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愛依は、鬼と遭遇する

「暇だ…」


 そんな為政者たちの苦悩もどこ吹く風、広々とした畦道で、一人呑気にそんなことを呟く依人(よりうど)がいた。

 言わずと知れた翔士(しょうし)である。


 禍事が重なり、同胞(はらから)が死に物狂いで事に当たっているこの時期に、こんな言葉を口にするなど不謹慎極まりないのだが、実際、封じの戦力にもならない翔士は目下何もする事がなく、日々退屈だった。


 実戦に付き合ってくれる筈の司凉(しりょう)は、このところの多忙で春華(しゅんか)にも帰って来ないし、他の依人にくっついて封じに出掛けようにも、司凉の愛依児(ういじ)を危険な目に遭わせられるかと、誰もが露骨に二の足を踏む。

 

 唯一、冒険をさせてくれそうな佑楽(うらく)は体調を崩して寝込んでおり、そんなに暇なら御所近くの邑でも見回って来いと、先ほど宜張(ぎちょう)に送り出されたところだ。



 宗主夫妻の死後、翔士がようやく司凉に会うことが叶ったのは、葬礼が済んで五日も経ってからの事だった。

 一介の依人である翔士が、新宗主の弟である司凉に会おうとしても、御所ではしきたりやら序列やらがわずらわしくて、なかなか思うに任せない。

 ついに焦れた翔士がたまたま通りかかった伽飾(がしょく)に頼み込んで、ようやく司凉の居室にもぐり込ませてもらったのである。


 疲れ切った表情で部屋に帰ってきた司凉は、祝主に放っておかれて拗ねたように部屋で蹲っている翔士を見つけて、心底びっくりしていた。

 どうやって入ったと呆れる司凉に頬を膨らませて説明すると、司凉は思わず苦笑し、お前らしいなと乱暴に翔士の頭を抱き寄せた。


 陽光の下で見た司凉の顔には深い疲労が滲んでいて、聞けばここ数日、まともに寝ていないのだという。

 夕刻の格付けの集まりまでもう少し時間があるという司凉に、「時間になったら起こしてやるよ」と胸を張って答えた翔士だが、寝台の脇で司凉の寝顔を見ながら膝を抱えて座っていたら、ついうとうとと眠りこけていたらしい。


 うわっという司凉の焦った叫び声で目を覚ました翔士は、どっぷりと暮れた室内の様子におやっと首を傾げた。

 司凉は脱力し、嘘だろうと頭を抱えていたが、司凉の焦った顔を見たのがこれが初めてだった翔士は、その表情が何だかとっても新鮮で、実のところとても楽しかった。


 あとで聞くと、司凉を呼びに来た官女は、司凉があまりに気持ちよさそうに午睡している姿にしばらく見惚れた挙句、起こすのが忍びないと思ったそうで、その報告を受けた葵翳(きえい)も、ついつい寝かせておいてやれと答えてしまったものらしい。


 後で散々、年長の格付けたちにからかわれた司凉は本気でむっとしていたが、お陰で疲れも取れたのか、すっかり顔色の良くなった司凉を見て、翔士はほっと安堵の息をついたのだった。



 ぽかぽかとした陽気に誘われて、翔士はのどかに田畑の広がる里を歩いていた。

 その身なりから、依人と知れる翔士が一人邑を歩いていても、不審な目を向けてくる里人はいない。土地を見て歩くのも、依人の務めだと思われているから、その点、気が楽なのである。


