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愛依は、都へと旅立つ

 翌朝、空は雲一つなく晴れ渡り、まるで門出を祝福するような晴天の下、宗家に迎え入れられる翔士(しょうし)の支度は厳かに進められた。

 清めの水で体を拭いた後、衣装は下履きから貴綬の束帯に至るまで、すべて新しいものに着替えさせられた。


 後は宗家からの使者を待つだけとなった翔士は、別室に一人待たされ、ぼんやりと窓の外を眺めていた。


 この景色を見るのも今日が最後なのだと、翔士は寂しさを堪えて自分に言い聞かせる。

 覚悟などとうにつけていた筈なのに、刻一刻と別れの時が近付くにつれ、訳の分からぬ切なさが胸を締め付けるようだった。


 今朝は慌ただしく起こされて、父や母とも碌に会話を交わすことができなかった。

 引き渡しの儀では、私語は一切許されておらず、結局自分はこのまま、あの二人と今生のえにしを断つことになるのだろう。


 哀しみを食むように唇を引き結んだ時、表へと続く引き戸の向こうで、誰かが小さく自分を呼んだ気がした。


「だれ?」


 問い掛けても返事はなく、翔士は暫く躊躇った末、そっと戸を引き開ける。

 そこに身を竦めるように立っていたのは、このところ話すらしなくなっていた緋沙(ひさ)だ。翔士は慌てて続き間の方を窺い、気付かれぬように緋沙を中に引き入れた。


「緋沙、来てくれたんだ」


 ここ最近は避けられるばかりで、ほとんど話もできていなかった。

 このまま気まずく別れるのかと半分諦めていただけに、こうして会いに来てくれたことが翔士には何より嬉しかった。


 緋沙は胸の所で手を合わせるように何かを握りしめていたが、そっとその手を開いて握りしめていたものを翔士に差し出す。


「何?」

 

