愛依は、真実を知らされる
その日以来、翔士は時折、妃咲の姿を目にするようになった。
実際は今まで翔士が気に留めなかっただけで、妃咲はずっと六茫宮の奥でひっそりと生を繋いでいたのだろう。
他の依人とは一切関わらず、妃咲は毎日死んだ祝主の姿ばかり捜し回っていた。
そんな姿を見るに見かねて、翔士は時折妃咲に話しかけるようになったが、狂った妃咲は何を問われても、室兄はどこ、と繰り返すばかりだ。
そんな翔士の姿はある意味、御所の人目を引いてしまったのか、ある日、緋沙に、「あの女が好きなの?」と真正面から尋ねられてしまった。
翔士としては、苦笑いを漏らすしかない。
「お前、何の冗談を言ってんの?」
緋沙には、祝主を慕う愛依の気持ちなどわからない。
愛依という存在があることさえ、只人には知らされていないのだから。
「あの人は同胞だ。それ以上の感情がある訳がない」
だから、緋沙が納得する答えを返してやることは不可能だった。
たとえどんなにこの幼馴染を可愛く大切に思っていたとしても、つまるところ、只人と依人は相いれない。
「放っておきなよ」
それ以上の弁明をしようとしない翔士に焦れてか、緋沙は必死の形相で言い募った。
「変なやきもちで言ってるんじゃないのよ。私、聞いたの。あの人が何をしたか、どうしてあの人が狂ってしまったか」
「しっ、黙って」
思わず緋沙の口を指で塞いだのは、緋沙が話題にしていた当の本人が、ふらふらとこちらへ歩いてやって来たからだ。
きれいな面立ちをしているのに、正気を失った表情はどこか線が崩れていて、妙な薄気味悪さを見る者に与えてしまう。
盛り上がった木の根に躓いてよろめいた妃咲の体を、翔士は咄嗟に腕で抱きとめた。思いもかけぬ蘭麝の香が翔士の鼻をくすぐり、翔士は驚いてその細いうなじを見下ろす。
と、翔士の腕にかけた白い手がふと頬の方に伸ばされて、妃咲はまるで夢から覚めたように艶やかな笑みを浮かべて翔士に薄く笑い掛けた。
「室兄……」
その声音にこもる狂気に翔士が思わず肌を粟立たせた時、すぐにその視線は翔士から外され、すぐ後ろにいた緋沙へと向けられた。
一瞬、憎悪とも紛う強い光が妃咲の目に宿り、その視線から緋沙を庇うように翔士が一歩踏み出した時、その輝きは眼から消え失せて、妃咲は再び自分の狂気に閉じこもってしまった。
「翔士…」
気付けば緋沙が怯え切った表情で翔士の腕を掴んでいた。
「緋沙、大丈夫か」
「怖い、あの人…」
よろめきながら遠ざかるその姿を目で追いながら、緋沙はか細い声でそう呟く。
「あの人に近付かないで、翔士。殺されてしまうわ」
「俺が?」
翔士は思わず笑った。
妃咲がどれだけ技に優れた依人だったかは知らないが、狂った依人が放つ技など高が知れている。
「お前、心配のし過ぎだ。何を聞いてきたかは知らないけど」
「あの人、同胞を殺したのよ!室兄さまっていう宗家筋の依人。翔士、聞いた事ないの?」
「え…………」
一瞬自分が何を耳にしたか、翔士にはわからなかった。
妃咲ガ、室兄ヲ…自分ノ祝主ヲ殺シタ……?
「呪陣を封じた禊を引き抜いて、室兄さまを鬼に襲わせたの。惨いご最期だったって聞いたわ。
鬼に手足を食い千切られ、内臓を引きずり出されて、血肉の塊しか残っていなかったって。
そのそばで、あの人は気配を隠してじっとその様子を眺めていたんですって。助けようともせず、助けを呼びに行こうともせず、仲間の死にざまを笑いながら眺めていたの」
それからどうやって緋沙と別れ、六茫宮に帰りついたか、翔士はよく覚えていない。
春華宮に戻って闇雲に司凉の姿を捜し回ったが、司凉の姿はどこにもなかった。
仕え女に聞くと、本殿からの急な呼び出しがあり、父宗主の元へ向かったという。
「会いたいな…」
日の翳り始めた門に凭れかかって、翔士はそっとそう呟く。つい今朝方司凉に会ったばかりなのに、無性に会いたくて堪らなかった。
愛依が祝主を殺すなどという非道が、本当にあって許されるのだろうか。
緋沙の聞き間違いであればいいと、翔士は切に願った。そんな悍ましい事実を、翔士は決して認めたくなかった。
「何、気分でも悪いの?」
不意に後ろから肩を叩かれ、翔士は青ざめた面をのろのろと上げた。
「架耶」
心配そうに自分を覗き込んでくる架耶の顔を認めた瞬間、不覚にも涙が滲みそうになった。
「どうしたのよ。司凉がいないのがそんなに寂しい?」
「そんなんじゃ」
小さな声で否定する翔士に、架耶は優しく笑った。
「仕方ないわねえ。司凉、今日はきっと泊りになるわよ」
「そうなの?」
「ええ、本殿で障りがあたみたいね。佑楽も呼ばれているわ」
言葉を濁してはいるが、とどのつまり、儀容の容態が思わしくないという事なのだろう。
つい一月前までは、宗主の体の不調は隠そうと思えばまだ隠せる程度のものだった。
それがついには閣議に出る事さえままならなくなり、いつしか宮内殿でその姿を拝謁する事さえなくなっている。
悪しき事態を恐れる宮人らの間にあって、司凉は一切の動揺を翔士に見せる事がなかった。
