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スローライフの理想と、容赦なき現実

「……おい、話が違うぞ、女神」


俺――元・社畜システムエンジニアの佐藤カズト(29歳)は、見渡す限りの大自然の中で、ぽつりと呟いた。

目の前に広がるのは、抜けるような青空と、どこまでも続く緑の草原。空気は澄み渡り、都会の排気ガスとは無縁の、まさに「異世界」といった風情である。

トラックに跳ねられて死んだはずの俺は、真っ白な空間で出会った女神にこう言われたのだ。

『あなたは前世で働きすぎました。次の人生は、のどかな異世界で、自分の好きなようにスローライフを楽しんでくださいね』

その言葉に、俺は涙を流して喜んだ。毎日終電、休日出勤当たり前、デスマーチの底で心をすり減らした日々よ、さらば!

女神は慈悲深く微笑み、俺に【鑑定】と【無限収納アイテムボックス】という、異世界転生スターターセットのような定番スキルを授けてくれた。さらに、生活の拠点として、川の近くにある小さな木造小屋まで用意してくれた。

これだけ揃っていれば、誰もが確信するだろう。

「勝ち組スローライフの始まりだ!」と。

だが、転生してわずか3時間。

俺は早くも、この「スローライフ」という言葉の持つ、恐るべき罠に気づき始めていた。

「……腹が、減った」

ぐぅ、と情けない音を立てる腹をさする。

現在の時刻は、太陽の位置からして午後2時過ぎといったところか。最後に食事をしたのは、転生前の世界で食べた、深夜のコンビニおにぎりだ。

スローライフといえば、まずは自給自足。

俺はさっそく、用意された小屋の周りを探索してみることにした。

幸い、歩いて数分のところに透明度の高い綺麗な川が流れている。川魚でも獲れれば、ひとまずは御馳走だ。

「よし、【鑑定】」

川の中を覗き込み、泳いでいる魚っぽいやつにスキルを使ってみる。脳内に直接、ステータスが表示された。


> **【ブラック・ニードル・フィッシュ】**

> 危険度:F

> 特徴:非常に攻撃的。危険を感じると、時速100キロを超える速度で水面から飛び出し、相手を突き刺す。肉は

美味だが、解毒処理が必要。


「……パスで」

時速100キロの魚形弾丸なんて、釣り竿も網もない素人が捕まえられるわけがない。しかも毒持ちかよ。

気を取り直して、今度は森の入り口付近を探索する。

茂みの奥に、真っ赤に熟した美味しそうなイチゴに似た果実を見つけた。

「これならいけるか? 【鑑定】」


> **【爆破イチゴ(ブラスト・ベリー)】**

> 危険度:E

> 特徴:わずかな振動で大爆発を起こす果実。衝撃を与えると周囲1メートルを吹き飛ばす。味は非常に酸っぱい。


「……スローライフって何だっけ?」

一歩間違えれば、果物狩りで四肢が消し飛ぶところだった。冷や汗が背中を伝う。

この世界の自然は、お優しく人間に恵みを与えてくれるような代物ではなかった。牙を剥き出しにした、弱肉強食のガチな野生だ。

結局、俺が数時間の探索で手に入れられたのは、鑑定の結果「可食(ただし非常に渋い)」と出た、見た目も最悪な灰色のキノコが3つだけだった。

「しょうがない、一度小屋に戻って火でも起こすか……って、待てよ」

俺は重大な事実に気がつき、愕然とした。

「火、どうやって起こすんだ?」

アイテムボックスを開いてみるが、中に入っているのは女神がくれた「お着替えセット(布の服)」と、護身用の「鉄の短剣」だけ。

マッチもライターもない。もちろん、コンロも電子レンジもない。

「火打ち石? いや、そこらの石を叩きつければ火が出るのか? そもそも薪は? 乾いた葉っぱは?」

前世の知識として、摩擦や火打ち石で火を起こせることは知っている。だが、実際にやったことがあるかと言われれば、小学校のキャンプで先生が苦労して火を起こすのを遠巻きに見ていただけだ。

結局、俺は2時間かけてそこらの枝を集め、短剣の腹で石をカンカンと叩き続けた。

火花は散るものの、一向に用意した枯れ葉に引火する気配はない。手の皮が剥け、水ぶくれができて、痛みに顔を歪める。

「クソッ、なんで火をつけるだけで、こんなに重労働なんだよ……!」

ふと、前世の記憶がフラッシュバックする。

『ボタン一つで24時間いつでもお湯が出ます』

『コンビニに行けば、温かい弁当が1分で出てきます』

あの、社会の歯車として酷使されていた文明社会。

確かに精神は病んでいたが、あそこには「インフラ」という名の、人間を生存させるための最強のシステムが存在していた。

蛇口をひねれば飲み水が出る。スイッチを押せば部屋が暖まる。

この異世界には、それらが一切ない。

自分で薪を割り、自分で火を起こし、自分で安全な水と食料を確保しなければ、数日中に「のたれ死ぬ」というリアルな結末が待っている。

「スローライフってのは……『生きるための労働を、全部自分で、原始的な方法でやる』って意味だったのか……!」

のんびり余生を過ごすどころか、24時間年中無休の「生存義務サバイバル」という名の、超絶ブラック企業に再就職してしまった気分だった。

夕闇が迫り、周囲が急速に冷え込んできた。

結局、火を起こせなかった俺は、生のままでは渋くて食べられないキノコを抱え、薄暗い木造小屋の隅でガタガタと震えるしかなかった。

外からは、昼間には聞こえなかった、何らかの肉食獣らしき不気味な遠吠えが響いてくる。

ドアには鍵すらついていない。ただの木の板が立てかけてあるだけだ。

「女神の嘘つき……。帰りたい、せめてビジネスホテルに泊まらせてくれ……」

飢えと、寒さと、未知の恐怖。

ガチガチと歯を鳴らしながら、俺は異世界生活初日の夜、一睡もできずに朝を待つことになるのだった。


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