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祝主は、悪夢を漂う

 まるで終わらぬ悪夢を見続けているような気分だった。

 数か月の長患いの果てに父を失い、その死の衝撃も冷めやらぬうちに、今度は母が毒を煽って自害した。疲れすぎた頭に現実がついていかない。

 何より苦痛なのは、宗妃の死を自分の口から佑楽(うらく)に伝えなければならない事だ。


 すでに夜は白みかかっているのに、佑楽はまだ自室に起きていた。

 弟の死がよほど痛手であったのだろう。滅多に嗜む酒を杯に注ぎ、泣き腫らした目でじっと暗い窓の外を眺めている。


「佑楽、宗妃が亡くなった」


 朝まだき訪問を訝しんでいた佑楽に、司凉(しりょう)は端的にそう告げた。

 その言葉をゆっくりと咀嚼し、佑楽は話にならんと言いたげに首を振った。


「一体何の冗談だ」


 司凉は厳しい眼差しで佑楽をじっと見た。その眼差しにたじろぐ佑楽を静かに見据え、司凉はもう一度言葉を重ねた。


「つい先ほど、毒を煽って自害された。立派なご最期だった」


 佑楽はすっと顔色を白くし、何か言い掛けようとした。が、それは言葉にならず、そのまま膝から崩れるようによろめいた。

 床に崩れようとする佑楽の体を、司凉は間一髪抱きとめた。そのまま、半ば抱きかかえるようにして、側の寝椅子に横たわらせる。


「何故」

 呻くような言葉が佑楽の唇から漏れる。

「何故、貴沙(きさ)が…」

 宗妃を名前で呼んだ事にも、佑楽は気付かない様子だった。


 ぐったりと仰向いた佑楽のあまりの顔色の悪さに司凉は眉を顰め、ふと気付いて寝台から上掛けを取ってくると、横たわった佑楽の体にかけてやった。

 額の汗を拭い、襟元を寛がせた後、そのまま椅子に腰かけて暫く様子を見ることにする。


 雨の気配を感じてふと視線を窓の外へ向ければ、霧のような小雨が音もなく、まだ薄暗い庭園の緑を打っていた。

 夜が完全に明けるまで、あと四半刻といったところだろう。


 もの寂しく梢を濡らす雨を見るともなしに眺めるうち、初めて司凉の心に、母に対するあえかな憐憫の情がわいてきた。

 傍から見ればどれほど愚かしい恋であったにせよ、母にとっては一生に一度の掛けがえのない恋であったのだ。


 と、腕で目を覆い、ぐったりと寝椅子に身を預けていた佑楽が不意に口を開いた。

「すまない」

 その短い謝罪に含まれた言外の意味に気付き、司凉は一瞬息を止めた。

「………別に、貴方が謝られることはない」


 それでなくとも最愛の弟を失ったところに、自害という形でかつての想い人を失ったのだ。この状況だけでも佑楽には耐えがたいだろう。

 そしてまた、あの首飾りが本当に佑楽からの贈りものならば、いずれ佑楽は今以上の苦しみを負うようになることは必至だった。

 司凉にはそれが気に掛かった。


「疲れが出たのだろう」

 司凉は短く言葉を掛け、立ち上がった。

架耶(かや)を呼ぼう。そのまま休んでいてくれ」



 報せを受け、息せき切って駆け付けてきた架耶を、司凉はまず自室へ入れた。佑楽に合わせる前に、事実を確かめておきたかったからだ。


 首飾りを身に着けて宗妃が自害したと聞いた架耶は蒼白になった。

「何てことを…!」

 架耶は宗妃の軽挙を今回ほど憎く思ったことはなかった。

 佑楽がどんな思いで亡き宗主の傍らにいたかを知っている架耶には、更に佑楽を苦しめようとするような宗妃の行動はもはや受け入れ難い。


「佑楽はもう、この事を知っているの?」

 厳しい声で問いかけてくる架耶に、

「まだ伝えていない。だが、いずれ耳には入るだろう」

 司凉は感情のこもらない声でそう答えた。そしてようやく得心がついたとばかりに片方の口の端を上げる。

「お前がここまで焦るという事は、あれはやはり佑楽が贈ったんだな」


 架耶は一瞬、怯んだように瞳を揺らしたが、今更隠しても仕方ないと思ったのだろう。

「そうよ」と、挑むように司凉を見上げた。


「けれど、誤解しないで。

 佑楽は宗主さまを裏切ったことは一度もないわ。ただ、想っていただけ。それにもう、宗妃さまとの事は、佑楽にとって思い出のようなものだったのよ」

 

 わかってるさ…。

 司凉は架耶から目を逸らし、うんざりと心に呟いた。五十も半ばを過ぎたような女を、今更佑楽が相手にするとは、元より司凉も思っていない。


 かつての恋に闇雲にしがみついていたのは、宗妃の方だ。

 いよいよ老いさらばえて惨めな姿を男の前に晒すより、いっそ忘れ得ぬ死をもって、男の脳裏に刻まれたいと母は願ったのだろう。


「それでお前はどうしたい?

