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エピローグ 私を待ってくれたあなたへ


 克彦と弘子が一緒に階段を下りていくと、広いリビングから夏実が飛び出してきた。

「アニキ…ほんとに…もう。斉藤さん、ごめん…大丈夫? でもアニキの部屋にまで乗り込んで行くのもちょっとやっぱ、憚られて…」

 弘子はさっきまでの物音が夏実に聞こえていなかったか不安に思ったが、リビングのテレビの音は不自然なくらい大きめで、もしかしたら夏実が「そういう意味でも」気を遣ってくれたのかもしれないと感じ、幾分恥ずかしく思うとともに、優しい気持ちになった。

「夏実さん、ありがとうございました。ご迷惑をおかけしちゃって…でも、先輩が優しく話をしてくれたので、大丈夫になりました。服はお借りします、早く返しますね」

 弘子の童顔に少し大人びた安らかな微笑みが浮かんでいて、それと初めて弘子の口から名前を呼ばれたこともあって、夏実はなぜかどぎまぎした。

(お姉さん、に、なるのかな? この人…いずれは…)

 一方で克彦は、あちこちに視線を泳がせて、夏実と目を合わせようとしなかった。今しがたまで弘子と過ごしていた時間のことが脳裏に浮かんでは消え、妹に対してはえもいわれぬ気まずさと恥ずかしさがあった。克彦は視線を外したまま言った。

「とにかく夏実、ありがとう。俺、これから弘子さんを家まで送ってくるから…」

「駅までじゃなくて?」

「今日は家まで送るよ。心配だから…」

 心配と言ったが、克彦は本当は、まだまだもっと弘子と一緒にいたくて、帰したくなかった。弘子はその様子を感じ取り、内心で幸せを感じつつも涼しい顔をしていた。

 そこに車の音がした。克彦と夏実が同時に聞きつけて顔を玄関に向けた。

「両親帰ってきた…鉢合わせないうちに帰ろう、弘子さん」

「…あ、はい」

「ああ~、今からじゃ、無理だと思うよ~」

 夏実はニヤニヤして成り行きを見守っていた。案の定、克彦と弘子が玄関を出て門に向かうところで両親と鉢合わせた。

 結局その日、弘子は克彦の両親と初顔合わせをしたうえに、夕食に招かれることになってしまった。弘子が夏実の服を着ていることについては夏実がうまく言い繕った。弘子は心の準備も何もできていなかったのでガチガチに緊張したが、克彦の父親がいろいろと話しかけてくれて、少しはなんとか楽しい会話もできた。

 克彦も、弘子も、内心で同じことを考えて苦笑していた。

(よりによって、初体験して一時間と経たない顔で親に挨拶なんて…)


 山根邸を辞して、弘子は克彦の運転で家へと向かった。

「弘子さん。…ありがとう」

 克彦は改めて弘子に言った。話を聞いてくれたこと、それから、すべてを預けてくれたこと。そのほかのことも、何もかもが温かく、幸せだった。

 弘子は克彦に驚いた顔を向けた後、静かに前に向き直った。

「お礼なんて、先輩から言われる理由は何もないです…。私…ずっと、ずっと、山根先輩に優しくしてもらうばかりで…しかもそれを、申し訳ないとか、釣り合わないとか、よくないニュアンスでばかり思ってました。でもわかりました。そうじゃないんだって。ありがとうって、先輩と出会えてよかったなって、これまでのいろんなことに感謝して、恩返しをしていかないといけないんだなって」

 弘子はつぶやくように、噛み締めるように言った。克彦はハンドルを握って前方に視線を向けたまま、黙って聞いていた。

「事件のこと、話してくれてよかったです。そして先輩が昔、そういうことがあって、それはとてもつらいことだったと思うけれど…その出来事があったから、私に出会うまで、ずっと誰のものにもならずに運命を待っていてくれたことを理解していきたいと思います。本当は、私なんかが、山根先輩みたいなステキな人に好きになってもらえるはずはなかったのに…先輩は運命を間違えて、こんなのとくっつくハメになっちゃって…」

