平治の乱に備えよう
平治元年(1159年)5月 遠江国
こんにちは平重盛です。
京から元号が平治に変わったとの知らせが届きました。
二条天皇の即位に伴う改元だそうです。
すわ、平治の乱か!
そう思いましたが、平治元年に起こったとは限らないですよね。
でも保元の乱は改元後すぐに起こっている。油断はできない。
やっぱりもっと日本史をしっかり勉強しておくべきだった。まあ転生を前提に勉強するわけにもいかないのだが。
とりあえず、平治の乱で知っていることを整理してみよう。
確か、保元の乱で権力を握った信西に対し、反信西派が挙兵するのだ。その反信西派の武士の代表が源義朝。
反信西派が挙兵したのは清盛パパが熊野詣に行っている最中で、反信西派が信西を討ったことを知った清盛パパは、急いで六波羅に戻ってくるも、後白河上皇が人質になっているから、一旦、反信西派に降伏したフリをするのだ。
そうして時間を稼いでいる間に後白河上皇を奪回し、反信西派を討伐する。
京を逃れた源義朝は尾張で誰かの裏切りにあって死亡し、源頼朝は捕縛され、伊豆に流罪となる。
そんな流れだったと思う。
なんだ、あるじゃないか、トリガーが。
清盛パパの熊野詣だ。
よし、清盛パパに熊野詣に行くことがあれば事前に連絡がほしいと使いを出しておこう。
あとは源義朝が坂東武士団を呼び寄せる可能性がある。
遠江は、坂東から京までの通過点だから、坂東武士団に動きがないか警戒網をはっておこう。
それともう1つ。源頼朝の伊豆配流の阻止だ。
それには平治の乱後、清盛パパがなぜ頼朝を源氏の本拠地である坂東の伊豆へ流したのかという理由を把握しておく必要がある。
なぜ、わざわざ反乱を起こしやすい坂東に流したのか。
疑問に思ったので、京を離れる前に清盛パパに聞いてみた。「もし源氏と戦いになって、その将を捕縛したら、どこに流すか」と。
「伊豆だな。」
清盛パパは即答だった。
「源為朝を伊豆に流したという先例があるからな。」
なるほど、そういうことか。
そういえば保元の乱の後、源為朝は伊豆に流されている。
それに源為朝の本拠は鎮西、つまり九州だから、真反対に流したことになる。
そうか、九州も源氏の勢力圏なんだな。西国は平氏という先入観があった。
だから源頼朝を捕縛した時も西国よりも坂東へ流すことを選択したのだろう。
そういや平氏も壇ノ浦で終焉をむかえて、九州には逃れてないよな。
坂東は源氏の勢力が強いが、源氏一色という訳でもない。
坂東にも西国にも流せない。では、源頼朝を流すならどこが良いか。
平治の乱が終わるまでに考えておかないとな。
清盛パパへの使いが、返事と縁談を持って帰ってきた。
相手は藤原親盛殿の娘、少輔掌侍だ。
藤原親盛殿は、従五位下・下総守だ。先代のころから下総国に勢力を築き上げている。ちなみに親盛殿の長男の親政殿の室はじいちゃんの娘だ。
平氏との関係強化を図っているのだろう。親平氏の家といえるだろう。
源氏の本拠である坂東でよく頑張っているというのが第一印象だ。
この時代、複数の妻を持つことは仕方ないし、坂東に縁ができるのはありがたいのだけれど、ちょっと時期は配慮してほしかった。だってまだ新婚なのです。
とはいえ、平氏惣領たる清盛パパが決めたことだ。わがままは言えない。
坊門殿に説明しておくか。
少し足取り重く、坊門殿のもとに向かう。
家に帰ると坊門殿が神妙な顔で僕を待っていた。
あれ? なんか既視感がある。
「重様、あたし、できちゃったかも・・・」
「ぐはあっ!」
思わず膝をつき、胸を押さえてうずくまる僕。
その様子に驚いて駆け寄ってくる坊門殿。
「ど、どうしたのっ? 重様、しっかり!」
ありました。メチャメチャ既視感ありました。
「だ、大丈夫だから。それより念のため聞くけど、できたって何が?」
坊門殿が頬を染める。
「たぶん、赤ちゃん・・・」
「・・・やった。やったね! 僕たちの子だよ!」
うん、時子のときの比じゃない。
自分の子どもだと、こんなにもうれしいのか。
また守りたいものが増えた。
坊門殿と産まれてくる子のためにも頑張ろう。
でも少輔掌侍のこと、どう説明しよう。
また新たな苦悩が増えた。