保元の乱(3)
保元元年(1156年)7月8日
頼長様が挙兵した。
おかしい。昨晩は説得できたと思った。僕の勘違いだったか?
分からない。もう1度会いにいかないと。
そう思っていたけどすぐには無理だ。
続々と集結する武士団の受け入れと駐屯する場所の手配や、兵糧の準備、清盛パパや検非違使にいる基盛との情報交換など、しなければならないことが怒濤のごとく押し寄せてくる。
そして刻々と変化していく情勢。
末端とまではいわないけど、中枢にいるわけではない身では、全貌がよく見えない。
「おい、重盛殿。我らは出陣してくるぞ。」
そんななか、源義朝殿が兵を率いて出陣した。昨日話していた東三条殿の接収だろう。
「義朝殿、東三条殿にある蔵書はそのまま押さえてください。平氏で買い取りますので。」
義朝殿はニヤリとした。
「金目のものはこちらで頂くぞ。」
「ええ、それは接収する武士の取り分でしょう。ただ、信西はうるさそうなので、上手くやってくださいね。」
義朝殿は軽く手をあげ、出陣していった。
結局この日は頼長様のもとに向かうことができなかった。
翌9日
京外からの上皇方への武士団の流入はほぼ遮断した。
信西は、次なる手として、崇徳上皇のいる鳥羽田中殿を包囲するため、兵を移動させはじめた。
別に信西が作戦立案しているわけではない。源義朝殿や合流した清盛パパなど武士団が中心となって動いている。
義朝殿と清盛パパは、お互い気は許せないものの、軍事の達者だけあって話はよく合うようだ。
この動きに危機感を強めた崇徳上皇は夜半に、わずかな近臣だけを連れ、鳥羽田中殿を脱し、白河北殿に入った。
この間、頼長様の居場所をつかむのに苦労していた。
どうも各所を移動されているらしく、最終的に宇治に入られたことを知ったのは10日の明け方だった。
7月10日
とにかく崇徳上皇と頼長様の連携が拙い。
そもそもこの2人は手を組んでいるのか、と疑いたくなるくらい連携できていない。
そして行動方針がはっきりしない。
頼長様は普段なら行動方針が実にはっきりしている。
最終目標を決めて、そこに向かうための道筋を決める。途中で不測の事態が発生することを想定し、道筋は何本も用意する。
人の感情を想定できないのが玉に瑕だけど、今回のような作戦行動を行き当たりばったりでするような人ではない。
宇治にいた頼長様は、今になって崇徳上皇と合流するために白河北殿に入った。
兵が少ない者同士が、とりあえず我らに喰われないようにと固まっただけにしか見えない。
いったいどうしてしまったんだ。頼長様は。
-白河北殿
「夜襲ですな。」
崇徳上皇の陣営に集まった兵たちの間には重苦しい空気が漂っていた。
兵が思うように集まらない。
集まったのは摂関家の私兵くらいのもの。
現状を打開するには、もはや夜襲しかない。
源為義はそう考え、崇徳上皇方の上層部に提案した。
夜襲案は頼長らによって協議されるも裁可されることはなかった。
上層部が戦に疎かったという理由もあるが、何より頼長の動きが鈍い。
頼長の家人衆もそれを感じ取ってはいるが、いかんともしがたい。
最終的には、大和の興福寺から援軍が発せられたとの報をつかんだことからそれを待つことに決した。