宜張による初愛依観察日記 3
✕月△日
最近の翔士のお気に入りの遊びは、司凉の体登りだ。
司凉が胡坐をかいて座っていると、翔士はその膝に這い上がり、そのまま司凉の頭を目指して上っていく。
袍の袖を掴み、襟首を引っ張って体を持ち上げ、目指す地点は司凉の頭だ。
肩に乗っかって後ろ頭にへばりつくまでは司凉も許してやっている。積極的に相手をしてやらなくても、一人で勝手に遊んでくれるのだ。司凉にとって、これほど楽なことはない。
が、時に翔士は向きを間違え、司凉の顔面にへばりつく。
当然司凉は腹を立てる。
「おい、どけ!」
片手で翔士の服を引っ掴んで、べりっと引き剥がす。翔士は、「ふよっ」と抗議の声を上げながら、床に下ろされる。
この繰り返しだ。
が、今日はたまたま、翔士は司凉の髪の毛を引っ掴んでいた。引き剥がした途端に、ぶちぶちぶちと数本黒髪が引っこ抜かれて、司凉がマジでブチ切れた。
「めんちゃい(ごめんなさい)」 と、翔士は何度も謝ったが、司凉はしばらく許してやらなかった。
司凉命の翔士は泣きに泣いた。泣き過ぎた挙句、最後には、げぼぅっと吐いていた。
子どもって、泣き過ぎても吐くんだな。
✕月△日
翔士はまだ、ら行がうまく言えない。司凉のことを「しよー、しよー」と呼ぶ。
因みに、妓撫のことは「きう」、架耶のことは「かあ」、俺の事は「ぎよー」と呼ぶ。それ、宗主の名前なんだがな。
一番悲しいのは、翔士の父親だ。「お父さん」と言えない翔士は、父親のことを「おっさん」と呼ぶ。言われた父親の背中は、なんだか寂しげだ。
✕月△日
翔士は司凉が大好きだ。ついでに口舐めも大好きだ。隙あれば、司凉に口舐めをせがんでいる。
妓撫が翔士に、「翔士は司凉にちゅってするのが好きね」と言うと、「うん!」と嬉しそうに照れていた。
「じゃ、宜張にもちゅっしてみて」と、妓撫が面白がって言うと、俺の方へ駆けて来て、ほっぺにちゅっと唇をくっつけてきた。
そしてその後、唇を拭っていた。
おい………!
✕月△日
言葉を覚え始めた翔士は、よく喋るようになった。
俺が鍛錬から帰ってくると、近所のガキと遊んでいた翔士が俺の姿を見つけて駆け寄ってくる。
「どこ行っていたの?」
が、翔士は俺の答えに興味はなく、ついでに聞いただけで気も済んだらしく、俺が口を開くより先に回れ右して、すぐにガキたちの所へ戻っていった。
お前、何しに来たんだ。
✕月△日
服が自分で脱げるようになった翔士は、早速司凉に自慢していた。
司凉は、翔士が一人で服を着ようが脱ごうが、全く興味はない。
「そうか」と気のない返事をするのだが、祝主の気を引きたい翔士はその場で服を脱いでみせようとした。
袖から脱ごうと、まず右手で左袖口をぎゅっと掴み、強く引っ張る。少しだけ袖が脱げたが、袖が脱げる以上に、引っ張った分だけ体が右に回った。
また袖を引っ張るので、更に体は右に回る。
その場で右周りを始めた翔士を見て、司凉は眉間に皺を寄せた。
「こいつ、一体何がしたいんだ?」
…愛依の成長をもっと微笑ましく見守ってやれ。
✕月△日
翔士は人参が苦手である。
お皿に人参があると器用にそれだけを残すし、「食べなさい」といくら母親が叱っても「ヤダ」を連発する。
どうやら反抗期に入ったらしい。
俺たちに対しても、「ヤダ」を口癖のように言う。
架耶が服を着るのを手伝ってやると、「自分が着るの!」と叫んで、着せてもらった服を全部脱ぐ。で、最初からもたもたと着始める。
手を出さなければ出さないで、今度は「着せて着せて」とかしましい。
…司凉に対してはどうなんだろう。大好きで堪らない祝主に対しても、翔士はわがまま放題を貫くのだろうか。
なので俺たちは、人参の入った皿で翔士を試してみる事にした。
今日は祝主と一緒にご飯が食べられると聞き、翔士は朝から大喜びである。
時々、皿の上の物より、司凉の顔を見て涎を垂らしているような気もするが、そこはあんまり気にしない。
いつものように、匙や手を使って皿の上の料理を食べていた翔士は、今日も人参だけ残して完食する。
妓撫が目配せすると、司凉は渋々と口を開いた。
「皿の上の物は全部食え」
「ヤ…」
ヤダ…と言おうとして、翔士は賢明に口を閉じた。祝主の目が氷のように冷たくなったことに気付いたのだ。
司凉が食えという風に顎をしゃくると、翔士は逃げ場を失って目を泳がせた。
「えっと、しょーしね、しょーしね」
翔士は小さい頭で一生懸命言い訳を考える。
「しょーし、これ食べると、口から出しちゃうの」
一見理が通っているようで、全く通っていない。
「出すな」
無情な祝主の一言に、翔士は黙り込んだ。それから祝主の顔を見上げると、「ふえーん」と泣きまねを始めてみた。
このところ、翔士は日々、いろんな知恵を身に着けつつある。
しかし、嘘泣きが祝主に通用する筈もなく、更に眉間に皺を寄せられて、翔士はいよいよ追い詰められた。
翔士は皿の上の人参を悲しそうに見て、ちらっちらっと司凉の顔を窺った。「食べなくていい」と言ってもらえるのを待っているのだろう。
このままでは、いつまでたっても食事が終わらない。
架耶は小さくため息をついた。
「翔士、司凉が手ずから食べさせてあげるって」
架耶の言葉に、司凉がぎょっとしたように架耶を振り向いたが、架耶は動じない。
「どうする、翔士。もう、こんなこと、二度とないわよ」
翔士は皿の上の人参を見て、司凉を見上げ、再び皿の上の人参に目を落とし、また司凉の顔を見た。幼子の葛藤が手に取るように分かる。
そして翔士は、祝主への愛の前に自我を捨てた。
「これ食べたら、しりょー、ぎゅっとしてくれる?」
司凉が何か言い返そうとしていたので、俺たち三人はぎっと司凉を睨みつけた。司凉は一瞬天を仰ぎ、仕方なく頷いた。
「ああ」
「じゃあ、しょーし、食べるね」
ほろりとひとしずく涙を零しながら翔士が言い、大きく開けた口に中に司凉は人参を突っ込んでいった。
…食べさせるというより、突っ込んだという言い方の方が、この行為の本質を表わすのにふさわしい。
鼻をつまみ、ついでに目もギュッと瞑って、何度かごっくんした後、翔士は大好きな祝主の胸に飛び込んだ。
「しょーしね、しりょーのためにがんばったんだよ!」
何かもの凄い犠牲を払ったような言い方だが、何てことはない。皿の上の人参を食べただけだ。
司凉は腕に愛依を抱いたまま、一つあくびをした。