 克彦が何か言いそうになったので、弘子はすぐに制した。

「そうじゃないんです。私自身のこの幸運に感謝したいんです。山根先輩がどこにも行かずに私と出会ってくれたこと。運命を待ってもらえたこと。先輩にはつらい心の傷が残ったから、喜んではいけないけど…私に対して結果として幸運に働いたことだけは確かで、その幸運は、嬉しいと思ってるんです」

 車は弘子の家に向かって走る。けれど、克彦はこのままずっと、弘子と一緒にいたいと思った。もちろん今日はちゃんと家に帰すしかない。でもいつか、きっと、毎日毎日、そばにいてずっと一緒に過ごしたい。寝ても覚めても、このひとのそばにいたい…。

「山根先輩の過去が、だから私に出会えたんだって、それが一番結果的に素晴らしい運命だったんだって、そういう転機に感じられるみたいになればいいなって。だから、私としか付き合えなかったんじゃなくて、結果的に一番いい相手を選べたって思ってもらえるよう、がんばって山根先輩のことを幸せにしていきます。だから…」

 ちょうど信号で車は止まった。克彦はやっと弘子に顔を向けられるタイミングが来て、弘子の瞳を助手席に探した。

 弘子は言葉を切り、克彦を真剣なまなざしで見上げた。

「先輩、ずっとそばにいてください」

 その言葉は克彦の全身に染み渡っていった。それまでの自分だったら感激して泣いていたかもしれない、と克彦は思った。けれど今は、そういう昂りよりも、穏やかで安らかな温かさだけが心に広がっていた。

「いつまでも…キミのそばにいるよ。ありがとう、出会ってくれて。そして、こんなに自分勝手にキミを好きなだけの男に、頑張ってついてきてくれてありがとう…」

 静かな時間が流れ、信号の青とともにまた車は走りだした。

 大人の付き合い、と弘子は思った。単に「カラダの関係」という意味の「オトナのつきあい」ではなくて、心から湧き上がる幸せと愛情を、静かに分かち合う安らかな関係。

 佳美とかおり、克彦と出会わせてくれた二人の親友を思った。幼い悩み事を聞いてくれた遥子のことを思った。一生懸命になってくれた夏実、そして初めて会った克彦の両親。自分の家族。誰も彼もがいとおしかった。

 きっと隣でハンドルを握っている克彦も同じ気持ちに違いないと、弘子は心の奥底から信じることができた。運命の人…という言葉が一瞬だけよぎった。

 やっと――克彦と弘子の歩調が、この日、ぴったりと揃った。


         *


 追伸、遥か未来のワンシーン。


 弘子は克彦との待ち合わせに急いでいた。柔らかいウェーブのかかった長い髪からのぞく瞳は喜びに輝き、大人になった弘子は、誰が見ても美しい女性に成長していた。高校生の頃の面影は、時折のぞく子供っぽい表情と、結局あまり伸びなかった150cmの背に残っていた。

「…克彦さん」

 公園のベンチで待っていた克彦は、後ろから聞き慣れない呼び方で声をかけられたのでびっくりして振り返り、立ち上がった。克彦は少し大人びて、けれど大学生のときとほとんど変わらない綺麗な顔で弘子を見つめた。

「ど、どうしたの?」

 克彦は戸惑った声で問いかけた。弘子ははにかんだように少しうつむいて、上目遣いに克彦を見上げて言った。

「あの、プロポーズ、…お受けします。よろしくおねがいします…」

 克彦の表情が一気にはじけた。そのままベンチを離れ、弘子を力まかせに抱きしめた。

「…だから、もう、『山根先輩』もないだろうと思って…」

「そっか、…よかった、…ありがとう、…幸せにするからね…」

 テニスコートで克彦が弘子を見つけ、恋をしてから、何年がすぎただろう。克彦がプロポーズするまでの道のりも、弘子がOKするまでの道のりも、結局長くかかってしまった。「長すぎた春」とからかわれたりもしたが、それだけの時間をかけて育ててきた大切な恋だった。

克彦は弘子の指に、ずっと懐で温めていた婚約指輪を飾ってあげた。大きなダイヤよりも、弘子の笑顔と喜びの涙のほうが輝いていた。

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