 それは、色とりどりの端切れで丁寧に縫い上げられた、小さな守り袋だった。

 見れば緋沙の小さな指先には、いくつもの刺し傷ができている。都に旅立つ翔士の安全を祈って、一生懸命縫ってくれたのだろう。


 その守り袋を一旦は手に取り、けれど翔士は、ごめんと小さく呟くしかなかった。

「ごめん、緋沙。持って行けないんだ」


 依人(よりうど)として引き取られる者は、身一つで生家から出る事が定められている。

 故郷から物を持ち込む事は、未練を引き摺るとして固く禁じられているのだ。


「そっか」

 くしゃりと小さな顔を歪め、緋沙は翔士の手からあっさりと守り袋を奪い返した。

「依人になるんだものね。

 そういやあんた、前にそう言ってたっけ。ちゃんと聞いていたのに、あたしこそ忘れていてごめん」


 何でもない事のように笑おうとして、堪え切れずに唇を震わせる緋沙を見て、翔士は唇を噛みしめた。

 代わりに何かよすがとなるものを渡そうと思っても、一切の私物はすでに翔士の手元に残されていない。


「そうだ」

 翔士は懐から懐剣を取り出すと、自分の髪を無造作に一束削ぎ落した。

「…俺の自由になるものなんて、もうこの髪くらいのものだから」


 躊躇うように差し出されたそれを見て、緋沙はぽろぽろと涙を零した。

「ありがと…」


 大事そうに受け取り、一房の髪を握りしめたまま、緋沙は声を殺して咽び泣く。

 緋沙が自分を大事に思ってくれていた事は知っていたのに、自分の方からきちんと別れを告げに行かなかったことを、翔士はこの時ほど悔やんだことはなかった。


 ごめん、とその細い肩をそっと抱きしめた時、続き間の辺りが俄かに騒がしくなった。宗家の使者が到着したのだろう。

 二人は同時に顔を上げ、最後の別れを惜しむように目を交わし合った。


「行って!見つかるから」

 翔士はすばやく緋沙の体を押し出すと、音を立てないように引き戸を閉めた。


 入れ替わるように部屋に入って来たのは邑長だった。

「時間じゃ、翔士。支度はできとるな」


 その言葉にゆっくりと頷きながら、翔士は何だか無性に泣きたくなった。

 幼い頃は怖くてたまらなかった邑長が、今は小柄で無力な老人にしか見えなかった。




 簡略化された儀式を終えると、すぐに出立が告げられた。


 決して物々しい、勇壮な旅立ちなどではなかった。

 馬場まで見送りに出た父親は、泣き腫らした目を隠そうともせず、兄姉たちは豪奢な束帯を纏った幼い弟を不安そうに窺いながら、やつれ切った面持ちの母親を取り巻いていた。


 それはまるで、ひさがれていく子さながらだった。

 食い入るように親兄弟の顔を見つめていた翔士は、馬上から手を差し伸べる宜張(ぎちょう)の声にゆっくりと振り向き、小さな手を重ねた。


「翔士…!」


 思わず駆け寄ろうとした母親は、邑の世話役たちに制止され、翔士は血が滲まんばかりに唇を噛みしめながら、必死に宜張の方だけを向いてその手を握り返した。

 そして文武官の掌に片足を乗せた翔士は、次の瞬間、掛け声とともに馬上に引き上げられた。


 強張った顔で真っ直ぐに前を向く翔士をしっかりと腕に抱きしめ、宜張は沿道の邑長に向かって軽く会釈する。


 やがて宜張が足で馬の腹に合図を送り、常歩なみあしで進み始める馬の背で、翔士はわっとばかりに泣き崩れる母親の悲鳴のような声を聞いた。

 堪え切れなくなった涙が、ひとしずく翔士の頬を伝わって落ち、新しい束帯の襟元を濡らしていく。


 追いすがるような母親の泣き声がだんだんと遠ざかる中、翔士は一心に前を見据え、流れ落ちる涙をそのままに、じっと拳を握りしめていた。


 見慣れた風景が見る間に後ろに流れていく。

 毎日のように駆け回って遊んでいた畦や小川。

 泥まみれになって帰ってくる自分を母親は叱りながらも優しく迎え、年の近い兄や姉たちとかしましく騒ぎ立てながら、穏やかに膳を囲んだ。


 いつか終わると知らされていて、けれどあまり目を向けようとしなかった現実。

 もう二度と自分はここに戻れない。何の屈託もなく家族と笑い転げていた日々は、永遠に自分から失われたのだ。


 邑堺の川を越える頃になって、翔士はようやく後ろを振り返った。

 広い段々畑に遮られて集落の辺りはすでに見えず、見覚えのある備蓄小屋の屋根が僅かに遠く見えるばかりだった。


「母さん…」

 堪え切れずに翔士は叫んだ。

 今まで我慢してきたものが、堰を切ったようにあふれ出す。しゃくりあげながら、翔士は何度も何度も母を呼んだ。


 泣きじゃくる翔士を、宜張は黙って後ろから抱きしめていた。


 愛依の宿命とはいえ、過去の一切を無理やり断ち切られる惨さは、経験した者でないと分からないだろう。

 はるか昔に身をおとなった怒りと慟哭を思い出し、宜張は苦い笑みを浮かべた。


 十八になったら、必ず戻って来るから!

