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愛依は、幼馴染に再会する

「大丈夫かなあ、あいつ」


 妓撫(きぶ)と一緒に、妙にふわふわとした足取りで帰って行く翔士(しょうし)を見送りながら、佑楽(うらく)が笑いを堪えた声で呟いた。


「さあね」

「さあって、お前」


 架耶(かや)は後ろから抱きこまれた形で佑楽の腕の中にいる。

 胸元に差し込まれた佑楽の手を止めようとするでもなく、架耶はそのまま顔を上げて自分から佑楽の首すじにそっと口づけた。


 佑楽が欲しがれば、決して架耶は拒まない。ずっとそういう関係だった。

 恋人というよりももっと深い親密さを囲い、けれど決して執着を重ねることはない。


 架耶が佑楽の愛依ういとして初めて覚醒した時、佑楽は許されざる想いを断ち切ろうと、一人苦しんでいた。

 まだ十の子どもには、その頃の佑楽が抱える闇などまるでわからなかったが、魂を分かつ祝主(はふりぬし)が何かに苦しんでいることにだけは気付いていた。


 お前がいてくれて良かったと、抱き込まれた大きな腕の中で、よくそんな風に囁かれた。


 今思えば、その頃すでに佑楽の想う相手は嫁していて、佑楽は必死に未練を断ち切ろうとしていたのだと思う。

 思い切ろうとしても恋情は膨れ上がるばかりで、佑楽自身疲れ果てており、そんな時に引き合わされたのが、親元から無理やり宗家に引き取られ、泣きべそをかいていた小さな愛依だった。


 愛情を傾けるべき相手を見つけた佑楽は、幼い愛依を溺愛した。

 祝主としての本能に従う事で、佑楽は無意識に救いのない恋から逃れようとし、愛依もまた、そうした祝主の心情を本能で嗅ぎ取ってそれに応えようとしていたように思う。


 あの頃の佑楽は本当に危うい感じだった。

 だから二年後に魂返(たまがえ)りが決まった時には、この祝主を現世うつしよに一人残して逝っていいものかと、幼い愛依の方が本気で行く末を心配したほどだ。


 まあ結論から言うと、あの時の魂返りは正解だった。

 当時、相手の女性は二十四、五のまさに女盛りであったのだが、可愛がっていた愛依をなくした喪失感が余りに大きすぎて、佑楽は恋どころではなくなったのである。


 魂返たまがえりの先を知らされていた佑楽は、商家に生まれた架耶の姿を遠目にこっそりと眺めては、早く育たないかなと待っていたそうである。

 祝主はふりぬしにとって愛依は特別な存在であるから、こうした覗き見をする祝主は結構多いらしいのだが、初めてそれを聞かされた時、架耶は引いた(佑楽にはもちろん言っていない。知ったら、穴を掘って落ち込みそうな気がする)。

 

 こうして佑楽は行き場のない想いから解き放たれ、それは大変めでたいことであったのだが、そもそも恋というものは相手がいてこそ成立するものだ。

 そしてそのかつての想い人というのが、佑楽にとってなかなかに厄介な相手だった。

 


「それで今日はどうだったの?」

 静かな架耶の問いかけに、胸元を探っていた佑楽の手がふと止まった。

「どう、とは?」

儀容(ぎよう)さまのご容態、かなりお悪いの?」


 佑楽は疲れたように吐息をつくと、架耶の胸から手を抜いた。そしてそのまま頭を傾け、架耶の細い肩に顔を埋めた。

「弟には会わなかった」


「会わなかった?でも、呼び出されたんでしょう?」

「ああ、宗妃にな」

 含みのある佑楽の言葉に架耶は押し黙った。



 事あるごとに、佑楽を危険な任務から遠ざけようとする宗妃、貴沙(きさ)

