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祝主は、肉親を喪う

 芙蓉の花が音もなく枝を離れ、冴え冴えとした水面に散っていった。

 池に浮かんだそれが花弁を散らして水面を漂う姿を眺めるともなしに眺め、佑楽(うらく)はふと視線を動かして卓子に置かれた一房の髪に目をやった。


 病に寝付いた儀容(ぎよう)が、願を掛けて髪を削ぎ落した時、まるで形見分けのように佑楽に持っていて欲しいと頼んだ一房だった。

 それでお前の気が済むならと受け取ったその品だけが、今は弟を偲ぶたった一つのよすがとして佑楽の手元に残されている。


 儀容はほんの小さい頃から、佑楽にずっと遠慮し続けてきた。

 本来なら宗家を継ぐべき兄を差し置いて自分が宗主になる事を、可哀そうなほど申し訳なさがり、何を決めるにも、佑楽の顔色を窺おうとした。

 儀容は貴沙(きさ)を自分の妃にと望んだが、もし貴沙が佑楽の思い人だと知っていたら、おそらく望みを口にする事さえなかっただろう。


 そんな気弱な弟が時にもどかしく、けれどそれ以上の愛おしさを覚えてずっと慈しんできた。

 その儀容を失った事が未だに信じがたく、佑楽は途方に暮れた眼差しでぼんやりと辺りを眺め渡した。


「……司凉(しりょう)

 