 そう叫んで生まれ故郷を後にした宜張が再びその地を踏む事が許された時、十の自分には思いもしなかった厳しく辛い現実が宜張を待ち受けていた。


 宗家直属の依人と、鄙に住まう貧しい百姓人。

 親しく言葉を交わす事も許されず、ただ互いが遠く離れてしまった現実だけを、宜張はその邂逅で知らされた。

 親も友垣も皆どこかよそよそしく、そして宜張自身、贅に囲まれた依人としての生活にすっかり慣れ切っていた。


「俺、泣くのは今だけだから」

 やがて、覚えのある景色を完全に離れ、代わり映えのしない単調な山道を馬に揺すられるばかりとなった頃、翔士はようやく泣き腫らした面を上げた。


「俺、依人に選ばれた事を、後悔なんてしてない。向こうに着いたら、絶対泣かないから」

 拳で涙を拭い、気丈にそう告げてくる翔士の髪の毛を、宜張はくしゃりとかき上げた。


「泣いたって、構わないさ。無理やり縁を切らされるんだから、辛くない方がどうかしている。溜めこまないで、全部吐き出してしまえ」


「でも、みっともないよ」

 鼻を啜り上げる翔士に、宜張はどうかなと笑った。


「俺も六茫宮(ろくぼうぐう)に引き取られた当初は、散々八つ当たりしてごねた口だ。お前に威張れたような餓鬼じゃなかったぞ」


 今でこそ、有能な依人として祝主たちからも一目置かれる宜張だが、当時はたかだか十やそこらの子供だ。

 いきなり親兄弟から引き剥がされて、物分かりよく笑っていられた筈がない。


「ごねたって何を?」

 ぽつんと聞き返す翔士へ、

「一人前に好きな女がいたんだよ」

 いささかばつが悪そうに宜張は答えた。


「だから、自分が依人に選ばれたっていうのが、どうにも納得できなくてな。

 言う事は聞かないわ、癇癪は起こすわ、沙羽(さう)は散々手を焼いたんじゃないかな」


 因みに沙羽とは、今も宮の傍で繭籠りを守っている宜張の祝主(はふりぬし)だ。宮の信頼も厚く、人柄に優れた依人だと、妓撫(きぶ)架耶(かや)たちが言っていた。


「嘘でしょ?」

 翔士が思わず振り返り、まじまじと宜張の顔を見ると、宜張はあっさりと肩を竦めた。


「向こうに着いたら、いずれ沙羽にも会わせてやるさ。嘘だと思うなら、確かめてもいいぞ。あいつは、俺の恥くさいところも全部知っているからな」


 そう言った宜張の顔を今一度眺め上げ、ややあって翔士は小さな声で尋ねかけた。

「あのさ、こんな事、聞いていいのかどうか本当はわからないんだけど」

「何だ」

「そのひととは結局どうなったの?」


 宜張は僅かに言い淀み、ほろ苦い笑みを浮かべた。

「どうにもならない。そいつは俺を追っかけて官女になったけど、俺はそいつと違って年を取らないからな」


「そっか」

 その先は聞かずとも何ととなくわかる気がした。

 宜張は若いままなのに、女の方はどんどん醜く年を取っていくのだ。そんな現実に、女の方が耐えられる筈がない。


「あん時は散々、沙羽に叱られた。只人の女を本気にさせるなって」

「宜張でも叱られるんだ」

「当たり前だ」


 宜張は笑い、少し急がせるぞと、軽く馬に鞭を当てた。

 従う護衛達も宜張に倣って、同じように馬足を急がせる。


 頬をなぶる夏の風が、木々の匂いを孕んで心地よかった。

 新緑の萌ゆる大地が見る間に後ろに流れていく。


「ごめんね」


 腕の中で不意に謝られて、宜張は戸惑った。

 心当たりがないのではなく、どちらかと言えばあり過ぎた。この幼い愛依(うい)はとにかくやんちゃで、宜張たちの手を煩わせたからだ。


「俺のせいで、ずっと祝主に会えなかったでしょ」

 その事か、と宜張は笑い出した。

「大した事じゃないさ。別に十年やそこら会えなくても、どうって事ないだろ?」


「そうなの?」

 翔士は首を傾げた。

「でも、妓撫や架耶は、祝主が来るとすごく嬉しそうだったよ」

「そりゃあ、会えば嬉しいだろう。祝主を恋しく思わない愛依はいない」


 宜張は柔らかな眼差しを翔士に向けた。

「俺にとっても沙羽は特別だ。俺は沙羽のためならいつでも命を差し出せるし、離れていても沙羽を思わない日はない」


