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愛依(うい)は、今日も律儀に死にかける

「ったく、あの馬鹿が!」


掌から指にかけて走る細い傷跡を忌々しげに眺めやり、端正な面立ちの青年が怒り狂った口調で鬱憤を部屋にまき散らしていた。


 いつもは後ろ一つで括られている長い黒髪が今は無造作に背に流され、怒りを宿す薄茶の瞳は琥珀の輝きを増して、見るものに壮絶な色香を感じさせる。


「羽音虫を捕まえようとして階段から落ちただと?

 一体あいつはどこまで馬鹿をすれば気が済むんだ!」

 

 苛々と髪をかき上げる青年とは対照的に、質素な樫の卓子を挟んだ向かい側、背もたれのある椅子にゆったりと身を預ける年長の青年は、怒り狂う同胞はらからを横目に、蝶の羽のように薄い一片の香木をそっと白磁の香炉に立て掛けさせた。


 じっという小さな音と共に、仄かな紫煙と白檀の香が、やや手狭な室内にふんわりと広がっていく。


「そう怒るなよ、司凉しりょう。確かにやんちゃは過ぎるが、翔士しょうしだって好き好んで怪我をしている訳ではないだろう?」


 物柔らかく返された言葉に滲むあからさまな溺愛の響きに、卓子に置かれた茶器に伸ばそうとしていた司凉の手がぴたりと止まる。


 依人よりうどの中では一番年少の、あのきかん気の強いいたずらっ子を、皆が猫可愛がりに可愛がっていることは司凉とて知っているが、だからと言ってその一言で済ませられたら、一方的に迷惑を掛けられっぱなしの自分が到底浮かばれないと思う。


「鬼に食われかけて半死半生になったのが六年前の今頃。それから一年と経たない内に、熟柿を取ろうとして枝ごと落下。その次はため池に落ちて死にかける。

 

 その度にの都から呼びつけられて、怒るなという方が無理な話だろう?」


 伯父の佑楽うらくでさえ思わず見惚れるような怜悧な美貌に物騒な笑みを張り付かせ、司凉は冷ややかに吐き捨てる。


「全く……!赤子の頃はひ弱すぎて到底育たないと誰もが諦めかけていたのに、何をどう間違ったら、あんな落ち着きのない馬鹿に育つのか…!」


 本来なら不測の事態に備えて、宗家筋の司凉を守るべく生み出された命の筈だった。


 仲間内で愛依ういと呼びならわされるこれらの依人は、いずれも対となるべき祝主はふりぬしを宗家筋に持ち、己が血で祝主の命を贖う宿命を定められている。


 ところがこの愛依ばかりは、祝主である司凉の糧になるどころか、反対に死にかけては散々に司凉の手を煩わす、とんでもない出来損ないだった。


 産声を上げる力さえ持たずに生まれ落ち、祝主から与えられる血と生気によって、何とかここまで生き延びてきた翔士である。


 今回も駆け付けた時にすでに翔士の意識はなく、司凉がすぐさま破邪の刃で己の肌を切り裂いて、翔士の口元に溢れ出る血を流し込んだ。


 最初はむずかるように顔を背けようとした翔士だが、ひとたび祝主はふりぬしの血を口にすると、後はもう夢中だった。舌先で傷を舐めるように啜り、貪るように飲み下していく。


 そうして土気色だった肌に徐々に赤みが戻り、浅く速い呼吸がゆったりとした穏やかな寝息に変わる頃、翔士は司凉の腕の中でとろとろと微睡み始め、後には鬱憤混じりの説教をぶつける相手を失った司凉だけが、間抜けに取り残されたというわけだ。


「元気に育ったのはいい事だろう?宮がお隠れになっている今、あの子だけがお前の命綱なのだから」

 佑楽は低く通る声でそう諭すが、

 

「命綱…?俺には反対に生気を吸い取られているとしか思えないが」

 対する司凉の返答は、伯父に対するものとは思われぬほどに辛辣だ。


「そう言うな。翔士があれほど虚弱に生まれついたのも、やたら事故に遭いやすいのも、皆、宮の隠れに起因するものだ。

 お前が来るべき闇の時代に備えて、依人の核の一人として生まれついたように、な」


 悪鬼や屍人しびとの徘徊する不見みずの国において、唯一闇の呪陣を封印する力を持つ闇食やみはみの巫女は、二百年余に渡る長い生を全うし、今は若返りのための繭籠まゆごもり中だ。


 かくれと呼ばれるこの時期は、巫女宮の力が極端に弱まり、禍事まがごとが地に降り積もる。悪意はたやすく念となり、封印されていた闇でさえ、再び力を得て地を跋扈し始めるのだ。


 そもそも不見みず……という国名自体、見たくないという人々の願望から呼ばれ始め、いつの間にか定着した土地の名だ。


 肥沃な大地と天候に恵まれながら、負の念が溜まりやすく、人々の怨嗟が容易に異形や鬼を生み出してしまう、怨念の地、不見……。

 異形に出会いたくない、鬼を見たくないという思いを日々口に出すことによって、この地に住まう者達は災いを避けようとした。

 