お前が案じる事じゃないと言い切られて、司凉の前でその話題を口にする事さえ、今の翔士には憚られている。
「ねえ、架耶。一つ聞きたいんだけど」
その寂しさを飲み込んで、躊躇うように口を開く翔士の元気のない横顔を、架耶は穏やかに覗き込んだ。
「何?」
「室兄っていう依人を殺したの、誰?」
その瞬間、架耶の顔からすっと笑顔が消えた。
「妃咲、なの?妃咲が室兄を殺したの…?」
畳みかける翔士に、架耶は掠れた声で問い質した。
「……誰に聞いたの?」
「言えない……。でも、本当の事なんだね」
「…………」
否定しない事がその答えだった。翔士は黙って唇を噛みしめる。
「どうして…?妃咲は祝主を愛していなかったの?」
「違うわ…」
ようやく架耶は震える声でそう答えた。
「妃咲は愛し過ぎたの。狂う程に祝主を愛し過ぎてしまったの」
事の始まりは、室兄が恋人の一人として愛依をいとおしんだことだった。もっともこれは、祝主と愛依という関係において、特別おかしいことではない。
両者の絆の深さは血を分けた肉親にも勝り、気を交換し、血を分け合ううちに一線を越えてしまう事は、彼らにとってごく自然な成り行きといえた。
そしてそれは決して激しい執着や妬心を覚えさせるものではなく、永い生を共に歩んでいく番としての愛情を、互いに優しく育んでいくのが常だった。
だが、こと妃咲の場合、そうした関係はついに成り立たなかった。
妃咲は精悍な面立ちの祝主に身も心も奪われ、室兄が他の女性に目を向けるのを決して許そうとしなかった。
転生の度に自分への執着を深めていく愛依を、室兄は心底扱い兼ねたのであろう。
次第に妃咲と距離を置くようになり、それは室兄を、殊更放埓な女性関係へとのめり込ませていく結果となった。
結局妃咲は、室兄の不実に苦しみぬいた末に命を絶ち、その時の怨みと憎悪を記憶に残したまま、また魂返りしてしまった。
そして妃咲は次の転生で室兄を呪陣に呼び出し、その前で室兄の肌を刃で切り裂いた。そして気断ちできなくなった祝主をわざと鬼に襲わせ、残虐極まりないやり方で死に追いやったのだ。
「室兄はそんな妃咲を最後まで見捨てる事ができなかったの」
傷を覆うかさぶたを一つ一つ剥がすように、架耶は静かに言葉を続けた。
「宮が室兄の最後の思念を感じ取っていらして、死の間際まで室兄は妃咲の事を案じていたと。
自分を殺そうとする愛依を誰よりも哀れんで、宮に助命を願っていたって。
その死に様に、私たち皆は一様に言葉を失ったのだけど、中でも与名の儀を間近に控えた司凉の動揺は大きくてね。
愛依の誕生を楽しみにしていた筈なのに、魂を繋ぐ愛依など金輪際欲しくないと、真剣に宮に願い出るほどだったわ。
あの頃にはもう司凉の美貌は宮中の話題になっていて、司凉自身も来る者は拒まずとばかりに、放埓な生活を楽しんでいたわけ。
束縛はもちろん、干渉されるのも真っ平御免。
そんな司凉に、我が物顔で恋人を気取る愛依が現れたらどうなるか、翔士にもだいたい想像がつくでしょう?
司凉が愛依を持つことに不安を覚えたのは、何も本人ばかりじゃなかった。他の依人や、愛依の存在を知る父宗主さまや兄君たちがこぞって懸念を口にされてね。
でも司凉には、絶対に愛依が必要だと宮が断言された。
本来なら、宮の隠れはこれほど早くなかった筈なの。
司凉の愛依の成長を待って、一度魂返りさせた後にお隠れになる予定だったと聞くわ。
けれど、あの凶事のせいで気をごっそりと削り取られた宮には、もう時間がなかった。
司凉の愛依を胎魂に植え付けるか、あるいは隠れを数年遅らせるか、どちらかの選択しかなくなってしまった宮は、新しい愛依を生み出すことを迷いなく選ばれた。
自分が隠れて後、封じの要になるのは司凉だから、司凉には絶対愛依が必要だと宮は断言されたの。
それで佑楽が司凉に、男児の胎魂を勧めた訳。
強い同胞意識を持ち、けれど狂疾的な執着で司凉を決して束縛しないようにって。
祝主と同一の性を持つ愛依なんて、不見始まって以来だった。だからどうなることかと、皆案じていたのだけれど。
でも、何も心配はいらなかったわ。
何より一番意外だったのは、そうして与えられた愛依を司凉が本気でかわいがり始めたことよね」
架耶の穏やかな眼差しに、翔士はほんのちょっぴり複雑そうな顔をする。
「確かに可愛がってもらってるけど、架耶の佑楽に比べると、温度差がだいぶある気がする」
それでも翔士には、佑楽のように穏やかで優しい司凉など想像できない。
どこか冷ややかで傲慢な、力に溢れた司凉が、翔士は誰よりも好きだった。
「司凉に会いたいな」
ぽつんと呟く翔士の頭を、架耶は優しく引き寄せた。
妃咲の事を聞かされて不安定になっている翔士の心が、痛いほどに分かるからだろう。
「そうね。きっと明日には帰ってくるわ」
だが結局、架耶のその言葉が実現することはなかった。
その晩のうちに、宗主儀容崩御の報せが、御所にもたらされたのである。