 宗主の死を悼んですすり泣く親族から一人距離を置いて窓辺にたたずんでいた司凉は、佑楽の呼び声にゆっくりとその面を上げる。

 佑楽を見つめ返す琥珀の眼差しは、たった今自分の父親を看取ったとは思えぬ静謐さに満ち、平素とついぞ変わらぬその落ち着いた姿に、佑楽は一瞬続ける言葉を失った。


「何か?」


「何か、って…」

 逆に問い返されて、佑楽は思わず口ごもる。


「お前、……大丈夫なのか?」

 司凉は怪訝そうに僅かに目を見開いた。

「俺は平気だ。貴方こそ顔色がかなり悪いようだが」

「お前の父親が死んだんだぞ!」


 微かな怒気を孕む佑楽の言葉に、司凉はようやく口にされぬ問いに気付いたように、口元を歪めてうっそりと笑った。


「分かっている。

 けれど貴方もいつか言われた筈だ。依人(よりうど)として生まれついた我らに、肉親との死は避けて通れぬものだと。

 それに俺はある程度覚悟もついていた。苦しまずに逝かれたのだから、それで良しとすべきだろう」


 まるで年長者に諭されているような物言いに、佑楽は片手で顔を覆って唇だけで薄く笑った。

「お前の方が、俺よりずっとしっかりしているようだ。俺も頭ではわかっているつもりだが…」


 唇を噛み、覆った指の間から一筋の涙が流れ落ちる。

「俺は駄目だな。あいつの死をそんな風に簡単に割り切ることはできん」


 司凉は肩を震わせる佑楽をじっと眺めていたが、やがてその恬淡てんたんとした視線をおもむろに逸らし、再び窓の外へと向けた。


 嘆きを囲う佑楽を間近に感じながら、何故自分はこうも悲しめぬのだろうかと司凉は一人ひっそりと自問する。

 父には十分な愛情を注いでもらった。温厚で慈しみに溢れた人柄を好ましくも思い、尊敬の念も抱いてきた筈だ。

 だが今の自分に、その父を失った事への切実な悲しみは沸いてこない。時を経て、来るべき時が当然来たのだという、諦念にも似た淡い寂しさを覚えるだけだ。


 〝不人あらずびと”。 依人を指し表すその別称が、今更ながらに司凉の胸に重かった、

 鬼と対峙する不老人とうよりはむしろ、人の心を解さぬ、あるいは持ちえないという意味で、自分は確実に人ではないのかもしれない。


「司凉」

 やがて衣擦れの音と共に、一人の女性が近付いてきた。ゆったりと声の方を向く視線の傍らで、佑楽がぴくりと体を震わせるのが感じられた。


「母上」

 黒い喪衣に身を包んだ宗妃の前に、司凉はゆっくりと膝を折る。


「お父様に最後のご挨拶をなさい」

 凛とした気品あるその面に、深い疲労が刻まれている。ここ三日は、ほとんど眠っていないのだろう。

 それでもいかにも悲しげなその表情が見せかけの嘆きに過ぎない事を、司凉は同類の勘で読み取ってしまった。


「今、参ります」


 宗妃は、不自然なほどの頑なさで司凉だけをじっと見つめている。

 脇に立つ佑楽には一切視線を向けようとせず、佑楽もまた肩を怒らせて、宗妃の存在から目を背けようとしていた。


 宗妃から極力、距離を置こうとする佑楽と、その佑楽を殊更に自分の手元に引き留めたがっていた母…。

 両者の間に張りつめる空気の痛さに、司凉はふっと眉根を寄せる。


 父は気付いていただろうか。いや、と司凉はすぐにその考えを否定する。

 おそらく最後まで何も気付いていなかった。そのような下賤な邪推をするような人ではなく、佑楽の事も心から敬愛していた。


「佑楽、貴方も一緒に行くか?」

 司凉の言葉に佑楽はうっそりと顔を上げ、けれど視線を合わさぬまま低く答えた。

「俺は後でいい」


 司凉はゆっくりと踵を返した。

 一緒についてくると思われた母は、躊躇った末に佑楽の元に留まり、その未練がましさに司凉は思わず舌打ちしそうになった。


 往時の美しさを色濃く残すが故に、容赦ない老いは尚のこと、宗妃には醜悪だった。

 頬のたるみや目尻の皺、隠しようのない肌のくすみ。

 若さを保つという媚水や仙薬を各地から集めて肌に試し、そうして母は日々失われてゆく美しさを、恋する依人のために必死に囲おうとしたのだろうか。


 湧き上がる母への嫌悪を呑み下し、一回りも小さくなった父の亡骸の前に、司凉は静かにひざまずいた。

 仕え人の啜り泣きに包まれて、宗主は安らかに棺の中に眠っている。

 その御霊が現世うつしよから解き放たれて安らかな土に還らんことを、司凉はひとえに神に祈った。



 その夜、宗妃は早々と側付きの女達を下がらせ、湯あみの済んだ体をゆったりと長椅子に横たえていた。


 儀容を黄泉に送った後の佑楽の態度の変容ぶりが、貴沙の心を千々に打ち砕いていた。

 何を話しかけても、佑楽は決して自分と目を合わせようとせず、頑なに心を閉ざして自分から遠ざかろうとした。


 佑楽の心が永遠に自分から失われてしまった事を、今や貴沙ははっきりと知った。

 儀容が生を紡いでいる間は、佑楽は優しい笑みをきちんと自分に注いでくれた。だが、儀容は病に逝き、儀容のいなくなった本殿に、佑楽は二度と足を踏み入れてはくれないだろう。


