愛依は、祝主に隠し事をする
その後、司凉を追ってきた他の依人らに後の始末を任せ、ぐったりと目を閉じた翔士を抱きかかえるように馬に乗せて、司凉は一旦御所に戻った。
すぐに血を分けてやったため、翔士の傷は塞がり始めていたが、大量の瘴気を浴びたせいか、翔士は今も浅い呼吸を繰り返しながら、寝台に身を沈めている。
手足の先は氷のように冷たいのに、額にはうっすらと汗が滲んでいた。時折苦しそうに寝返りを打っているが、こればかりは司凉にもどうしようもない。
体から瘴気が抜けていくのを、気長に待つしかないのだ。
邑には事情を聴取するための依人が改めて派遣され、翔士の元にも成唯が聞き取りにやって来た。
邑を襲ったはぐれ鬼は、墳墓を襲ったモノと同じ屍鬼ではないかと成唯は疑っており、それをはっきりさせるためだ。
「あれは女だった」
気怠そうに天井を見つめたまま、覇気のない声で翔士は答えた。
「もつれた髪が背まで流れてて、白い…服を纏ってた。俺が駆け付けた時、その鬼は女性を殺して、引き出しの中を漁っていたんだ」
「引き出しを漁っていただと?」
墳墓の装身具が散々に荒らされていた事を思い出し、思わぬ符合に成唯の声が低くなる。
「それは確かか」
「うん。首飾りのようなものを握りしめてた」
逃げた里人に聞けばそのくらいのことはすぐにわかるから、翔士は正直にそれを打ち分けた。
「何か…想いを深く残すものがあるんだと思う。腕を切り落としてもすぐに肉が盛り上がって、とても歯が立たなかった」
「他に気付いたことは?」
翔士は少し考え、それからゆっくりと首を振った。
「他には何も」
司凉の名を聞いた瞬間、鬼が人としての表情を取り戻し始めたのを、翔士はどうしても言えなかった。
もしかしたら、自分の見間違いかもしれない。
確信のないことを口にして事を大仰にし、司凉の母の名を貶めたくなかった。
成唯は、翔士が鬼に行き当たった経緯や、その後の様子について何度か問いを重ねたが、新しい事実はそれ以上得られず、幼さのまだ残る顔に疲労がだんだんと増していく様子に、潮時だと腰を上げた。
「墳墓を襲った鬼だと同じだと思うか?」
外まで送りに出た司凉にそう尋ねると、司凉は迷うように瞳を彷徨わせ、「おそらく」と答えた。
自分が駆け付けた事を知り、屍鬼が踵を返して逃げた事が、司凉の心に引っ掛かっていた。
人型を留めただけのはぐれ鬼ならば、新たな依人の匂いに惹かれて場に留まっていた筈だ。だが、あの鬼は逃げ出した。
人としての判断力を多分に残しているという事だろう。
跳ねながら逃げて行く鬼の後ろ姿を、司凉は確かに捉えていた。
あのまま追えばおそらく仕留めていただろうが、自分を呼び止める翔士の声のか細さに、思わず足を止めていた。
手痛い失策だったと司凉は思う。
翔士が絡むと、正常な判断力を鈍らせてしまう自分に、司凉はとうに気付いていた。
「翔士の言う通り、あの鬼が何か妄執に囚われて人を襲っているのは確かなようだ。
殺された女の身元は分かるだろうか?」
言われて成唯は変な顔をした。百姓女の名を調べたとて、何の意味があるのかと思ったのだろう。
「何故、女の身元を?」
「鄙には不似合いな整った住まいのように見えた。御所に関わりのある女だったのでは?」
成唯は考えを巡らすように腕を組んだ。
「調べてみる価値はあるかもしれないな」
鄙住まいであるだけに、鬼が掴んでいた宝玉を二束三文のものと聞き流していたが、殺された女が宿下がりした官女か仕え女であるならば、相応の宝玉を持っていた可能性もある。
「あれを取り逃がしたのは、俺の失策だ。何か分かれば、知らせてもらえないか」
「新しいことが分かれば、むろんお前に教えるが」
成唯は言葉を切り、ふと眼差しを和らげて司凉を見た。
「こっちのことはいいから、暫く翔士を気にかけてやれ。かなり具合が悪そうだ。思ったより瘴気を浴びているようだな」
「ああ」
瘴気を浴びただけではなく、精神的にもかなり参っている様子なのが、司凉の心に掛かっていた。
あれほどよく喋る翔士が、宮に帰りついてからほとんど口を聞こうとしない。いつもなら少々具合が悪くても、煩いぐらい自分に纏いついて来るだけに、今の様子は不自然だった。
何か嫌な胸騒ぎがした。
