矢野、バズる(前編)
(斎藤視点)
矢野と私が入籍して2ヶ月がたった。
入籍日が決まったあと、結婚休暇の件もあるのでそれぞれ周りの人に報告していったが、みんな特に驚くこともなくあっさりと受け入れた。
やっぱり矢野の言う通り、隠しきれていなかったのかもしれない。
ただひとつ意外だったのが、結婚に至った経緯に一番興味津々だったのが堀江課長だったことだ。
表情はいつもの微笑みだったけど、「なれそめは? やはり矢野さんが政策課に異動になったのが切っ掛けですか?」といつになくぐいぐい聞いてきた。
この人のスイッチの入るポイントが未だに分からない。
そして今日、外務省内はいつになく緊張感が漂っていた。
米国国務長官が来日し、本省内の会議室で外務大臣と会談を行うことになっていたからだ。
その日はものものしい警備が敷かれ、会議室の辺りは省内の人間でも関係者以外は立ち入り禁止になっていた。
そしてその会談の通訳兼補佐に矢野が抜擢されたのだ。
外務省官僚はある程度英語ができるのが当たり前だけど、帰国子女でほぼネイティブ並に英語を操れる矢野はやはり群を抜いていた。
加えて矢野は頭の回転も早いし、どんな場でも落ち着いて対処できる。
今回の大役は皆が納得するところだった。
しかし本人は朝、家を出るときはソワソワと落ち着かなかった。
この日は本省に出入りしているテーラーで作ったオーダーメイドのスーツに身を包み、いつも以上に身だしなみに気を遣っていたが、その顔には不安が表れていた。
まあ、緊張するのも分かる。
普段は裏方に徹する官僚だが、この日は会談のあと合同記者会見で通訳と補足説明を行うことになっていたからだ。
それは全てテレビ中継される。
「おかしくないかな? やっぱりネクタイはあっちの方が…」
そのおろおろしてる矢…悠樹が面白い。
私は苦笑しながらも、悠樹のネクタイを改めて絞めてやった。
「大丈夫だよ。悠樹はかっこいいから」
「俺、かっこいい?」
「うん、かっこいい。悠樹なら大丈夫だよ」
「……ありがとう。少し落ち着いた。じゃあ先に出るな。行ってきます、紀子」
そう言って軽くキスをして、悠樹は家を出ていった。
予定どおり米国国務長官が来省し、会談が行われた。
会談の内容は非公開なので、私たちにもリアルタイムでどのような内容が話し合われているのかは分からない。
みんなそれぞれ自分の仕事をしながらも、意識はそちらに向いていた。
普段はお喋りな同僚も、この日は無駄口を叩かず静かに見守っていた。
今回の会談のメインの内容は、日米安保と関税の最終的な詰めだ。
この結果で国政も国民の生活も、大きな影響を受けるかもしれない。
悠樹もかなりプレッシャーがかかってるはずだ。
両方の意味で私は落ち着かなかった。
ほぼ予定どおりの時間に会談が終わり、合同記者会見が始まった。
その中継は大会議室のモニターで映し出されていた。
そこに職員たちが集まって、固唾を飲んで見守っている。
外務大臣によると、日米安保はこれからも日米の連携を深めていくと言ういつもどおりの内容だったが、関税についてはプラスの方向に話が進んだとのことだった。
これを聞いて、堀江課長を始め上層部たちはざわついていた。
「関税アップか……」
「国民は納得するのか?」
「きっとこれで終わりじゃないだろ、アメリカは……」
外務大臣の発表のあと、後ろに控えていた悠樹が英語で訳し始めた。
すると会見場や中継を見ていた省内の空気が、「おっ……」と引き締まった。
つい数時間前までの狼狽ぶりは影もなく、落ち着いて滑らかな英語で大臣の言葉を訳していく。
通訳は一言一句訳せばいいと言うものではなく、ニュアンスや言い回しで相手に伝わる微妙な意味合いが変わる。
その辺を違和感なく正確に、難なくこなす悠樹はすごいと思う。
私にはここまでできない。
ある同僚が「まるで同時通訳のプロだな」と呟いてるのが聞こえた。
すると隣にいた白井さんが私の腕を軽くつついた。
「斎藤さん、スマホ見てみてください」
「え?」
「矢野さん、SNSでバズってますよ」




