愛依は、狂った同胞に出会う
一方、すれ違った官女の顔にどこか覚えを感じていた佑楽は、回廊で翔士の顔を見た途端、その官女が誰であったかを思い出した。
「さっきの官女、泉恕にいた子だね。名を確か、緋沙とか言った…」
「よく覚えているね」
翔士はびっくりして佑楽を見上げた。
守役の三人ならともかく、たまにしか泉恕を訪れない佑楽が、まさか覚えているとは思わなかった。
「あの子だけは忘れられないよ。お前が池に落ちただとか、階段から転げ落ちてるだとか、たんびに泣きながら架耶を呼びに来たからなあ」
「………………」
昔の話を蒸し返されると、翔士はどうにも分が悪い。居心地悪そうに瞳を逸らせる翔士を見て佑楽は笑い、昔を懐かしむように瞳を細めた。
「官女の服が似合っていたよ。どこの官舎に勤めているって?」
「ああ、宗妃付きだって」
その言葉に、一瞬佑楽の顔が翳った。
「どうかした?」
「いや」
佑楽は答えをはぐらかすように首を振った。
「それにしてもきれいになったな。泉恕の頃はほんの子供だったけど」
「だろ?」
自慢そうに返した翔士だが、急に何かを思い付いたように盛大に顔を顰めた。
「あっ、じゃあ、司凉にも目をつけられる?あいつ女癖悪いし」
佑楽は噴き出した。
「大丈夫、あいつは自分から声を掛けるような真似はしないし…。
いや、そうじゃなくて、何?
翔士はあの子が好きなわけ?」
一応これだけは確かめておこうと尋ねると、
「違うよ」
あっさりと翔士は否定した。
「あいつ、俺にとっては妹みたいなもんだもん。緋沙の方は、俺の方こそ弟だって思ってるかもしんないけどさ」
「符をやってただろ?」
「あっ、見てたんだ。
うん、一枚だけ好きな奴に渡していいって司凉が言ってたから、緋沙にやった」
佑楽は首を傾げた。
「好きな奴って、普通は初恋の相手とかを言うんじゃないのか?」
「そうなの?」
佑楽の言葉に翔士は目を丸くする。
「でも、依人って長命なわけだし、長い人生に好きな女なんて山ほど出てくるから、友人にやればいいって司凉は言ってたぞ」
「…………何か司凉にお前の教育を任せるの、だんだん不安になってきた」
我が甥ながら、司凉の手の早さはよく知っている佑楽である。まあ、あれは天性のものだから、翔士が必ずしも祝主に似るとは限らないのだが。
「じゃあ佑楽って、好きな子に符をあげたわけ?」
手痛いところを突かれて、佑楽は一瞬絶句した。
「それは………」
興味津々で瞳を輝かせてくる翔士に、佑楽の腰は完全に引けた。
「あ……、昔のことは忘れた」
「ああっずるい!」
何と言われようが話すつもりはない。知られるとかなりまずい相手だ。
どうやって翔士をごまかそうと佑楽が頭をひねった時、不意に覚えのある波動が佑楽の体を襲った。
「あ………」
体の一部がもぎ取られるよな、眩暈にも似た失墜の感覚。
佑楽は僅かに身を震わせ、吐息を噛み殺した。
「佑楽?」
驚いたように翔士が問い掛けるのへ、
「……式の雀が殺された」
佑楽は厳しい顔でそう答えた。
それもそう遠くではない。御所のこんな近くで邪念が生み出されたという事なのだろうか。
「異形の可能性がある。……来るか?」
一瞬言葉を躊躇ったのは、翔士の安全を考えたためだ。
技もまだ未熟であり、魂返りも済んでいない愛依を軽々しく封じには連れて行けない。
「行くよ、俺」
二つ返事で頷く翔士に、佑楽は真剣な声で言った。
「いざとなったら、気配を隠せ。お前、傷はないな」
「ない!」
そのまま二人は走り出した。
結界が壊れた気配はなかった。力の弱い餓鬼程度なら、翔士に倒させてやってもいい。
だが、そんな佑楽の思惑を裏切り、式が消えた場所に異形の姿は見当たらなかった。
そこに邪気が存在していたという気配すらなく、一人の女性が呆けた表情で、木立の間から見える空をぼんやりと見上げている。
「妃咲…」
苦り切った声で佑楽が呟いた。
哀れみとも困惑ともつかぬその表情に、翔士は以前にもこの女性を見た事があったのを思い出した。
いつだったか佑楽から技の訓練を受けていた時、放った神気の前にいきなりこの女性が飛び出してきたのだ。
間一髪、佑楽が術を無効化してくれて、翔士は人殺しにならずに済んだのだが、一歩間違えばその女性は風に全身を切り刻まれていたことだろう。
その無謀な行為を怒鳴りつけようとして、相手に目をやった佑楽は、すぐに何とも言えない表情で押し黙った。
佑楽らしからぬ苦々しい舌打ちを漏らしていたのを、翔士はぼんやりと覚えている。
「室兄はどこ?」
立ち竦む二人に、妃咲という名の女性は、うつろな声で問いかけた。
死んだ同胞の名を呟く女性に翔士は戸惑い、黙って佑楽の顔を仰いだ。
「あいつはいない」
佑楽の答えに、妃咲は全く反応しなかった。
ぼんやりと佑楽の向こうに目を凝らし、今はいない男の姿を探そうとするように、再び木立の中へ分け入っていく。
翔士はぞっと、佑楽の袍の袖を握りしめた。妃咲は狂っている。闇に絡みつくような狂疾の魂を、翔士は妃咲の周辺に嗅ぎ取った。
「あの人が異形を呼び寄せたんだね」
闇をいざなう狂気は呪いのように異形を生み出すことがある。
だが、翔士の言葉を佑楽は即座に否定した。
「違う、異形じゃない」
「え?でも只人に式は殺れないよ」
「翔士、あいつは依人だ。俺の式を殺ったのはおそらくあいつだろう」
翔士は呆然と目を見開いた。
清冽な真霊をあの人からは微塵も感じ取れなかった。
元々は神気に優れていた筈のあの女は、狂った頭で何を考え、何のために同胞の式を殺してしまったのだろうか。
式を殺せば、その作り手である依人が血相を変えて駆け付けてくるのはわかっている筈なのに。
だから、だろうか。
翔士は心の中で自問する。妃咲はさっき、死んだ依人の名を呼んでいた。
「室兄って依人はあの人の…?」
「祝主だ」
どくんと翔士の胸が鳴った。
ではあの人はずっと、死んだ祝主を探し続けているのだ。
長く緩慢に時を刻むこの現世に一人残されて、妃咲がどれほどの悲嘆と慟哭を噛みしめて生きてきたか、翔士にはそのやり場のない苦しみが手に取るように分かる気がした。
もし自分が司凉を失えば、同じように自分も狂ってしまうだろう。
司凉さえいれば、他の誰を失っても生きていけるが、司凉が死ぬことだけには耐えられない。
「妃咲、可哀そうだ」
呻くような翔士の呟きに、佑楽は何も答えなかった。
室兄と妃咲の関係はそんな単純なものではなく、秘された事実を翔士に教えてやるべきかとも思ったが、佑楽にはそれもどこか躊躇われた。
佑楽はただ強張った顔で立ち尽くし、妃咲の消えた辺りをじっと見つめていた。