 佑楽がそれを俺に知られたくないと思っているなら、その茶番に付き合ってやるが」


 どこか皮肉げな司凉の言葉に、架耶は一瞬詰るような視線を向けた。が、すぐに瞳を伏せると、

「そうね」

 と疲れたように頷いた。

「今はそうしてもらった方がいいと思う。首飾りの件は、いずれ時期を見て私の口から話すわ」



 架耶はそのまま急くように佑楽の部屋へと向かい、司凉はその足で宗妃の寝所に戻った。すでに親族や廷臣らにもその訃報が知らされたらしく、部屋の前は大勢の仕え人でごった返していた。


「司凉」

 姿を認めた兄の祷耶(とうや)が、青ざめた面持ちで近付いてくる。

「まさか、こんな事になろうとは」

「ええ」

「宮がお隠れの時期になぜこんな…」


 涙で後の言葉は続かなかった。唇をわななかせる兄の肩を抱き、司凉はゆっくりと寝所へと足を踏み入れた。


 母は白の死に装束に身を改められ、明かるさを絞った柔らかな燭光の下、薄化粧も施されて、すっかり往時の美しさを取り戻していた。

 豊かな黒髪はきれいにくしけずられて、枕元に流されている。


 宗妃の死を悼む人々の静かな啜り泣きが室内を満たしていた。

 その人々の間を縫って兄は母の枕元へと向かい、司凉はその喧騒から一人離れて、ひっそりと室内の様子を窺った。


 先程まで床を汚していた血泡や唾液は、きれいにぬぐい取られている。

 司凉はふと、鏡台に捨て置いた首飾りの事が気に掛かり、部屋の隅に放心したように座っている一人の老女に声を掛けた。


「宗妃さまが身に着けておられたあの首飾りはどうなった?」


 その老女は、母が生まれた時から付き従っている乃而(のに)という官女だった。母が一番心を許していた仕え女だったから、司凉にも馴染みが深い。

 司凉の問いかけに乃而はくしゃりと顔を歪め、老いた頬に新しい涙を零しながら、悔しそうに言った。


覇麝(はじゃ)さまが目障りだと申されて、お捨てになりました」

「捨てた、あの首飾りを?」


 驚いて問い返すのへ、乃而は老いた体を震わせてしゃくりあげた。

「宗妃さまはずっと、あの首飾りをご自分と一緒に墳墓に入れて欲しいと、何度も申されておりましたのに…」

 それでは宗妃が浮かばれまいと、さすがに司凉は眉宇を寄せた。


 そんな司凉に、乃而は涙を拭いながら言葉を続けた。

「余りにおいたわしいので、後で官女見習に、私がこっそり拾いに行かせました」

「………そうか」


 兄は、母の背徳に感付いたのかもしれないと司凉は思った。

 あの精巧な装身具だ。誰が作らせたか調べようとすれば、簡単に調べがつく。母を崇拝する兄には、おそらく耐え難かったのだろう。


 今まで漠然と兄に抱いていた不安が、確かな形として現れ始めたのを、司凉は感じないわけにはいかなかった。

 兄の行動は、ある意味正しい。

 けれど怨みを溜めやすいこの不見(みず)の地で、ましてや宮の(はふり)を欠く今の時期であれば、清濁をあわせ飲む寛容さが、新宗主にはなおのこと必要なのではないだろうか。


 立て続けに起きた御所の不浄に、民草の不安は否応なく高まっている。時を置かず、大がかりな祓いの儀が必要になるだろうと司凉は思った。

 恐怖が念となって地を覆えば、歪んだ場にはぐれ鬼が生み出されるのは必須だった。



 

 司凉の懸念は最悪の形で実現した。

 宗家の威信を見せつけるような壮麗な祓いの儀が三日三晩にわたって行われ、宗主夫妻の遺体が禊山の墳墓へと移された翌々日、墳墓を警護する二人の衛士が、何者かによって惨殺されたのだ。


