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愛依は、祝主に構われたい

 薄闇の中、白く細い指が翡翠の首飾りをそっと愛おしんでいた。


 まだ嫁ぐ前に、想い人から指輪と揃いで贈られたもの。

 粒の大きい翡翠玉を囲む金細工の細やかさは、それだけその装身具が高価であることを示していた。宗家の血を引く者だからこそ、金に糸目をつけずに作り得た逸品だった。


 愛していると言われたことはなかった。だが女は、自分を見つめる男の狂おしい眼差しの中に、その想いを余さず受け取っていた。


 その男に結婚は許されていなかった。

 年を重ねる事も子を持つ事もなく、闇の浄化をひとえに運命づけられた不人あらずびとであったから。


 その男が、弟と結婚してくれないかと頼みに来た時、女は迷った末にその申し出を受け入れた。

 そうすれば、何らかの形で、ずっとその男と繋がっていられると信じられたからだ。そして申し出を呑む条件に、女は贅を尽くした品を男に所望した。


 あの時からすでに自分は狂い始めたのかもしれない。


 女は、花瓶に挿された季節外れの酔芙蓉すいふようをくしゃりと掴み取り、おもむろにそれを口に運ぶ。

 血の色をした花びらを咀嚼しながら、女は声もなく嗤い、正気ではないと低く呟いた。


 宮の祝が失われたこの時期に狂気を溜めていくことの恐ろしさを、心の離れた男の姿を闇雲に追おうとする己の浅ましさを、女は痛いほどに知っていた。

 それでも構わなかった。

 執念と執着が呪を呼び込んで結界を食い破ろうと、守るべき男が依人(よりうど)として傍にいる限り、恐れるものは何もなかった。


 宮人たちが恐れる闇は、幾重にも結界で守られた本殿に住まう女の心に、すでに萌芽を芽生えさせていた。

 想いが高じて夜叉になる瞬間を、あるいは女は夢見ているのかもしれなかった。




 鋭い嘴と鉤爪を持った不気味なモノが、耳障りな鳴き声を上げて、翔士の頭上を飛び回っていた。

 姿かたちはどことなく蝙蝠に似ているが、明らかに現実の生き物ではない。

 翔士(しょうし)言祝(ことはふり)で顕現させた破邪の剣を正眼に構え、殺気を漲らせるそれらとの間合いを、慎重に計っていた。


 と、そのうちの一匹が背後から降下して翔士に襲い掛かる。

 あわや翔士の背を切り裂くかと思われたが、その鋭い鉤爪が袍にかかる寸前に、翔士の剣が一閃してその胴を断ち切った。次の瞬間には、左から飛びかかろうとしてきた別の一匹を、返す刃ですばやく仕留めていく。

 けたたましい鳴き声を上げて、なおも襲い掛かろうとする別の数匹を、翔士は決して慌てる事なく、けれど流れるような太刀筋で、一匹ずつ屠っていく。

 破邪の剣が触れるや、そのモノは切断された面から崩れるように霧散していき、やがて場には、やや息を荒くした翔士だけが取り残された。


「よくやったな」


 気を断って、その様子を眺めていた佑楽(うらく)が、満足そうに口元を緩めて木陰から姿を現す。

 その横では、式を操っていた架耶(かや)が、ぐっしょりと額に汗を滲ませて木の根元に座り込んだ。

 

 式を消されるとそれを作った術者に少なからぬ返しが来るため、一刻以上、続けざまに式を作っては、それを翔士に消されるという事を繰り返した架耶は、すでにふらふらになっている。

 思う以上の愛弟子の上達ぶりに、佑楽は端正な顔を綻ばせて喜んでいるが、そんな祝主を見上げる架耶の顔は、疲労が高じてやや恨めし気だ。


「この足場の悪さだ。

 翔士にはかなり分が悪いと踏んでいたんだが、どうやら杞憂だったようだな」


 必要ならば、いつでも式を攻撃する心づもりでじっと戦いを見守っていた佑楽は、組んでいた腕を解いて、満足そうにそう言葉を掛ける。


「申し分ない戦いだった。これ以上言うことはないよ」

「俺、じゃあ、合格ってこと?これで次からは実戦にも出してもらえるの?」


 勇込んで聞いてくる翔士に、佑楽はふわりと笑い掛けた。

「そうだな。葵翳(きえい)に話しておこう」


 それから佑楽は、へたり切った様子で木の幹に寄りかかっている架耶の元へ行くと、黙ってその体を抱き寄せた。

 気食いしやすいように口元に首を寄せてやると、架耶が待ちきれない様子で佑楽の喉元に顔を埋めていく。


 一見濡れ場を思わせる親密さに、翔士は思わず目を逸らしたが、佑楽は悪びれた様子もなく架耶の腰を抱き、欲しがるだけ架耶に自分の気を分けてやった。


「今日の訓練はもう終わり?」

 やがてようやく体を離した二人を居心地悪そうに眺めやって、翔士がぶっきらぼうにそう尋ねかける。


「ああ。後は好きにしていい。天気もいいし、市場の辺りをまわってきたらどうだ」

「え、いいの?」

 佑楽の言葉に、翔士は思わず目を輝かせた。


 六茫宮(ろくぼうぐう)での生活には何の不自由も感じてないが、色々な店が立ち並ぶ界隈をぶらぶらと眺めて回るのは、御所での煌びやかな催事を楽しむのとはまた違った面白さだ。