 その女性こそが三十余年前、佑楽が身を裂かれる思いで恋を封じた当の相手でもあった。


 貴沙が儀容の妃として立后した日の輝くばかりの美しさは、今でも()の都の伝説になっている。

 不見(みず)の国一の美姫とうたわれた貴沙の美貌は言葉に尽くせるものではなく、まさにこの世ならざるまったき美であったのだ。


 当時、多くの求婚者が貴沙の前に膝を折ったが、結局貴沙は次期宗主である儀容の手を選んだ。


 最後まで心を決めかねていた貴沙に、弟と結婚するよう強く勧めたのは佑楽らしかった。

 弟はずっと貴沙に恋い焦がれていたし、貴沙にとっても儀容は申し分ない相手だと思ったんだと、佑楽はいつか寂しそうに教えてくれた。


 架耶が今の器を得て初めて宗妃と会った時、宗妃はすでに三十半ばを超えていた。

 それでもまだ美しさには露ほどの陰りはなく、宗主との間に四人の子を産んでなお、貴沙は狂うように佑楽に恋をしていた。


 何気なく佑楽の傍らにいた自分に向けられた刺すように鋭い貴沙の眼差しを、架耶は今でも鮮明に覚えている。

 情念と妬心を垣間見せるその双眸のおどろおどろしさに、架耶は一瞬、全身がそそけ立つ思いがした。



「それで?」

 聞かずともおよそ答えはわかっていたが、架耶は敢えて佑楽に問い掛けた。その荷を一人で背負うのは、余りに残酷に思えたからだ。


 佑楽は疲れ切ったように首を振った。

「儀容の事を一度も愛したことはなかったと言われた。俺が望んだから、あの婚姻を受け入れたのだと」

「そう…」


 だとすれば、宗妃はついにあの恋を諦めきれなかったのだ。

 無理もないことなのかもしれない。佑楽は醜く老いさらばえることはない。貴沙が恋した若く精悍な姿のままで、今もこうして生きている。


 褪せることのない恋が、只人である貴沙にとってどれほど重く、苦しいものであったのか、架耶は想像するしかない。

 義妹という立場を利用して、宗妃は何度も佑楽を御所に呼びつけた。

 政治に巻き込まれまいとする佑楽に、病弱な宗主の相談役になって欲しいと頼み込み、宗主の口を通じて格付けにまで圧力をかけて、佑楽を危険な任務に行かせまいとした。


 そのことに困惑を感じて佑楽が遠ざかろうとすればするほど、宗妃は行き場のない恋慕を募らせた。

 ここ数年はもう泥沼だった。今までその言葉を聞かなかった事の方がむしろ、稀有な事であったのかもしれない。


「貴方は何と答えたの?」

 架耶の問いに、佑楽は薄く唇を歪ませた。


「そんな言葉は聞きたくないと言った。

 当たり前だろう。弟は今、死にかけているんだ。どうしてあいつを裏切るような真似ができる」


 白く骨が浮くほどに拳を握り締める佑楽の手を、架耶はそっと両手で包み込んだ。

「貴方はまだ、宗妃を愛しているのね」


「ああ、多分」

 喉に絡んだ声で佑楽は答えた。

「恋じゃない。貴沙との恋はもう、俺にとっては遠い過去のものだ。だが、あの想いだけは切り捨てられない。

 貴沙を嫌いになれたら、どんなに楽かと俺は思う」


「そうね」

 佑楽は、想い人が年を取り醜くなったからといって、手のひらを返すように相手を疎むようなことはしないだろう。

 そしてまた、一旦愛情を覚えたものに対しては、最後まで誠実な愛情を傾けようとする人間だった。


 不要なものを切り捨てて行く方がよほど楽な生き方なのに、佑楽にはそれができない。

 それが佑楽の弱さでもあり、一面、強さでもあると架耶は思っていた。


 架耶は佑楽の頭を抱いたまま、静かに尋ねた。

「佑楽は依人に生まれついたことを後悔してる?」


 依人(よりうど)でさえなければ、佑楽は今頃宗主だった。そして愛する女性を妃に迎え、子にも恵まれていた事だろう。


「いや」

 佑楽はきっぱりと否定した。

「俺は今の生活に満足している。依人で良かったと思っているよ」


 架耶は小さく頷いた。

 佑楽は過去に留まるような男ではない。それが宗妃にはわからないのだ。

 だから狂ったように過去の恋にしがみつく。五十を過ぎた女が若い依人に執着するその滑稽さに、宗妃は微塵も気付かないのだ。


 架耶はふと、同じように真剣な目で幼い依人を見つめていた、一人の少女を思い出した。

 十になった翔士が宮中に引き取られる日、その子は人目も憚らず、目もつぶれるほどに泣きじゃくっていた。


 つい先日、宮中で見かけ、心に掛かりながらもどうしても思い出せなかった若い官女見習の顔が、ゆっくりと記憶のそれに重なっていく。


 あの子だ……!

