愛依は、嗅ぎまわる
緋沙と別れて帰る途中、翔士はうす寂れた橋の上にぼんやりと立ち尽くす妃咲の姿を認めた。
暮れなずむ景色に溶け込むかのように、妃咲は身じろぎ一つせず、欄干に凭れたまま現ではない世界をじっと見つめている。
今日も室兄を捜して歩き続けたのだろう。ほつれた髪が鬢に掛かり、着崩れた服から覗く白い足は土に汚れていた。
里の子が気味悪がって逃げるように横を走っていくのを横目で眺めやり、翔士は吐息を飲み込んでゆっくりと妃咲に近付いた。
「妃咲、帰ろう」
そう声を掛けると、意外にも妃咲はのろのろと顔を上げて翔士の方を見た。
「室兄は?」
僅かに正気を繋ぐ眼差しが、縋るような激しさで翔士の双眸を射抜く。
「…室兄は死んだんだよ、妃咲」
無駄な言葉がけなのだと知っていた。この言葉が妃咲の心に届くことは決してないと、翔士はとうにわかっている。
「どこに行ったのかしら…」
案の定、妃咲はすぐに翔士から興味を失い、焦点の合わない眼差しで川向うを見つめ、よろめくように歩き始めた。
室兄、どこ?どこに行ったの…?
自分が殺した祝主の名を、妃咲は虚しく呼び続ける。翔士には耐えがたかった。あれは司凉を失った自分の姿だ。
もし司凉に何かあれば、全ての感覚が失われるだろう。好きだという言葉では言い尽くせない。失う事を考えただけで、手足の先から力が抜けていく気さえした。
「帰ろう」
だから、ふらふらと河原へ降りていこうとする妃咲の腕を、強引に翔士は引っ張った。
「帰ろう。きっと室兄もそこにいるよ」
言いながら、こんな嘘をついて何になるのかと翔士は苦々しく心に呟く。
自分に妃咲は救えない。祝主を失った無残な愛依に、救いなど永遠に存在しないのだから。
「室兄」
不意に妃咲の顔が近付き、唇に何か柔らかいものが触れた。
え……?
一瞬、何が自分の身に起こったか理解できず、翔士は呆然と凍り付く。翔士がようやく我に返ったのは、妃咲が再び河原に向かって歩き始めた時だった。
「とんだ色男ね」
急に背後から話しかけられ、慌てて後ろを振り向くと、苦笑交じりに自分を見つめる妓撫の姿があった。
「な、そんなんじゃ…!」
翔士は慌てて口元を拭う。その拳に毒々しい紅がつくのを見て、翔士は途端に真っ赤になった。
初めての口づけをしてしまった。それも他の男の身代わりにされて一方的に。
「……何なんだ、俺」
翔士にだって一応、接吻に対する夢みたいなものがあったのだ。初恋もまだという晩熟の翔士だが、そのうち好きな子を見つけて、きちんと済ませる予定だった。
それをどさくさに紛れて奪われた挙句、姉のような妓撫にその現場を見られるとは……。
「俺、立ち直れないかも…」
「何、馬鹿な事を言ってんのよ」
妓撫は呆れた声を上げ、脱力してしゃがみ込む翔士の腕を無理やり引っ張って立ち上がらせた。
「それより翔士。
あんたついこの間、怪我だけじゃなくって瘴気も浴びた筈よね。しばらく大人しくしておくように言われなかった?」
「…言われたけど」
「じゃあ、言われた通りになさい。じゃないと、司凉に言いつけるから」
意地悪く続けられた言葉に、翔士は思わずげっと仰け反った。佑楽や架耶なら多少手加減もしてくれようが、司凉の叱り方は容赦がない。
こんな風に出歩いていた事がばれると、下手をすると口をきいてもらえなくなる可能性があった。
「俺、帰る!」
慌てて踵を返す翔士の後ろ姿に、妓撫はひらひらと手を振った。
だが、その姿が完全に夕闇に溶け込むと、妓撫の顔はそれまでとは打って変わった、厳しい、まるで何かを恐れるような慄きの表情へと変わっていく。
「妃咲が、何故…」
妃咲の行動が、妓撫にはわかりかねた。
あの口づけにはどういう意味があるのだろう。翔士は室兄とは全く違う。その事が妃咲にちゃんとわかっているのかどうか。
室兄の凄惨な最期を思い出し、妓撫はぞっとして体をかき抱いた。司凉と並ぶ、最強の戦核であった室兄は、愛依の策略で命を落とした。