 やがて、異形どもに蹂躙されるばかりだった人間を天が哀れんだか、不浄を薙ぐ力を持した者達が不見の地に現れ始める。

 宗家と名乗る一つの血筋にのみ生まれ落ちる、ヒトとは明らかに違うもの……。

 ゆっくりと年を老い、畢竟、長命である彼らは、不人あらずびととして畏れられ、やがては闇食みの巫女を頂点として、依人よりうどとしての確固たる地位を不見に築いていった。

  

 宗家の統べる不見は、その後も、日々異形との戦いだった。


 前線に身を置くがゆえに、次々と命を落としていく同胞を憐れんだ宮が、彼らの糧となる愛依ういを、鄙女の胎魂に植え付け始めたのが、宗家の統一から更に百年の後の事。


 ただし、生餌とも言うべき愛依の存在はあまりに外聞を憚ったため、その事実は今なお固く闇に秘されている。


 今から二十七年前、来るべき闇の時代を前にして、戦いの核としての生をこの世に叶った司凉は、魂の贄とも言うべき愛依が自分に与えられる日を、一日千秋の思いで待ち侘びていた。


 愛依の血は甘露のごとく美味であると年長の同胞から事ある毎に言われ続けてきたせいもあるが、何より司凉は、時の流れから取り残されたような己の生が、吐き気がするほど厭わしかったのである。