 架耶はすっと瞳を細めた。


 名前は確か……、そう、緋沙(ひさ)と言った。

 あの子は多分、翔士を追って御所にやって来たのだ。官女にでもならなければ、おそらく翔士とは永遠に縁が切れてしまうから。


 だが、自分が選んだ道の険しさを、決して成就する事のない恋を追う悲しみを、幼いあの子はどれだけわかっているだろうか。


「依人なんか好きになっても、辛いばかりなのに…」


 幸せそうに笑っていた少女の顔が、架耶の脳裏をよぎって消える。

 やり切れないもどかしさに吐息を零す架耶の体を、佑楽もまた罪の重さに縛られる手で、しっかりと胸に抱き寄せた。




 宮の祝が日々薄まりゆく中、後の惨劇の萌芽となり得る出会いは、既に二人の間に用意されていた。


「翔士、翔士でしょう?」


 本殿を出ようとしたところで不意に名を呼ばれ、翔士は訝し気に後ろを振り返った。

「え……?緋沙?」


 振り返った先にいた懐かしい顔に、翔士は呆然とそう呟く。

 薄紅の唐衣を纏い、髪を結い上げた若い女官は、遠い泉恕(せんど)で穏やかに暮らしている筈の、翔士の幼馴染だった。


「何でここに?」


 元々大人びた顔立ちの緋沙だったが、流れた歳月のせいか、目元や唇に紅をさしているせいなのか、女官姿に全く違和感がない。

 おそらく間近ですれ違っても、翔士は全く気付かなかっただろう。

 目を丸くして自分を見つめてくる翔士に、緋沙は嬉しそうに笑い掛けた。


「なんでって、うちの親が、結婚の箔づけに四、五年くらいは御所で勤めてもいいって都に送り出してくれたの。

 先月までは本殿の側棟で勤めていたんだけど、宗妃の側付きの方が一人辞められる事になって、代わりに私が推挙されたって訳」


「宗妃付き?本殿の官女ってかなり厳しい査問があるって聞いていたけど」

「そうよ。何人もの方々に面通しさせられて、ようやく許されたの」


 得意そうに頬を上気させて報告する緋沙の顔を、翔士は徐々にこみ上げてきた嬉しさを隠さずに眺め下ろした。


 こんなところで泉恕の幼馴染と会えるなど、夢にも思っていなかった。

 ここでの暮らしに馴染むにつれ、幼い頃の記憶も徐々に薄らいでいき、ここ最近は思い出す事もなかったのだが、こうやって言葉を交わしていると、会えなかった歳月などまるで存在しなかったように思えてくるから不思議なものだ。


