6月30日 母
「お疲れ様でしたー!」
「うむ、ご苦労様だったな」
「ごきげんよう、夏音さん」
阿佐ヶ谷と花織に軽く頭を下げ、私は家路を急いだ。
7月に発売される新曲PR活動に向けて、今まさに佳境を迎えていた。急激に上がった知名度を生かし、学校が終わったらすぐにテレビ出演のため東京に出発するか、それともレコード会社の地下で歌やダンスのクオリティを高めるか、のどちらかで、私の放課後には文字通り休む暇もなかった。
「ふわぁ……眠い」
家に帰って、期末試験の勉強をする気にもなれなそうだ。
このまま、敷きっぱなしの蒲団に倒れ込んでしまうような気がする。クトゥルフの特別出前を頼んだのは、4時間も前の話だ。空腹を訴える音を聞きながら、眠い目をこする。
着替えたとはいえ、練習でかいた汗のせいで気持ち悪くて仕方ない。朝一番で風呂に入って、少し多めに朝食をとろうか、とか考えているうちに自宅が視えてきた。
「……ねむ」
欠伸を噛みしめ、マンションの階段を登る。
夜遅いだけあって、マンションは静まり返っていた。灯りがついている部屋も、あまり見当たらない。ポケットの中の鍵を探りながら、ふと奇妙なことに気がついてしまった。はた、と足を止めてしまう。
「えっ?」
灯りがついている。
自分の住んでいる部屋に、何故か。
誰もいないはずなのに――。私は、呆然と立ち尽くしてしまった。しばらくして、ようやく我に返った私は、ぱんぱんっと軽く頬を叩いた。これは、腹をくくるしかない。覚悟を決めて、鍵を差し込んだ。かちゃり、という音が、異様なまでに響き渡る。扉が普段よりも遥かに重く、不気味なくらい遅く開いた。
「た、ただいま」
普段は闇に吸い込まれていく声が、明かりのついた部屋に響く。
ぷん、と酒の香りが漂ってきた。そして、臭いに乗るように――
「どこへ行ってたの、カノン?」
母親の声が、耳に届いてしまった。
嫌な予感の的中に、溜息すら出ない。私は、重たい鞄を持ったまま自室に引きこもろうとした。眠気が一気に失せてしまった。風呂に入って、適当な菓子を食べても眠れるとは思えない。テスト勉強が、今ならできそうな気がした。……頭に入ってくるかは、疑問だけど。
「別にー」
「ねぇ、カノン。何か隠してるでしょ?」
「別に、隠してないってば」
嘘だ。
芸能活動のことを、私は一切話していなかった。
アイドル番組がやるのは、決まって母親のいない夜だった。
ダンスは全て録画番組を見よう見まねで真似た独学だったし、カラオケで粘って歌の練習していた。そう、だから母親は――私がアイドルになろうとしていることを知らないし、実際にアクセルのアイドルになったところで、知る由も無かった。
「あー、もう! ちょっと、友達の家で試験勉強の確認してただけだってば!!」
「嘘言いなさい!!
ママが知らないと思ってるの、カノン!?」
ずぃっと、向かいの部屋から母親が姿を現した。
まるで、自室に引きこもるのを許さないとでも言うような圧迫感に、一瞬――ほんの一瞬、動きを止めてしまったのが間違いだった。
「ちょっと話、聞かせなさいな」
がしり、と私の腕を掴み、ずるずると居間へ連行されてしまった。
一応、逃れようと身体を捻ってみたのだけれども、連日の練習と芸能活動で疲れ果てしまったせいで振り切ることが出来ない。いや、そうでなくても――母親と私の力の差は一目瞭然なのだ。ほぼ、無抵抗な私はカーペットの上に放り出された。
「それで、これは――どういうつもり!?」
でん、と構えた母親は、新聞を鼻先に突き出してきた。
「《お手柄、リアル炎上アイドル! アイドル飯田夏音(17)火の海から幼稚園児を颯爽と救い出す》
これ、カノンだよね? アイドルって、どういうこと!?」
「……ごめんなさい」
一応、しっかりと話すつもりだったのだ。
芸能事務所に入ったことや、CDデビューをすること、出来れば大学には進学せずに、芸能活動を続けたいこと、色々と――母親が機嫌の良い時を見計らって、話そうと考えていたのだ。ただ――予想外の方法で有名になってしまったから、説明より先に母親の耳に入ってしまった。想定の範囲だったとはいえ、まさか――こんなに早く知られてしまうとは。
「アンタ――何を考えているの?」
「私――アイドルになりたくて、その、もっと輝きたくて――」
「なんて、なんて、なんて馬鹿なことを考えたのよ!!」
母親の野太い声が、部屋の空気を震わせた。
びくり、と縮こまってしまう。アイドル飯田夏音だったら言い返すことが出来たかもしれない。でも、本当の飯田夏音は何も言えない。ただただ萎縮してしまう――ちっぽけな女子高校生に過ぎなかった。
「いい?
芸能活動なんてね、浮き沈みが激しいの。ママだって、いつまでこの仕事を続けられるか分からないんだから、カノンは安定した就職をして、良い人と結婚しないといけないのよ? 現実、分かってる?」
「……うん……でも、」
「でもも何もないって言ってんだろ!!」
ぴしゃりっと、母親は言い放った。
私は、ただただ俯いていることしか出来ない。
母親は、私のことを心配して言ってくれているのだ。そのことは、十分に良く分かっている。そう、十分すぎるくらいに。
「お母ちゃんの仕事が、いつまで続くか分からないってことくらい分かってるよ」
母親の仕事は、いわゆる水商売だ。
隣町の――とあるBARのママとして働いているけれど、私にその後を継ぐつもりは毛頭ない。きっと、母親の後を継ぐのは別の人なのだろうし、母親も後を継ぐことを絶対に望んでいない。いや、望んだとしてもできないけど。
だからこそ、私は自分で就職先を探さなければならなかったし、退職後の母親を養っていくためにも、そして私自身が生きていくためにも、安定した収入が必要なのだ。
「安定した収入、そのためには安定した職業に就いて、ちゃんとした人と結婚しないといけない。そのくらいは分かってるし、――そういう将来を望んでいたんだろうし」
「そうよ!
ママだけが、カノンの幸せを願っているんじゃないのよ?」
ぽん、と大きな手が頭に乗せられる。
わしゃわしゃっと暖かい手が――幼い頃、私を安心させてくれたように乗せられた。でも、不思議と今日は重い。
「カノンちゃんはね、お利口さんだから分かるわよね。
明日、しっかり事務所に行って辞めるって言ってきなさい」
この後、私は自分が何て言ったか――覚えていない。
でも―――母親の嬉しそうな、安心したような笑顔だけは、鮮明に覚えている。
一瞬だけ、アッキさんから花織優華さんをお借りしました。