愛依は、鬼に堕ちた魂を浄化する
その少し前、翔士は玻奈から目録の写しを受け取っていた。その内容に目を通すや否や、翔士は総毛だってその写しを握り潰す。
「畜生!」
目録の中に、翡翠の装身具は一つだけあった。首飾りと対になっていたと思われる指輪だ。そしてそれを譲り受けたのは…。
部屋を出ようとした瞬間、自分の式が消された気配を翔士は感じ取った。緋沙に渡しておいた符だ。
「緋沙!」
一刻の猶予もならなかった。広い庭を突き抜けてそのまま奥宮へとひた走りながら、翔士自身も司凉から渡されていた符に手を掛ける。
佑楽に打ち明ける前であったら使う事を躊躇っていたかもしれないが、事情が知られた今、符を使うことに躊躇いはなかった。
回廊にたむろしていた年配の官女らが、翔士の姿を見咎めて、きっと柳眉を逆立てた。
「お待ちくださいませ!ここから先は女人の住まう奥宮ですよ」
老いた官女が翔士を押し留めようとした時だった。
「きゃあああああああああああああ」
凄まじい悲鳴が宮の奥から聞こえてきた。官女らが住まう奥宮の辺りだ。
「鬼だ!早く逃げろ…!」
色を失って立ち竦む官女たちに声を荒げ、翔士は走りながら破邪の剣を顕現させた。
緋沙に渡した符は鬼に破られた。という事は緋沙は今、無防備で鬼の眼前にいるということだ。
消された式が残した僅かな気の導だけが頼りだった。
その気配を追って、翔士は次々と扉を開けていく。
と、右奥の扉を蹴破った時、不意に覚えのある死臭が鼻を突いた。
「緋沙…!」
醜悪に歯を剥き出し、まさに緋沙の喉笛を食い千切らんとしていた鬼は、場になだれ込む清冽な気の具現にざんばらの髪を逆立てた。
「止めろ…!」
神気が場を薙ぐように一閃する。
くぼんだ眼窩でそれを捉えた鬼は危うくその風を避け、凄まじい咆哮を放ちながら翔士の方へ向き直った。
「翔士…っ!」
緋沙が泣きながら翔士の名を呼ぶ。
翔士は鬼の懐に飛び込む勢いで間合いを詰め、立て続けに剣を打ち振るった。
鬼はその崩れた肉からは想像できない敏捷さで、翔士の攻撃を躱し続ける。
緋沙を庇うように浴びせられる瘴気を気で弾き返した瞬間、鋭い痛みが右腕を走り抜けた。
構わず剣を引き下ろすと、ぼとりという鈍い音がして、鬼の右手首から先が腐肉を撒き散らしながら床を転がっていった。
「緋沙、逃げろ!」
庇いながら戦えるほどの余裕は翔士にはない。鬼の怒りの咆哮を背に、幼馴染は這いずるように入り口から逃げ出した。
遠ざかる気配を確かめ、翔士は改めて鬼に向き直った。
鬼は翔士の隙を窺うようにゆっくりと周囲を徘徊し始めた。くわっと時折浴びせかけられる瘴気を、翔士は神気で打ち払う。
腕を伝う、ぬらりとした血の感触が不快だった。部屋にたちこめる不人の甘い血の匂いに、鬼がふと舌舐めずりをした。
「佑楽は苦しんでいたよ」
キキキ…と浅ましい声を上げる鬼を見据え、翔士は静かにそう語りかけた。
むしゃぶりつかんばかりに翔士の傷口を見つめていた鬼が、その瞬間、ぎくりとその動きを止めた。
「もう、佑楽の悲しみは貴方には届かないの?
佑楽はずっと悲しんでいた。貴方は本当に、こんな姿を佑楽に見せたいの?」
まるで根が生えたように、鬼はその場から動かなくなった。どろどろに崩れ溶けた顔でじっと翔士を見つめ、困ったように立ち尽くしている。
その間にも、体からは腐肉がぽたぽたと崩れ落ち、肉にもぐり込んでいた蛆虫が蠢きながら床をゆっくりと散らばっていった。
「佑楽は貴方を愛していたって俺に言ったよ。愛する女に余るほどの贅を与えたくて、だから結婚を勧めたって。
口に出せば貴方を追い詰めるだけだから、最後まで貴方には言えなかったって言っていた。
ねえ、貴方はまだ人を殺したいの?これからも罪を重ねたい?
