ませない顔で奏慧の脇に立っていたが、視線に気付いてすたすたと翔士の傍まで歩いて来た。
「お前がどれだけ技を習得できたか、見せてみろ」
それから一瞬、言い淀んだ後に付け加えた。
「……覚悟ができていないなら、無理をするな。焦ってするようなことじゃない」
翔士は慌てて首を振った。ようやく連れ出せてもらえた実戦なのだ。この機会を逃すと、今度いつ連れて来てもらえるかわからない。
「俺、平気だ。ちゃんと覚悟はついている」
声を震わせずにそう答えられたことで、翔士は少しほっとした。
司凉は一瞬、迷うように視線を彷徨わせたが、翔士の表情を見て諦めたように口を噤む。
司凉は翔士の両肩に手を置き、陣の方へゆっくりと体を向けさせた。そして陣から目を離さずに、言い諭すように言葉を継いだ。
「踏み込み過ぎると殺られるぞ。
異形の動きを読むんだ。あいつらはまだ地に縫い留められているから、間合いにさえ気をつければ、依人の敵じゃない」
翔士は悍ましくのたうつ異形を食い入るように見つめ、小さく頷いた。
今まで血の滲むような修練をずっと行ってきた。平常の力が出せるなら、このくらいの異形は恐れることはない筈だ。
他の依人らが固唾を呑んで見守る中、異形との間合いを慎重に図りながら、翔士は一歩一歩ゆっくりと歩を進めていく。
半分ほど近付いた時、翔士を敵だと認識した異形が、いきなり大気を揺さぶるような咆哮を上げて、翔士を激しく威嚇した。
裂けるほどに大きく開かれた口元から涎が飛び、のたうつ上体がいきなり伸びて翔士の体を食らおうとする。
血に塗れた鋭い歯が音を立てて翔士の鼻先で閉じられ、本能的に身を引いた翔士の背や脇から汗がどっと噴き出した。
翔士は喘ぐように吐息を漏らした。初めて鬼に遭遇し、骨ごと腕の肉を食い千切られた時の恐怖と激痛が、瞬く間に喉元にせり上がってくる。
技を掛けなければと思うのに、何故か体が動かなかった。喉がからからに乾き、どくどくという耳障りな鼓動だけが耳元に大きく響いている。
あの時と同じだった。
自分がどこにいるのかもわからなくなり、襲われるままに、このまま視界が一面、真っ赤に染めあげられると思ったその時だった。
「落ち着け」
不意に柔らかな声が翔士にかぶせられた。
ふと横を見ると、いつの間にかすぐ傍に司凉が立っていた。
蒼白な顔で見上げると、司凉は「いつもの威勢はどうした」と呆れたように言葉を落としてきた。
その構えから、司凉が神気を放とうとしていたことに、今更ながらに翔士は気付く。
もし、翔士が身を躱すのが一歩でも遅れていたならば、司凉は躊躇わずに神気を放って異形を消滅させる気だったのだろう。
その途端、ああ、司凉がいるんだ、と何かがすとんと翔士の心に落ちた。
幼い時分、熱に倦み、痛みに喘いで現を彷徨う度、いつも司凉の姿を追っていた事を、今更のように翔士は思い出した。
目を開ける力さえなくて闇を漂っていたとしても、司凉の気配だけは自分は違わず感じ取ることができる。
そして、司凉さえ来てくれれば何もかも良くなるのだと、心配する事は何もないのだと、愛依の本能で翔士はきちんと理解していた。
あの時と今と何も変わらなかった。
司凉さえ傍にいてくれるなら、きっとうまくいく。恐れることは何もないのだ。
翔士は瞳を閉じて、傍らに立つ司凉の気配だけを静かに追った。
がちがちに強張った体から、徐々に緊張と恐怖が解けていく。
「俺、大丈夫だから」
やがて瞳を開けた翔士は傍らの司凉にそう伝え、ゆっくりと大きく息を吐いた。
身の内に漲る自らの真霊を、今ならば翔士ははっきりと信じる事ができた。
精神を統一し、肩幅に広げて天に翳した翔士の手の中に、透徹な剣が浮かび上がる。司凉ほどの輝きはない。けれど、本能として祝主から受け継いだ破邪の霊剣…。
自分たちが消される運命を感じ取ったのか、地に揺らぐ異形たちが俄かにかしましく騒ぎ立て始める。
翔士はゆっくりと破邪の剣を握りしめた。
清冽な神気が翔士の面差しに宿り、依人特有の澄み渡る波動が異形を煽るように高まっていった。
「破……ッ!」
翔士の唇から、声とも息ともつかぬ気が迸った。
その瞬間、きらめく光が鋭利な刃となって、場に逃げ込もうとする異形を鮮やかに断ち切った。