 十四歳の翔士には、見るもの全てが物珍しい。


「宮人の格好をしていけよ。依人だと知れると、向こうが気を遣うからな」

「わかった」


 昨年末に宗主への目通りが許されて以来、度々宮内殿にも顔を覗かせるようになった翔士だが、年端もいかぬ自分に対する、行きかう宮人らの畏まった立ち居を見るにつけ、依人がいかに人々に崇められ、畏れられた存在であるかを、身をもって実感するようになっていた。


 真霊を持つ依人にしか、邪は祓えない。

 だからこそ依人は、宗家の直系に等しい地位を与えられ、人々の崇敬をまとい、様々な贅を享受できている。


「そう言えば、佑楽。この月明けにまた管弦の宴が催されるって聞いたけど」

 ふと思い出してそう話を振る翔士に、

「……ああ、そうらしいな」

 一瞬、虚を突かれた形で、佑楽が言い淀む。


 そのどこか浮かぬ顔付きに、翔士は不思議そうに佑楽を見た。

「そうらしいって、佑楽は出ないつもりなの?」


 饗宴への臨席は義務ではないため、気が向かなければ別に出なくても構わないのだが、日常に笙や縦笛をたしなむ佑楽を知っているため、あまり楽しげでなさそうな様子が気に掛かった。


「いや、勿論出るさ」

 佑楽はすぐに朗らかな口調で答え、柔らかな笑みを浮かべて、翔士の頭に手を置いた。

「楽しみにしている」


 翔士は黙って、隣の架耶に目をやった。

 架耶は素知らぬ顔で山向こうを眺めている。

 翔士が聞いたところで、教えてくれる気はなさそうだ。


「宴には司凉(しりょう)も出るのかな」

 つい気になってそう尋ねると、佑楽は、ああ、と頷いた。


「今回はどちらかというと、内輪に近い宴だからな。あいつが出ないことはないだろう」

「そっか」

 翔士はつまんなそうに石を蹴った。


 最近、司凉は本殿に寝泊まりする事が多く、翔士はこのところ、ずっと司凉に会えずにいた。

 忙しいのは知っているし、司凉におとなの時間とやらが必要な事もちゃんと知っていたが、こうもないがしろにされると、愛依(うい)としてはやはり面白くない。


「司凉、遊びすぎだよ。

 佑楽、少しは言ってやって。春華にちっとも帰って来てくれないんだから」


 頬を膨らませて訴えると、佑楽はおやおやと呟いて、肩だけで薄く笑った。


「お前が思うほど遊んでいる訳でもないんだがな。

 まあ、今度司凉に会ったら、伝えておいてやるよ」




 本殿の私室で腕を組んで仰向いたまま、司凉はじっと闇に薄らぐ天井を見つめていた。


 春華になかなか帰らないと翔士が拗ねているのは知っていたが、血を分けた親兄弟よりも司凉の感情の機微を嗅ぎ分けてしまう愛依の存在は、孤独に馴染んだ司凉には時にどうしようもなく煩わしい。


 このところ、父の体の具合が思わしくなかった。

 おそらく夏の疲れが出たのだろうが、二月ほど前から妙な体の気怠さを口にするようになっていた。

 本人は何事もないように振舞っているが、実のところ、儀容(ぎよう)は日中でも軽く横になる事が多くなってきている。

 宗主の不調は今は固く周囲に秘されているが、いずれ人の口の端に上っていくことは必至だった。


 ただの夏病みで済めばいいが。


 司凉の懸念は、父の容態を案じると言うよりむしろ、宗主の体を気遣う格付けとしてのそれが大きかった。


 闇の次代を担う宗主としての儀容の体には、御所の結界を強固にするために、宮から特別に呪綬(じゅじゅ)を施されている。

 すなわち儀容はその身を御所に置くだけで、祟り場を封じ込むための生きた結界の役割を果たし、その儀容を失う事は、宮が残した呪綬の一つが確実に御所から失われる事を意味していた。


 もし宗主の代替わりという事態になれば、兄の覇麝(はじゃ)では御所を守る楔とはなり得ない。

 それでなくとも日々宮の祝が失われる中、更に御所の呪綬まで弱まれば、闇の活力がどれほど都に増していくか、考えるまでもなかった。


 ”来るべき闇の時代には、室兄(むろえ)と共にお前が封じの核となるように”


 それは、不人あらずびととしての生を受けて、物心つく頃より、司凉が幾度となく宮から言われてきた言葉だった。

 その室兄を、愛依の裏切りという信じがたい凶事であっけなく失い、自分の手元には魂返りさえできない幼い初愛依が残されている。


 何故こうも、何もかもうまくいかない。

 司凉は軋る思いで呟いて、寝付けぬままに物憂く寝返りを打つ。


 思いごとは他にもあった。

 先日佑楽が、そろそろ翔士に実戦の経験をつけさせたいと言ってきたのだ。


 佑楽の話では、翔士はすでに自在に言祝を操れるまでに力をつけてきたらしい。

 本人も封じに出たがっており、後は時期を選ぶだけだと葵翳からも言われていた。

 

 司凉としては魂返(たまがえ)りが済むまでは一切翔士に鬼と関わらせたくなかったのだが、一人でも多く戦力が必要とされる時期に、そんなわがままは通らない。


 司凉は疲れた吐息を零し、天井に据えていた瞳をそっと閉じた。

 取りあえず自分が傍にいる限りは、何があっても守ってやれるだろう。


 御所の奥深くに囲い込んでおきたくても、時代がそれを許さなかった。

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