 所々にかやぶきの家が建っていて、夫婦者らしい百姓が腰をかがめて畑仕事をしていた。翔士に気が付くと、泥まみれになった手を休め、軽く会釈する。

 そのそばでは年子と思われる子ども達が、楽しそうに走り回っていた。


 どこにでもある、ありきたりの風景だった。この平和な地を鬼が徘徊しているとは到底思えない。


 翔士は道端の草を一つ手折り、中の種を出して口元に押し当てた。子供の頃は部落の友達と、よく野草で草笛を作って遊んでいた。

 そう言えば川に落ちて溺れかけたのは、草の引っ張り相撲に夢中になって、うっかり足を踏み外したからだったような。

 あの時は肺炎を起こして危篤状態になり、散々司凉に叱られたなぁとなどと思い出し、翔士は思わず眉間に皺を寄せた。


 ま、そろそろ司凉も忘れる頃だろうし、とお気楽に心の中に呟いた時、どこか遠くで魂切るような女の悲鳴が聞こえた気がした。 

 翔士は慌てて辺りを見渡した。


 …どこだ。


 感覚を探っていると、異形の放つ不浄の気配を西の方角に捉えた気がした。見れば、山裾にある一軒の家の戸が開いている。

 ざわりと肌を粟立てる翔士の耳元に、こんどははっきりと恐怖と苦悶に満ちた女の叫び声が聞こえてきた。


 翔士は、悲鳴が聞こえた家に向かって走り出した。同時に、司凉から渡されている符を迷わずに破砕する。

 これで司凉に、自分の危機が伝わる筈だ。


 翔士がその家に着いた時、すでに家の中は血の海だった。

 ひぃっと声を上げながら転がり出て来た三十過ぎの男が、恐怖と狂気を顔に張り付かせて翔士を見上げる。

 動転のあまり、相手が依人だという事にも気づけないようだ。


「逃げろっ!他の里人にも知らせるんだ」

 男は腰が抜けたように座り込んでいたが、翔士が手に顕現させた破邪の剣に、ようやく血の気を取り戻した。

「行け…っ!」

 そのまま男は尻をまくるように駆け出した。


 一方、家の中に踏み込んだ翔士は、血と腸の飛び散る室内のあまりの惨状に、吐き気を堪えて立ち竦んだ。

 切り落とされた手首から先が、何かを掴もうとするように丸まって床に転がっている。

 血まみれの肉塊はほとんど人の形を残しておらず、脳漿を散らした頭部に張り付く長い黒髪から、辛うじて被害に遭ったのが女性だと分かるほどだ。


 鬼はさらに奥の室内にいた。腐りかけた体を引き摺るように、棚の引き出しを漁っている。もつれて背に流れる黒髪は腰まであり、血と膿に汚れた死に装束を身に纏っていた。


 と、引き出しを漁っていた鬼が、依人の清浄な気配を感じてぎっと後ろを振り返る。ぶよぶよと膿みただれた顔からは眼球が飛び出しかけ、口は裂けて血膿が滴っていた。

 翔士はこみ上げる生唾を飲み込んだ。なまじ人型を残しているだけに、人ならぬその姿は一層の醜悪さを際立たせた。


 ふと手元を見ると、鬼は右手に首飾りらしきものを掴んでいた。嵌め込まれた玉がぬらりと血に汚れ、鈍い輝きを放っていた。


 これほど浅ましい姿になり果てて尚、宝玉を欲しがるのかと、翔士が痛烈な軽侮を心に覚えた瞬間、いきなり鬼が飛び掛かってきた。

 跳躍といっていい動きに一瞬対応が遅れ、危うく後退した翔士の頬をぶんと唸る腕がかすめていく。


 長く伸びた爪が皮膚を抉り、痛みと共にぬらりとした感触が頬を垂れた。

 破邪の剣で次の一撃を受け止め、返す手で攻撃するが、鬼は軽々と翔士の剣を躱し、牙を剥き出してかかってくる。


 ………思いが残っているのだ。 

 

 不意に翔士はそう悟った。鬼になったばかりの屍鬼は、どれも激しい怨みを呑んでいる。

 鬼となって日が過ぎれば過ぎゆくだけ、記憶すら呑み込まれてただの悪鬼に成り下がるが、この鬼は形ばかりでも人としての形を残しているせいか、未だに激しい念に囚われていた。