鬼に食い散らされ、肉片と果てた室兄の遺体を、妃咲は薄ら笑いを浮かべながらじっと見つめていた。それを聞いた時、この子はもう二度と正気に返らないだろうと妓撫は思った。
室兄以外の依人を妃咲は決して愛せない。妃咲にとって愛するとは、自身の破滅さえ凌駕する激しい憎しみであったのだ。
気付けば辺りはうっかり暮れなずんでいて、河原をうろついていた筈の妃咲の姿さえもうどこにもなかった。
六茫宮に帰ったか、それともまだあてどなく室兄を捜しているのか。
鬼が出る、と不意に妓撫は思った。
妃咲の狂気が凝るような冥い念となって、そこら中に満ちている。その念は、歪んだ地に更なる闇を引き寄せるだろう。
宮の祝の薄らぎをこの時ほど妓撫が危ぶんだことはなかった。
新たな悲報がもたらされたのは、その翌日未明のことだった。
御所はすっかり浮足立ってた。
夜、恋人の元を訪れた若い官吏が、官舎の前の庭で無残に首をかき切られて死んでいたのだ。
悲鳴を立てる間もなく殺されたらしく、奥宮を見回る衛士たちの誰もが異変に気付かず、朝支度の若い官女が血塗れの遺体を見つけて大騒ぎとなった。
「何故、式を襲わなかった?」
駆け付けた成唯は、殺された男の傍らにしゃがみ込み、恐怖と無念を張り付けた若い男の眼を、悼むようにそっと閉じてやる。
男は殺されてから懐を探られたらしく、はだけられた袷には自身の血糊がべっとりとついていた。
屍鬼特有の腐肉さえあちこちに散らばっていなかったら、まるで物盗りにあったように見えたかもしれない。
「普通の鬼ならば、人を襲うよりも先にまず、式を襲う筈だ。だがこの鬼は、御所に放たれている式に、見向きもしなかった」
「余程、執念を引き摺っていたという事か」
成唯の後ろに控えていた羽前は物思わしげに呟いて、遺体から数歩離れた草むらに転がっている腐肉に塗れたそれを、ふと屈み込んで拾い上げた。
「それは?」
差し出された刀飾りを見て、成唯は薄く眉宇を寄せた。
「そこの草むらに落ちていた。紐が切れていないので、この男が刀につけていたという訳でもなさそうだが。
逢瀬の帰りに殺られたようだし、女からの贈り物かもしれない」
「まるで懐にあったそれを鬼が奪い取り、腹立ちまぎれに投げ捨てたという感じだな」
吐息と共に漏らされた成唯の言葉に、羽前は考え澱むように視線を落とした。
先日殺された官女は、首飾りを奪われていた。そして今度は、官女に会いに来た男が襲われて懐を探られている。
そして事の始まりは宗妃の墳墓荒し…。
鬼はある特定の宝玉を手に入れたがっているのかもしれないと、ようやく羽前は思い至った。
鬼は人を選んで襲っている。怨みというよりむしろ、生前の執着が鬼を生み出し、凶行に走らせているのではないだろうか。
「どうした」
思い当たった考えを口にしようとして、羽前はふと、遠巻きにこちらを窺っている人ごみの中に、覚えのある顔を見つけ、思わず声を上げていた。
「翔士、お前こんなところで何をしている!」
先日鬼に襲われて、宮で休んでいる筈の愛依だった。様子がおかしいのであまり目を離したくないと司凉が言っていたので、羽前も気になっていた。
だが翔士は、声を掛けられたのを幸い、叱責など耳に入らぬ様子で足早に羽前の方へやって来た。そして、やや思い詰めた顔つきで聞いてきた。
「ねえ羽前。官女が殺されたって本当?」
羽前は困ったように成唯を見た。成唯は構わんと言いたげに肩を竦め、羽前は吐息交じりに翔士の言葉を訂正した。
「官女じゃない。官女に会いに来た男だ」
「その官女ってどこの宮付き?無位?」
翔士が何を焦っているのか羽前にはわからなかった。
「おい、殺されたのは官女じゃないんだぞ」
「いいから教えてっ。
その男の人が会いに来た官女って、貴沙妃付きだったんじゃないの?」
思わぬ言葉に、羽前は黙って成唯の方を向いた。成唯も何か不審を覚えたようで、眉間に皺を寄せている。