「緋沙が官女…ねえ。何だか今でも信じられないけど」

「私だって、颯爽と回廊を歩いている依人さまが翔士だと分かった時は、一瞬見間違えたかと思ったわ」


「おぅ、ちゃんとらしく見えるだろ?」

「見える、見える」


 楽しそうに手を叩いだ緋沙だったが、ふと立場を思い出し、辺りを憚るように声を落とした。

「あっここでは翔士さまって呼ばなきゃいけなかったんだよね」


 泉恕では対等に遊んでいたとはいえ、御所における翔士の身分は、宗家直属の依人である。

 本来なら官女風情が気軽に口を聞ける相手ではなく、慌てて辺りを見回す緋沙に、翔士は止めろよと嫌そうに顔を顰めた。


「二人きりの時は翔士でいいよ。緋沙に様づけで呼ばれたら、その方が気持ち悪いし」

「気持ち悪いって何よそれ」


 緋沙は笑いながら抗議した。


「でも、本当に良かった。

 御所に来たら、翔士にもすぐに会えるんじゃないかと思ってたけど、ちっとも会えなくて。

 このままずっと会えないのかと思ってた」


「文でもくれたら良かったんだ。そしたらすぐに会いに行ったのに」

「本当?」


 瞳を覗き込んでくる緋沙に、翔士はくすりと笑った。


「当たり前だろ。

 それにしてもお前変わんないよな。見掛けはちゃんとした官女だけど、話をしたらまるでガキ」


 相変わらずの口の悪さに、緋沙は再会の感動も忘れてむっと唇を尖らせた。


「失礼ね!翔士だって全然変わってないじゃないの。あ…っと少しは背が伸びたのかな?」

「少しじゃないよ。俺は今、骨がきしむ勢いで伸びてんの。これからももっと伸びるからな」


「成長したのは背だけ?」

「な訳あるか。ちゃんと封じもやってるよ。…まあ、まだ一人前には程遠いけどさ」

 見栄を張っても仕方がないので、そこは正直に申告しておく。


「ってことは、相変わらず司凉さまに迷惑かけてるんだ」

 翔士は鼻の上に皺を作った。


「お前ね、そんな言い方はないだろ。俺はれっきとした依人なの。ちっとは俺を頼りにしろ」

「はいはい、翔士さま」

「何だよ、それ。その誠意のない言い方は」


 じゃれ合っていると、遠くから緋沙を呼ぶ、老いた女の声がした。

「あっ、乃而(のに)さまだ。行かなきゃ」


 慌てて緋沙が身を翻そうとするのへ、

「待てよ、緋沙。これをやるよ」

 袍のあわせから、翔士は一枚の符を取り出した。


「なぁに、これ?」

「俺が作った式」

 早口で囁くように翔士は言った。


「特殊な呪法を使ってあって、鬼が近付いた時だけ発動するんだ。

 誰にも言うなよ。本当は滅多なことで、人に上げちゃ駄目なんだ」


「そんな大事な物、私にくれるの?」


 まじまじと符を見つめる緋沙の肩を、翔士は強引に声の方へ押しやった。

 見習い風情が上の者を待たせる訳にはいかないだろうと思ったからだ。


「鬼に襲われそうになったら、それを投げろ。鬼は人より、まずこの式を襲うから。

 式が殺られれば、俺にもわかる。何があっても行ってやるよ」


 緋沙は何かを言い掛けたが、もう一度緋沙を呼ぶ甲高い声が聞こえて、今度こそ緋沙は声に向かって駆け出した。


「ありがと。これ、もらっとくね」

「おぅ」


 小走りに乃而さまの所へ向かう緋沙は、その時一人の依人とすれ違い、慌てて膝を折った。

 泉恕でも幾度かお顔を拝した佑楽さまだと気付いたのもつかの間、つかつかと歩み寄ってきた乃而の厳しい顔に、言葉すらも失ってしまう。


「あの、乃而さま…」

「あの子は確か、司凉さまが可愛がっておられる依人ですね」


 詰問するような口調に、緋沙ははいと首肯する。

 おそらく回廊から見られていたのだろうが、自分たちはただ言葉を交わしていただけで、咎められるようなことをした覚えはなかった。


「依人などに恋をしてはなりませんよ」

 思わぬ言葉を耳にして、緋沙は知らずに息を呑んだ。


「恋など……」

 何もかも見透かされているような眼差しが急に怖くなった。

「私はただ…」


「依人に結婚は許されていません」

 言葉を遮るように、乃而はぴしりと緋沙に言い切った。


「束の間、想いを交わす事はできても、年月が移ろう間に自分だけ老いていく現実を突きつけられるのは惨いものです」


 緋沙にではなく、まるで誰かに言い聞かせてでもいるような口ぶりだった。

 乃而さまはまさか佑楽様を、と一瞬緋沙は疑ったが、それにしては乃而の凍てついた眼差しに、恋の甘やかさは微塵も感じられなかった。


「心しておきます」


 従順に頭を下げると、その応えに満足したか、乃而はようやく表情を和らげた。

「いらっしゃい。宗妃さまがお呼びです」

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