そのまま宮内殿にとって返す成唯に別れを告げ、司凉は足早に翔士の枕辺へ帰って行った。
その晩翔士はずっと寝付けぬまま、傍らの寝椅子に休む司凉の気配だけを一心に追っていた。
司凉と同じ部屋での寝るのは久しぶりだった。小さい頃は病や怪我を囲う度、いつも司凉にお泊りをねだっていた。
少々熱が高くても、傷がじくじくと痛んでも、祝主さえ傍にいれば、愛依の翔士はそれで満足だった。
今も安らかな司凉の寝息を聞いているだけで、泣きたくなるような安堵に満たされる。
司凉…!と叫んだ瞬間、鬼がみるみる人型を取り戻し始めたのは、間違いないと思う。顔は確かに貴沙妃の面影があったが、はっきりそうかと言われると、今の翔士に自信はなかった。
肉は爛れて皮膚などはなく、ただ赤く充血した目元の辺りが、貴沙妃を思い起こさせたというくらいだ。
あと、悲しみに歪むあの表情は、微かな怯えを孕んでいた気がする。
でも…、と一方で翔士は思う。本当にそんなことがあるだろうか。
貴沙妃は自ら毒を仰いで果てたのだ。覚悟の末に死を選んだ人間が鬼となって現世を彷徨うなど、普通では考えられない。
誰に相談していいか、わからなかった。父に続き、母まで失った司凉に、その母親が鬼になったようだとは口が裂けても言いたくない。
もし、これが単なる自分の思い違いであったなら、迂闊な発言は徒に司凉を傷つけ、苦しめるだけだろう。
「司凉…」
溢れ出た涙が頬を伝って敷き布を濡らした。
どうしたらいいのだろう。どう行動するのが正しいのだろう。このまま放っておけば、あの鬼は更に殺戮を重ねていく。
それともいっそ人としての心を失うまで、見て見ぬふりをしておけばいいのだろうか。まだ僅かに人の心を残しているあの鬼に、更に罪を重ねさせて、人の心を失わせ…。
「翔士」
ため息交じりに名を呼ばれ、翔士はびくりと寝椅子の方を向いた。見ると司凉が片肘をつき、呆れたような顔でこちらを見ていた。
「言いたいことがあるなら言え。傍で泣かれたら眠れないだろうが」
「寝てなかったの?」
司凉は疲れたようなため息を漏らした。
「眠りかけてたら、お前が俺を呼んだんだ」
「ごめん…」
翔士は拳で涙を拭った。
「俺、どうして司凉の役に立てないのかな」
「…鬼を倒せなかった事か?」
訝しげに司凉が問い返す。翔士はちょっと躊躇い、結局頷いた。説明できるような事ではなかったからだ。
淡い月明かりの中、長い髪を解いた司凉の端正な顔が、柔らかな薄闇に霞んでいた。
司凉ほどきれいな人間は見た事がないとぼんやりと翔士は思う。
冷ややかに見える切れ長の眼差しも、すっと通った高い鼻も、形の良い唇も、繊細な線を描く顔の輪郭も、そのすべてが翔士は大好きだった。
「ねえ、司凉。そっち行っていい?」
「……そっちって、この寝椅子にか?」
「うん。駄目?」
この辺りは、飼い主に懐く犬っころの感覚に似ている。そうした愛依の習性を理解する司凉は、天井を仰いで嘆息した。
「………俺がそっちへ行く」
こんな狭い寝椅子に二人で寝るなど、考えただけで肩が凝りそうだった。
布団の中に入ってきた司凉の体に翔士はへちゃりと抱きつき、暫くごそごそと動いて、居心地の良い場所を探していた。
ようやく胸の辺りに顔の場所を決め、体の力を抜いていく。
やや体温の低い司凉の体が、熱に倦んだ体に気持ち良かった。
司凉も同じことを感じたのだろう。
「お前、体温が高いな。やっぱりまだ子どもだ」
「熱のせいだよ!」
むっとして言い返すと、低い声で笑われた。
「からかっただけだ」
くっくと揺れる喉のくぼみに頭を埋め、翔士は静かに目を閉じる。
「ね…、司凉」
「何だ」
「俺、まだお悔やみ言ってなかったよね。宗主さまと宗妃さまが続けて亡くなった事…」
「…子どものくせに、変な気を遣うんじゃない」
翔士の頭を抱いたまま、眠そうに司凉が答えた。
「俺…、早く大人になりたいな」
司凉を守れるだけの力が欲しかった。守られるだけでなく、大切な人を傷つけないだけの強さが、今すぐこの手に欲しかった。
あの鬼は貴沙妃なのか、それとも全く別の人間なのか、調べてみようと翔士は思った。
これ以上あの鬼に、罪を重ねさせる訳にはいかない。もし不幸にもあの鬼が貴沙妃であったとしても、貴沙妃の名前は何としても自分が守るのだ。