羽前は、遺体の傍で泣きじゃくる官女に何か問い掛け、成唯に向かって頷いた。それを見た翔士が、傍目にもわかる程、さっと顔を白くした。
「どういう事だ。お前、何を知って……」
成唯はすっと翔士に近付くと、腕を引っ掴んで、人気のない木陰に翔士の体を引き摺り込んだ。
「放して!」
「いいから答えろ!お前、一体何を知っているっ!」
「何も知らない」
翔士は必死に首を横に振った。
「ただ、この前貴沙妃付きの官女が殺されて、今回も官女絡みで人が死んだって言うから、俺、緋沙のことが心配で」
「…緋沙?」
覚えのない名前を急に持ち出されて、成唯の腕の力が緩んだ。その隙に、翔士はようやく手を振りほどく。
「泉恕にいた俺の幼馴染。今、官女になっているんだ。
ついこの前まで貴沙妃付きだったんだけど、知り合いの官女が殺されて、すごく怖がってたんだ。だから、俺、心配で…」
「……いたか、そんな女?」
泉恕に一度しか行っていない成唯にはさっぱりである。
「いたんだよ。何なら妓撫に聞いてみて。緋沙のことも覚えてるし、緋沙が貴沙妃付きになったって事も教えてるから」
成唯は深い吐息をつき、確かめるようにもう一度翔士に問い掛けた。
「じゃあ、お前が何か知ってるわけじゃないんだな」
「うん。幼馴染のことが心配なだけ」
二つ返事で頷く翔士に、成唯はあっさりと騙された。
司凉が傍にいたら決してごまかされてくれなかっただろうが、幸いな事に、翔士のことをよく知る祝主は、たまたま覇麝に呼ばれてここにはいなかった。
「それより、成唯。さっき草むらで羽前が何か拾ってただろ。あれって何だったの?」
さりげなく話題を振ってみると、成唯は途端に苦虫を潰したような顔になった。何にでも首を突っ込みたがる愛依児に、心底辟易したものらしい。
「翡翠の刀飾りだよ。
いいからもう、お前は宮で休んでろ。体に染み込んだ瘴気を甘く見るんじゃない。そのうち、ぶっ倒れるぞ」
…また、翡翠だ。
成唯の小言を聞き流しながら、翔士はそっと心の中で呟く。あの首飾りだけでなく、鬼が未だ未練を引き摺るものは、もしかすると翡翠なのだろうか。
一刻も早く確かめなければならなかった。
おそらく鬼が執着する何かは、宗妃の墳墓に入れられなかったのだ。だから形見分けされた官女や、官女に繋がる者が、こうやって殺されている。
そう思ったところで、翔士はようやくもう一つに事実に気が付いた。
「どうした、翔士。気分が悪いのか」
急に元気がなくなったような翔士に気付き、成唯が眉根を寄せた。
「俺が……」
翔士は口にすることを一瞬躊躇った。口にすれば、自分がいかに考えなしだったか、自分で認めてしまう気がしたからだ。
「俺があの時、司凉を引き留めなければ、さっきの男は殺されずに済んでた」
正しいと思って行動したことが、別の人間の運命を捻じ曲げてしまった。その事実に、自分はどう向き合っていけばいいのだろう。
恋人の遺体に取り縋って泣きじゃくる、悲鳴のような官女の声が翔士の耳に痛かった。
「おい、翔士」
成唯は翔士の顔を真っ直ぐに覗き込んだ。
「思い違いをするな」
「え」
「鬼を仕留めきれなかった責まで依人が負う必要はないんだ」
翔士は驚いて顔を上げた。
「この先も救えない命はたくさん出てくるだろう。その度ごとに落ち込んでいたら、依人なんてやっていられないぞ」
苦笑交じりにそう言われて、翔士はようやく肩から力を抜いた。
今さら悔やんでもどうしようもない。
それにもし、もう一度自分があの時間に立ち戻れたとしても、自分はやはり、あの鬼を司凉から逃してやろうとしただろう。
司凉を母殺しにだけはさせられなかった。一番大事なのは司凉だから、司凉を苦しめる事だけはしたくない。
一刻も早く玻奈という官女と繋ぎをとりたいと翔士は思った。すべての謎を解く鍵は、おそらく宗妃の所有していた宝玉にある。