佑楽は今でもあなたが大事だと言ったよ。鬼となった貴方を憐れんで、それでも大事だと佑楽は言ったんだ」
おおおおおおおおおん……。
不意に鬼の口からくぐもった哭き声が聞こえた。その面をじっと見つめ、翔士は再び口を開いた。
「佑楽をもうこれ以上苦しめないで。
佑楽は今でもあなたを想っているよ。貴方が願う形ではなかったかもしれないけど、佑楽は精一杯の愛情を貴方に捧げたんだ」
崩れかけた鬼の頬に、僅かに肉が盛り上がろうとしていた。
おおおおおおおん…。おおおおおおん…。
血の涙を流しならが、鬼は哀しげに哭き続ける。
それは不思議な光景だった。一声哭くごとに、鬼は人の姿を取り戻していき、やがては腐肉に埋まっていた首飾りや指輪までもが露わになる。
「宗妃さま…」
泣いているのは貴沙妃だった。血の涙を流しながら、罪の重さで汚した死に装束を身に着けて、哀しげに翔士を見つめている。
「ウ…ラク」
「そう…。貴方も好きだったのでしょう?」
「好キ…。ズット佑楽ダケヲ…」
誰にも言えなかった。余りに口を憚ることだったから、どれほど耐え難くてもひっそりと想いだけを温めていた。
現世では何も望まず、ただ佑楽に繋がるものと共に、墳墓に眠ることが望みであったのに…。
「佑楽ガクレタ首飾リト指輪ヲ…」
「うん。わかってる。貴方の望みはそれだけだったんだ。宗主さまの名前を汚さないように、貴方は何も言わずに死を選んだよね。
なのに、その品と引き離されてしまった」
腐肉を纏う貴沙妃の瞳が驚きに見開かれ、そして再びはらはらと涙を零し始めた。
ずっと欲しかった言葉だった。想いを引き摺るままに命を絶ち、苦しみぬいた末の最後の望みさえも叶わずに、怨みのあまり鬼になった。
気付けば、母のように愛していた乃而さえ手に掛けて、尚も飽き足らずに罪を重ねていた。
「許シテ…」
自分がどれだけ愚かな事をしたか、今ならばわかる。自分は取り返しのつかない事をしてしまった。恐怖と怨みを呑んでこと切れた者達に、詫びる言葉さえ見つからない。
「今ならばまだ、人に戻れるよ」
翔士の言葉に、貴沙は縋るように面を上げた。
こんな自分にも、許しと安らぎはまだ与えられるのだろうか。世の理から外れた浅ましい異形ではなく、人間としての生を終えることが今でもまだ許されるなら。
だから貴沙は僅かな希望を抱いて、たった一つの望みを口にする。
「私ノ墳墓ニ…、首飾リ…ト指輪ヲ入レテ、欲シイノ…」
一言一言、絞り出すように、鬼は言った。
「タッタ一つの思い出ダッタから…、失いたくない…」
血の涙は澄んだきれいなものへと変わり、往時の美しさを取り戻した貴沙に、翔士は優しく微笑み掛ける。
「分かった。約束する」
翔士は破邪の剣を構えた。神気を剣に漲らせ、真正面から貴沙妃を見つめる。
「佑楽…」
ふわりとした優しい吐息が風に乗った瞬間、翔士の刀が一閃した。
浄化の波動が場を揺るがし、視界を焼き尽くす白い閃光の中に貴沙妃の体は呑み込まれていった。
ぱたり…と何かが小さく床を転がった。
貴沙妃が最後まで身に着けていた首飾りと指輪だった。
室内に凝っていた念はきれいに消え去り、腐肉と僅かばかりの髪の毛が、何もない室内に取り残された。




