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第26章 同じ教室、違う課題

 ホワイトボードに字を書くのは、気分がよかった。

 知識不足。読み違い。計算ミス。時間不足。解法選択。

 蓮は五つの言葉を大きく書き、その横に「目標点→教科→問題」と矢印を引いた。

「まず、間違いを分類する。次に、何点上げるか決める。俺は十四点を――」

「それ、もう三回聞いた」

 拳が椅子を後ろへ傾けた。

「聞きたいって言ったの、お前らだろ」

「どうやったかは聞きたかった。授業してくれとは言ってない」

 自習室には、陽向、拳、凛、海斗、奏太がいた。

 百六十八点を取った翌日、皆が答案を持ってきた。蓮は、自分が神崎から教わったことを、今度は自分が渡せると思った。

 話し始めると、言葉が次々に出た。

 検索練習。分散学習。誤答分析。目標の細分化。得点設計。

 神崎が初めて現れた頃、難しい言葉で説明されるたび腹が立った。そのはずなのに、教える側へ立つと、言葉を知っていること自体が力に思えた。

 神崎は窓際で黙っている。

 蓮は、拳の前へ数学の基礎問題を置いた。

「まず大問一から」

「何で」

「基礎が取れないと、その先も安定しない」

「俺、数学三十八点」

「作図落としてるだろ。計算ミスもある」

「英語十二点だけど」

 蓮の手が止まった。

 拳は問題集を裏返した。裏面にあった関数の応用を、数分で解き始める。式は荒いが、問題の構造をつかむのが速い。

「これ、相似使えば短い」

 蓮には、その発想がすぐには見えなかった。

「でも、基礎から順番に」

「お前が苦手だった場所から、俺も始める理由ある?」

 正しい。

 腹が立つほど、正しかった。

 拳の計算ミスと作図は直す必要がある。だが、高専受験全体を見れば、英語十二点、国語十八点の方が大きな穴だった。

 蓮は、自分が百点だった答案の形を、拳の答案へ重ねていた。

「じゃあ英語」

「急だな」

「中一単語から」

「全部?」

 拳が露骨に嫌な顔をした。

 全部やる時間があるのか。高専で必要な最低点はどの程度か。数学をどこまで得点源にするのか。

 蓮は答えを持っていなかった。

     *

 凛の予定表には、翌日、三日後、一週間後の欄を作った。

「今日やった社会を、明日もう一回。三日後に確認。一週間後に――」

「その時間、誰が妹見るの」

 鉛筆の音が止まった。

 凛のスマートフォンが震えた。

 保育園からだった。

 凛は画面を見て、すぐ鞄を閉じた。

「ごめん。熱出したって」

「でも、今来たばっかりだろ」

「だから何」

「いや」

 凛は予定表を一度見た。

「明日も来られるか分かんない」

 教科書を鞄へ押し込み、走って出ていく。

 翌日、三日後、一週間後。

 分散学習の理屈は正しい。

 だが、次の学習日を自分で決められる生活が前提だった。

 蓮は凛の予定表を消した。

 知念へ相談し、塾へ来られた日に中断されない十五分だけ確保する。教材は一つ。社会の用語を白紙へ思い出し、その場で確認する。

 十五分では足りない。

 それでも、存在しない一時間よりは使える。

     *

 海斗は白紙を前に、十分間動かなかった。

「何でもいいから、覚えてること書けば」

「何を書けばいいか分からない」

「だから、思い出すんだって」

「思い出す最初が分からない」

 蓮は、やる気の問題だと思いかけた。

 神崎が、海斗の視線を指した。

 海斗は解説と白紙を何度も見比べている。答えが欲しいのではない。最初の一手が見えない。

 蓮は完成した例題を一つ開いた。

「まず、これを見る」

 次に、途中の式だけ空欄にした問題を渡す。

 最後に、似た問題を自力で解かせた。

 三段階目で、海斗の鉛筆が動いた。

「これなら、さっきの式を使う」

「そう」

「最初から白紙は無理だった」

 同じ机の反対側では、陽向が例題を滑らかに解いていた。

 しかし翌日、単元を混ぜると止まる。

 海斗には、詳しい手順からヒントを減らす必要がある。

 陽向には、手順を隠し、何を使うか選ばせる必要がある。

 同じ「分からない」でも、必要な助けが逆だった。

     *

 奏太は、出された課題をすべて終えた。

 字は整い、丸付けも正確だった。

「次は?」

「自分で決めて」

「何から」

「英語、数学、理科。三つから選べば」

「一番いいのはどれ」

「それを考えるんだよ」

「新垣なら、どれにする?」

 蓮は答えそうになった。

 奏太の模試答案なら、英語の長文が先だ。点数効率で考えれば、迷う必要はない。

「英語」と言えば、奏太はすぐ始める。勉強会は止まらない。蓮も、正しい指示を出した先生らしく見える。