 こうした鬼は強い。己が殺した人間の恐怖や怨嗟までも呑み込んで、途方もない力を顕現してくる。


「破……っ!」


 神気を帯びた剣が、次の瞬間、鬼の右腕を薙いだ。

 優位を確信したのもつかの間、残った付け根にみるみる腐肉が盛り上がり、長く伸びた指の先に五本の鉤爪までもが生えていくのを見て翔士は呆然とした。


 背中を冷たい汗が滴り落ちる。

 こんな風に蘇生する鬼に、翔士はまだ出会ったことがなかった。胴を断ち切るくらいすれば、封殺できるのかもしれないが、そこまでこの鬼を追い詰める事が果たして自分にできるのだろうか。


 迷う間にも、鬼は攻撃を次々と仕掛けてくる。防戦一方になり、後ろに一歩引いた時、床に散った血糊で翔士の足が滑った。

 仰向けに転んだ翔士の顔に向かって振り下ろされた鬼の腕を辛うじて剣で受け、足で鬼の胴体を大きく蹴り上げた。

 鬼が怯んだ隙に何とか起き上がったが、床に広がる血で翔士の袍は真っ赤に染まった。


 どこまで持ち堪えられるかと、戦慄する思いで剣を握り直した時、遠くで自分を呼ぶ司凉の声が聞こえた気がした。

  

「司凉……っ!」

 翔士は声を限りに叫んだ。開け放たれた扉から、自分の声が届くのをただ願うしかなかった。


 鬼はなかなか次の攻撃を仕掛けてこない。どう動く気だと瞳を眇めて鬼を見つめた時、翔士は鬼の様子が先ほどとは変わっていることに気が付いた。

 翔士に襲い掛かろうとしていた格好のまま、鬼は完全に動きを止めていたのだ。


「え…」

 翔士は思わず目を疑った。

 どろどろに溶けていた鬼の顔が僅かに輪郭を取り戻し、その目鼻立ちが一瞬、それとわかる程に整えられていく。


「まさか…」

 翔士の喉から掠れた声が漏れた。

 そこにいたのは、亡き宗妃、貴沙(きさ)だった。朧に人の表情を取り戻した鬼は悲しげに戸口の方を見やり、微かな怯えを瞳に張り付ける。


 翔士の名を呼ぶ司凉の声が、今やはっきりと耳元に届けられた。

 戦意を完全に失った翔士の手から破邪の剣が消え失せ、無防備な姿を晒した翔士にいきなり鬼が襲い掛かる。

 咄嗟に身を躱したが、避けきれずに肩の辺りを切り裂かれた。鮮血が飛び散り、翔士がよろめくように膝をついた隙に、鬼は奇妙に飛び跳ねながら外へ逃げて行った。


「翔士、無事か!」

 一拍遅れて飛び込んできた司凉は、血に濡れた肩を押さえて蹲る翔士をざっと一瞥し、そのまま鬼の後を追おうとした。


「司凉、待……」

 鬼の顔が瞼の裏に浮かぶ。司凉が来ると知った時の絶望にも似た悲しげな表情。

 追わせてはいけないと翔士は思った。鬼はまだ司凉を愛していた。このままでは司凉に母殺しをさせてしまう。


 その慟哭と罪の重さを思い、翔士の脳裏が真っ赤に染め上げられた。重く包み込むような息苦しさに、目の前が暗く霞んでいく。


「……士、翔士っ!」

 気付けば、司凉に抱きかかえられるように揺さぶられていた。


「どうした。瘴気を浴びたのか」

 翔士はぼんやりと重い瞼を持ち上げた。

 厳しい顔で自分を覗き込む司凉の背後に、髪の毛や白い歯の浮かぶ赤い血だまりが目に映った。


 吐き気を覚えて翔士は目を閉じた。

「気分が悪い…」


 夢であればいいと翔士は思った。このような無残を司凉の母が犯したとは到底信じたくない。

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