 愛依は祝主の(はふりぬし)の執着と庇護欲をかき立てる特殊な糧だと同胞達は言っていた。


 ……この世でたった一つ、自分の飢えを満たしてくれるという幼い愛依。

 それはきっと、退屈に凍てついた自分の日常を、僅かばかりでも紛らわせてくれるに違いない。


 だが、待ち侘び続けた愛依があれほど面倒で手の掛かるものだとは、司凉には想像だにつかぬ事だった。


「せめてあれが女ならば、もっと育ちやすかったか…?」


 眉間に皺を寄せたまま、司凉はそう呟く。

 赤子の頃はいつ死ぬかわからぬといった脆弱さで、祝主の気をやきもきさせていたくせに、一心地ついたとみるや、今度は元気が良すぎて怪我の絶えない状態だ。


「まあ、女の子ならば、これほど怪我も多くなかっただろうな」


 一方の佑楽は、杯に注がれた露鵬の茶に気をとられたまま、思いつくままに生返事する。

「仕方ないさ。愛依の性を男に決めたのはお前なのだし」


「……俺の記憶違いでなかったら、確か貴方も強硬に、男児の胎魂を俺に勧めた筈だが」


 一気に室温が下がったような冷ややかな物言いに、杯を傾けようとしていた佑楽が止まった。


 外見上は二、三歳しか年が違わないように見える二人だが、佑楽は司凉の父の兄であり、実際は三十近く年が離れている。


 そして同胞である前に司凉の近しい親族でもある佑楽は、司凉が成人して愛依を与えられる際、愛依は男児にするよう真剣に司凉に忠告した者の一人だった。


「まあ、なんだ。

 ……他の愛依はそうでもないんだが、翔士は特別やんちゃが過ぎるようだな」


 思わず視線を泳がせる佑楽に、司凉は白けた沈黙を投げて返す。


 例のあの事件の直後だったから、同胞の誰もが司凉に男児の胎魂を勧めてきた。


 確かに彼らの心配もわからぬではないが、もし別の祝主が自分と同じ状況だったとしても、必ずしも男児の胎魂を愛依に勧められなかった気がする。


 つまりそれほど皆の目には、自分が節操のない女好きに見えていたということなのだろうか。

 思い当たった考えに益々不機嫌となり、物騒なオーラを漂わせ始めた司凉に、佑楽の腰は完全に引けてしまった。


 と、そんな佑楽の苦境を救うかのように、ほとほとと扉を叩く音が響く。


 顔を覗かせたのは、翔士の守役の一人である架耶かやだった。


「司凉、翔士が目を覚ましたの。あなたがいなくて寂しがってるわ」


 部屋に入って来た架耶は、佑楽の姿を認めてぱっと顔を輝かせる。

 翔士が依人として覚醒して以来、ずっと泉恕に暮らす架耶にとって、祝主の佑楽が顔を見せてくれることほど嬉しい事はなかった。


 当たり前のように佑楽の傍らに寄り添う架耶を一瞥し、司凉は忌々し気に立ち上がる。

「わかった。すぐ行く」


 そのまま足早に部屋を出ていこうとする司凉の背に、架耶が笑みを含んだ声を投げかけた。

「あまり翔士を叱らないで。あの子なりに反省しているんだから」


 血筋的にはかなり劣るものの、佑楽の愛依である架耶は、司凉とは対等の口を利く。

 その声掛けに司凉はふと足を止め、鼻で笑うように肩越しに吐き捨てた。


「反省だと?あの馬鹿に反省できるだけの頭があると思うのか?」

 余りの言い草に絶句する架耶を残し、司凉はさっさと部屋から出ていく。


「荒れてるわねえ」

 音を立てて閉じられた扉を眺めやり、架耶は呆れたように首を竦めた。


「何? ずっとあんなに怒ってた訳?」

「って訳でもないんだが、ちょっとな」


「貴方なら、うまく司凉を宥めてくれてると思ったのに」

 不思議そうに首を傾げる架耶に返す言葉もない。


「ま、仕方ないわね。司凉は翔士のことだと、まるで我慢がきかなくなっちゃうから」


「きっと今頃は、間抜けだの阿呆だの、言われているんだろうな」


 その情景がたやすく思い浮かび、佑楽は緩い苦笑を頬に浮かべる。

 何せ司凉は翔士に対して容赦がない。しょんぼりと叱られた子犬のような目で、司凉を見上げている翔士の姿まで目に浮かぶようだ。


「でも結局、何をどう怒られたって、司凉さえ傍にいれば翔士は満足なのよね。


 ね、覚えてる? 司凉が宗家の慶事に縛られて、三か月も翔士の所に顔を見せなかった時のこと。

 翔士寂しがってとうとうご飯を食べなくなっちゃって、慌てた司凉がどうにか暇を作って翔士を怒りに来たじゃない?」


「そういや、そんなこともあったな」

 当時の騒ぎを思い出し、佑楽は思わず失笑した。


 実際、翔士ほど祝主の手を煩わせ、その分懐いて甘えまくっている愛依を佑楽は知らない。

 赤子の頃から、祝主の濃厚な血を乳代わりに含まされ、どの愛依よりも祝主に気を馴染ませている翔士だった。


 怜悧な美貌で宮の仕え女達との浮名を欲しいままにしている司凉の後ろを、まだよちよち歩きの翔士が必死に後追いする姿を初めて見た時、佑楽は腹を抱えて大笑いしたものだが、その筋金入りの懐き様は、十年たった今も全く変わらない。


 都に住まう司凉がたまに泉恕を訪れれば、翔士は目を輝かせて司凉に飛びついて行く。


 本来なら隠れを前にした宮の諫言を聞くまでもなく、器が十の年齢に達するまで、司凉は愛依に近づく気はなかった。


 魂の片割れである祝主が迂闊に器に近付けば、愛依は己が運命を知り、依人よりうどとして覚醒してしまう。

 少なくとも、認知の使者が泉恕を訪れるまで、司凉は遠目に姿を見に行く事すらしなかっただろう。


 だが、こと翔士の場合、そんな悠長な事を言っている暇は司凉にはなかった。

 半分死にかけで生まれてきた愛依を救うために、司凉は土気色の萎びた赤子の枕辺を自ら訪ねてやらねばならず、宗家はこの時点で、赤子を新たな依人として認知した。


 こうして、赤子でありながら晴れて依人としての名乗りを上げた翔士だが、まだろくに気の結界も張れぬ身であれば、同胞の庇護下に置かれるより他に、何のする事もなかった。


 ただ、まだ目の開かぬ赤子の頃より、祝主の気配だけは違えずに感じ取れるのであろう。

 つきっきりで乳を与える実母より、時折自分を訪れる司凉の温もりに翔士は顔を綻ばせ、滋養に富んだ母の乳より、指を裂いて与えられる司凉の血の方をより強く好んだ。


「べたべたと人に纏わりつかれるのが嫌いな司凉が、よく我慢したものだよな。

 愛依が生まれても絶対に可愛がらないと俺は踏んでいたのに」


「取り巻きになろうとする者には、容赦がなかったものね」

 佑楽の言葉に架耶はおかしそうに笑う。

「きれいな顔をしているくせに、どこか物騒なんだから、司凉は」


 架耶自身、その物騒な男と一時期付き合ったことがある。だが、三か月ともたなかった。

 女が蜜のように群がってくる上、平然と据え膳に手を付ける司凉の無節操さに、早々に嫌気がさしたからである。


 さっぱりした気性の架耶だからこそ、その後何の蟠りもなく同胞付き合いができているが、これが情のこわい女なら絶対に一悶着あった事だろう。


「司凉が愛依を同性に決めたのは正解よ。女だったら、絶対に室兄の二の舞になっているから」

「……!」

 

 軽口では聞き流せないその言葉に、架耶の髪を優しく梳いていた佑楽の手が強張った。

「室兄のことは……、言うな」


 ひやりとさせるその口調に、架耶は思わず唇を噛みしめる。


 その死から十年以上が経過して尚、室兄の名は依人達の間で禁句になっていた。

 そのことを忘れていた訳では決してない。ただ、その事実から頑なに目を逸らそうとする祝主達の歪んだ庇護欲に、やりきれなさを覚えるだけだ。


「ごめんなさい」


 祝主らに愛依は殺せない。それははなからわかっていた事だ。

 だから罪を犯した妃咲は未だに生かされている。情に縛られることを嫌う司凉でさえ、妃咲には哀れを覚えていた。


 瞳を伏せて項垂れる架耶をそっと抱きしめ、佑楽はいいさと低く呟く。


 その温かな胸に顔を埋め、架耶は一人、自分が愛依であることの幸せをひっそりと胸に噛み締める。

 その掛け替えのない絆を自ら断ち切ってしまった妃咲に、痛いほどの哀しみと嫌悪を覚えながら。


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