「そこで選んだら、母親と同じじゃ」

 神崎が言った。

「でも、効率悪い選択したら」

「誰の効率じゃ」

 蓮は口を閉じた。

「奏太。今日は、どれをやるか自分で決めろ」

「分からない」

「間違ってもいい」

「数学」

「理由は」

「一番簡単そうだから」

 蓮は反射的に否定しかけた。

 簡単な課題から始めても、得点効率は高くない。だが、奏太が自分で選んだ最初の一問だった。

「じゃあ、数学」

 奏太は不安そうに問題集を開いた。

 五分後、また聞いた。

「この次は?」

 自立は、一回の選択では始まっても、完成はしなかった。

     *

 蓮はホワイトボードを見た。

 最上部に、「全員共通」と書いてある。

 消した。

 拳。

 使える時間はある。数学の構造理解が強い。英語・国語・社会に最低点が必要。数学は基礎ミスを減らしながら得点源にする。

 凛。

 教材より先に、中断されない時間。来られた日に十五分。安全や家庭の問題は、勉強会だけで抱えない。

 海斗。

 完成例。穴埋め。自力。ヒントを少しずつ減らす。

 陽向。

 初見。混合。翌日と三日後。分かった感覚を遅れて確かめる。

 奏太。

 課題を三つに絞る。理由をつけて本人が選ぶ。正解の課題を大人が先に渡さない。

「処方箋みたいだな」

 蓮が言うと、神崎が鼻で笑った。

「診断もせず、同じ薬を配ろうとした医者が何を言う」

「もう直しただろ」

「教えるのが楽しくなったか」

 蓮は答えなかった。

「皆が聞く。お前が説明する。神崎先生の真似ができる。気持ちよかったじゃろ」

「少し」

「生徒が伸びるのと、お前が先生らしく見えるのは別じゃ」

 神崎の過去を知った夜、蓮が突きつけた言葉が返ってきた。

 他人を、自分の正しさを証明する答案にしない。

 蓮は、それをもう始めていた。

     *

 三週間後、県内模試の結果通知が届いた。

 陽向は、前回より偏差値を上げた。

 初見問題で、最後まで手が止まらなかった。定期テストの点も大きく落としていない。

 陽向は結果を握りしめ、声を出さずに笑った。

 そのすぐ後ろで、奏太が成績表を折っていた。

 点数は急落していた。

 母親が管理を弱めた期間、予定を立てられず、課題の抜けが重なった。自分で選ばせれば、そのうち動ける。蓮はそう思っていた。

 結果が出るまで待つ時間を、受験は無限にはくれない。

 奏太のスマートフォンが鳴る。

 母親からだった。

「やっぱり、私が全部管理します」

 画面の文字を見て、奏太は安堵したように息を吐いた。

 蓮は、何も言えなかった。

 正しい方法を書いた欄ほど、使えない理由が余白へ増えていった。

 蓮はその下へ、同じ課題を全員へ配らない、と赤字で足した。


神崎の赤ペン補講

第26回 同じ勉強法が、全員に効かない理由

1.方法の前に、現在の障害を見る

成績が上がらない理由は同じではありません。

・知識がない

・最初の手順が分からない

・知識はあるが選べない

・処理が遅い

・学習時間が確保できない

・何を始めるか自分で決められない

同じ点数でも、必要な支援は異なります。

2.初学者には例題が役立つ場合がある

何も分からない段階で、いきなり白紙から解かせると、処理する情報が多すぎることがあります。

・完成した例題を見る

・一部を穴埋めする

・ヒントつきで解く

・最後に自力で解く

このように、徐々にヒントを減らします。

3.適度な難しさは人によって違う

思い出す努力や混合問題には価値があります。

ただし、前提知識がない人へ難しすぎる課題を与えると、学習ではなく停止になります。

簡単すぎる課題でも、解法を選ぶ力は育ちにくくなります。

4.使える時間を確認する

理想的な復習日程を作っても、その時間に家族の世話、仕事、移動などがあれば実行できません。

・本人が自由に使える時間

・中断されない場所

・睡眠

・家庭で担っている役割

を確認します。

5.選択を本人へ戻す

自分で決められない人には、無制限の選択肢を渡しません。

・選択肢を二つか三つに絞る

・本人が一つ選ぶ

・選んだ理由を言葉にする

・結果を見て修正する

最初から最も効率的な選択ができるとは限りません。選ぶ力も練習で育てます。

6.同じ勉強会でも、別の課題でよい

全員が同じ教材、同じ時間、同じ順番で学ぶ必要はありません。

共通にできるのは、

・目標を確認する

・答案を見る

・実行結果を記録する

・困ったときに相談する

といった枠組みです。

中身は本人の現在地に合わせます。

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