 まさか墳墓を狙う物盗りが現れるとは思わず、衛士は墓の入り口にしか配されていなかった。

 最初の一撃で首を落とされたらしく、二人の首から下に一切の傷はなかったが、よほどの恐怖を呑んだのか、地面に転がった二人の首は、怨みと怯えを張り付けたすさまじい形相を呈していた。


 宗主の遺体に異変はなかったが、宗妃の石棺の蓋は開けられ、安置されていた筈の宗妃の遺体はどこにもない。

 一緒に埋められた宝玉類も荒らされており、ただ耐え難い腐臭だけが墳墓の周辺に満ちていた。



 新宗主である覇麝に早々に呼び出された葵翳(きえい)もまた、新しい御代を揺るがしかねない猟奇な事件に、険しい表情を隠せなかった。

 闇の時代をいくつも乗り越えてきた葵翳にしても、これほどの災いが重なるのは初めてだった。


「母に怨みを抱く者の仕業だろうか」

 弱々しい覇麝の問いに、葵翳は考え澱むように視線を伏せる。

「今の時点ではわかりません。ただ……」

「ただ…?」


 先ほど微乃(みの)から受けた報告が、葵翳の心を重くさせていた。

 あれほどの大事であれば、微乃が判断を狂わせる筈がないと知っていたが、信じたくないという思いがどうしても勝ってしまう。


「墳墓を襲ったのは、鬼かもしれません」

「鬼……だと?」

 たちまち覇麝の顔が真っ青になる。

「鬼が墳墓を何故…」

 覇麝の疑問は当然だった。

 鬼が、人を襲ったのまではまだわかる。だが、棺から骸を引きずり出し、宝玉を漁るなど、およそ鬼のするような事ではない。


「それは我らにもわかりませんが」

 葵翳は言葉を切り、僅かに瞳を眇めた。


「ただ、切り落とされた衛士の首に腐肉がついていたと報告がありました。それに墳墓を確かめた微乃が、異形の残気を感じ取っています。

 もしこれが真実、鬼の仕業であるのなら、宝玉や調度類を散々漁っている事を鑑みて、生前の感情を多分に残している屍鬼によるものだと考えるべきでしょう」


「屍鬼がすでに都を徘徊しているかもしれないというのか…!」

 余りの事態に、覇麝は声を震わせた。ようやく位を継いだばかりの新宗主には、この事態はあまりに荷が勝ち過ぎた。


「今回、衛士が殺害された一件には、緘口令を出されたと聞きました。

 それでなくとも宮隠れの時期に宗主が亡くなり、更には宗妃までご自害されて、人心は乱れています。まして宗妃のご遺体が盗まれたと噂が広がれば、不安はさらに募っていくことでしょう」


 葵翳は、宗妃の遺体を捜したいと口にしていた覇麝に、釘を刺さざるを得なかった。


「ご遺体を見つけ出したいという宗主のお気持ちはわかりますが、今の状況では探索はお諦め下さい。

 噂が流れる事も心配ですが、もし本当に屍鬼がうろついているとすれば、只人を捜索に回せば徒に犠牲者を増やす結果になります」


「では、山中に捨てられているであろう宗妃のご遺体もそのままにしておけと…?」

 覇麝の声は、無念に震えた。

「屍鬼を追う必要もありますから、依人(よりうど)が手分けして山中に入るようになるでしょう。

 …せめてご遺体の一部なりともお戻ししたいとは思っておりますが」


 葵翳の言葉に、覇麝は心を落ち着かせるように瞑目した。

 父の死と共に宮の祝が一つ失われ、しかも墳墓を襲った屍鬼が、今この瞬間にも新たなる犠牲者を求めて、都をうろついているかもしれないのだ。


 この非常な事態に、私情を優先させることの愚かしさは、いくら孝に深い覇麝にも理解できた。

 今は一刻も早く、屍鬼を封じる事だ。宗妃の亡骸を探させるのは、その後でいい。


「そなたの判断に従おう」

 覇麝は苦渋を断ち切り、きっぱりと言い切った。


「今は何より民草の安寧を一義に考えるべきだ。

 依人は総力を挙げて、屍鬼の封じに力を尽くすように」


 何千もの民が溜める恐怖や不安は、鎮められていた念さえ容易く地に呼び起こす。

 呪陣の結界を崩壊に導く要因は、一つでも排除しておかなければならなかった。

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