 想いだけが狂ったように膨れ上がり、やり場のない苦しさに貴沙は今にも大声で喚き出しそうになる。

 宗妃の称号も身に余るほどの贅も、何一つ望んではいなかった。欲しいのはいつも佑楽だけだった。

 初めて出会った十二の時から、佑楽は自分にとって世界の全てであったのだ。


 黒い喪にはらはらと涙を零しながら、貴沙は佑楽から贈られた翡翠の首飾りを胸元でいきつく握りしめた。


 佑楽にはこの意味が分かるだろうか。儀容を追って逝く自分が、なぜ最後にこの首飾りで身を飾ったか。

 そしてその罪の深さに気付いた時、佑楽は生涯自分を忘れる事はできないだろう。


 ただ一度、仕え女らの視線を避けるように、そっと互いの指を触れ合わせただけの本当に幼い恋だった。

 あれほど雄弁な眼差しを向けてきながら、佑楽はついに想いを告げる事さえしなかったのだ。


 佑楽が儀容との婚姻を望んできた時、貴沙は、この恋を断ち切ろうとする佑楽の強い決意を感じ取った。

 残酷な方ねと涙を浮かべる貴沙に、貴方が欲しがるものは俺は何一つ持っていないと、佑楽は淡々とそう答えた。


 儀容の申し出を受ける代わりに、宝玉をあしらった祝いの品を所望したのは自分だった。佑楽を思い出すよすがに、肌につける装身具がどうしても欲しかったからだ。

 佑楽は了承し、そして三か月後、見事な意匠を凝らした指輪と首飾りが貴沙の元へ届けられた。


 儀容の妃となってからも、貴沙は折に触れてその装身具を身に着けた。それを目にする度、弟への後ろめたさに瞳を翳らせる佑楽の姿を見るのが好きだった。

 褪せぬ恋を一途に追う貴沙の傍らで、儀容は何も知らずに笑っていた。


 いじましいほど純朴で誠実であった儀容。その儀容ももういない。佑楽の関心を引き留めるすべを、貴沙はもう持ち得なかった。


 貴沙は大きな姿見に映る自分の姿をじっと凝視つめた。

 豊かな黒髪を背に流し、胸元に翡翠の首飾りを飾った中年の女が、不安と恐怖に青ざめてこちらを向いている。


 貴沙は指に嵌めていた翡翠の指輪を、絹の布に包んで引き出しにしまった。喪に服する女に、指輪はあまりに人目を憚ると思ったからだ。

 もし自分の身に何かあれば、この指輪と首飾りを共に墳墓に入れてくれるよう、腹心の乃而(のに)には随分前から頼んでいた。

 長年自分に仕えてきた乃而ならば、この願いを違わずに叶えてくれるだろう。


 貴沙はゆっくりと卓子の杯を手に取った。鼻を突くにおいに顔を背けそうになり、貴沙は息を止めて口元まで杯を運んだ。

 この後すぐに自分を襲うであろう苦悶への恐怖に大きく身を震わせ、貴沙はそのまま一気に杯を傾けた。




 その異変を見つけたのは、夜酒を持って宗妃の居室を訪れた側付きの官女だった。


「た、大変でございます!」


 骸に清めを施し、兄の覇麝(はじゃ)と共に控えの間で身を休めていた司凉は、悲鳴を上げて飛び込んできた官女の激しい取り乱しように、一瞬、鬼の出没を覚悟した。


「そ、宗妃さまが…!」

 そのまま口もきけずに床に座り込む女をその場に残し、覇麝と司凉はすぐさま宗妃の部屋へと向かった。


「兄上はここで…!」

 

 新宗主として立つ覇麝の安全だけは、何があっても確保されなければならない。

 司凉は護人と共に覇麝を戸口に残し、破邪の剣を顕現させながら、一気に部屋に踏み入った。


 最初に気付いたのは、微かに鼻を突くすえた血の匂いだった。整然さを好んだ宗妃らしからぬ乱れた室内、そして藻のように床に広がる長い黒髪。


「母上…?」


 苦悶にかっと見開かれた双眸が、怨めしげに司凉を見つめていた。

 唇からは血の混じった黒い泡が垂れ、掻き毟った喉元にはいく筋もの爪跡がついている。


燦毒さんどくか」

 砕け散った玻璃杯に残る液の匂いを嗅ぎ、司凉は低く呟いた。これは間違って飲めるような代物ではない。

 おそらく宗妃は覚悟のうえで、この杯を飲み干したのだろう。


「司凉?」

 室内の不吉なまでの静けさに、異形などは出ていないとふんだのだろう。覇麝がおそるおそる室内に入って来た。


「これは…」

 片膝をついて屈み込む司凉の背中越しに、苦悶の形相で息絶えた母の骸を認めた覇麝は、そのまま崩れるようにへなへなと床に座り込んだ。


「ぐっ…!」

 何度となく修羅場をくぐってきた司凉と違い、覇麝は穢れそのものにほとんど触れていない。

 悪鬼のごとき母の形相にすっかり気を呑まれ、覇麝は部屋の隅に這いずっていくと、顔を紙のように白くして、その場にげえげえと吐き始めた。


 司凉は念のために宗妃の脈を確かめ、それからその見開かれた瞼をそっと閉ざしてやる。

「父上の後を追って、自害されたようです」

 そして懐から取り出した布で、母の口元に残る血の混じった泡を拭い取ってやった。

 親族や仕え人らが集まって来る前に、せめてもの体裁を整えてやりたかったからだ。


「兄上、人を呼んで参ります。よろしいですか?」

 静かに尋ねかけると、部屋の隅で蹲っていた覇麝はのろのろと顔を上げ、ようやく夢から覚めたように司凉を見上げた。

「あ、ああ…」


 引き千切れ、床に飛んだ翡翠の首飾りが、ふと司凉の目を引いた。

 飾りには赤黒い血泡がついていた。余りの苦しさに、宗妃が無意識に引き千切ったものであろう。

 それを拾い上げようとして、ふと司凉の手が止まった。母が殊の外大切にしていたそれは、佑楽が贈ったものではないかと、秘かに疑念を覚えていたからだ。


 拾ったそれを丁寧に卓子に置き、司凉はそっと部屋を出た。扉を閉める前、、吠えるような兄の号泣が耳を突いた。

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