「それって、宜張は沙羽の恋人だってこと?」

「男と女の関係になった事はないな」

 あっさりと宜張は否定する。

「この先なるかもしれないし、ならないかもしれない。別に俺はどっちでもいいんだ」

「ふうん」


「愛依と祝主の関係は、それぞれだ。

 妓撫なんかは、成唯(せいい)の恋人ではあるんだろうが、お互いに執着はしていない。たとえば成唯が他の女と遊んでも、妓撫は全く気にしないだろうよ」


「でも俺、成唯に甘えるなって言われたよ」

 納得いかずに、翔士が眉間に皺を寄せると、

「あれはそういう意味じゃない」

 宜張は思わず苦笑した。

 妓撫が焼きもちを焼いたのは翔士ではなく、どちらかと言うと成唯の方だ。


 子を持てない依人にとって、母性を満たしてくれる小さな同胞がどんなに可愛いか、この愛依にはまだわからないだろう。 


 実際、宜張だって、あの時あれはないだろうと思ったものだ。

 いくら司凉(しりょう)に無視されたからと言って、生まれ落ちてからずっと面倒を見てやって来た自分達にではなく、何で会ったばかりの成唯なんかに泣きつくんだと、心底むっとした。


 因みに、守役三人の恨めし気な視線を一身に受けて、さすがの成唯も居心地が悪そうだった。

 あとで妓撫は、成唯にも盛大に文句を言った筈だ。


 その成唯はと言えば、取りあえず翔士の育ちようを確認して、満足して都へ帰って行った。

 度々死にかけては司凉を呼び出すものだから、都でも噂になってしまったらしく、無事に育つかどうかを見極めに来たのだろう。


 やんちゃで、やや甘えたの小さな愛依を成唯は面白そうに眺めていたが、何より成唯の気を引いたのは、その愛依に振り回されて大人げなく怒る、常では考えられない司凉の姿だった。


 あの司凉でも腹を立てるんだと成唯は心底驚いていたが、その気持ちは宜張にもわからぬでもない。

 宜張自身、幼い頃からの司凉を知っているが、妙に物分かりよく、物事一般に冷めた目をしていて、怒る事も泣く事も笑う事もほとんどしない子だった。


 先祖返りが強すぎて情を解さないのかと宜張などは思っていたものが、翔士のおかげで無事、自分の殻を破れたらしい。


 もしかして司凉が一皮剥けたのはあの時だろうか、と宜張は記憶を紐解いていく。


 あれはまだ、翔士が乳離れできていない頃で、いつものように都から呼びつけられた司凉は、疲れ切って床に転がっていた。

 その時、母親におしめを替えてもらっていた翔士が、何を思ったのかおしめを外した状態で司凉の方へ、とことこと歩いてきたのである。

 そしてあろうことか、いい椅子があったとばかりに、司凉の顔面に腰かけようとした。 


 ………いやぁ、人間、あんな間抜けな声が出せるとは、宜張は思ってもみなかった。

 

 まあ、ふと目を上げれば、いきなり幼児の剥き出しのお尻が顔面に迫ってきたのだ。司凉の驚愕は察して余りある。


 あれで司凉は一つ大きな階段を上った気がする。いや、本人は上りたくもなかっただろうが。


 以来、司凉は幼い愛依を警戒するようになり(宜張もあれを見て以来、翔士の前では絶対に寝転ばないようになった。あんな恐ろしい経験はしたくない)、なのに愛依の方はそんなことはお構いなく、本能のままに全力で祝主に甘えていく。


 未だかつて祝血(はふりち)で育てられた愛依なんていなかったし、その甘えよう、懐きっぷりは、宜張の想像をはるかに超えたものだった。


 早く沙羽に教えてやりたいと、宜張は心の底からわくわくする。きっと腹を抱えて大笑いするだろう。


「向こうでの生活、楽しいのかなぁ」

 ようやく機嫌を直したか、赤い目を和らげてそう呟く翔士に、物思いから覚めた宜張はくすりと笑いを滲ませた。


「さあな。お前には存外向いているかもしれん。

 もっとも暫くは、楽しいとか楽しくないだとか、そんな事を悠長に考えている暇はないだろうがな」

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