7月5日 夏祭りと…
もうすぐ、終わりの時が来る。
母親の言う通り、アイドルを辞めると宣言する時間が。
結局のところ、私は断れなかった。
今日の、野外ステージだけはキャンセルできないと言って、なんとか許してもらえたけれども、きっと母親は私が引退宣言するかどうか確認しに来る。
もし、そこで辞めなかったら―――どんな目に合うのか。想像するだけでも、恐ろしい。
母親は、私の未来を想ってくれている。
母親は、私の将来のためにアイドル業から早めに足を洗うように進めている。
そう、全ては私のため。
私だって分かっている。
でも――
手の震えが止まらない。
怖くて、怖くて堪らない。ぎゅっと拳を握りしめた。
「大丈夫、夏音ちゃん?」
誰がが、私の顔を覗き込んでくる。
その顔が、役場の内村さんだと分かった時、ホッと胸を撫で下ろす。私はアイドル飯田夏音の仮面をかぶり直し、にっこりと微笑み返した。
「問題ありません。武者震いって奴ですよ」
「そう、それならいいんだけど……?」
どことなく、内村さんの顔色は晴れない。
私が今いる場所は、うろな町に臨時設置された野外ステージだ。夏祭りのサプライズイベントとして、飯田夏音は歌い踊る。ステージの向こうにいる人達に向けて、全力を尽くさなければならない。だけれども、私は――歌えない。きっと、今のままだと――誰にも何も伝えられない。
「大丈夫、私は――きっと出来る」
言い聞かせるように、顔を埋めた。
母親の剣幕が、のっそりと脳裏に浮かび上がる。
母親――私がアイドルを続けることを望まぬ人は、夏祭りのステージで言い放てと迫るのだ。悪夢から覚めるための呪文を、観衆の前で言い放てと。
「飯田、もうすぐ本番――ん? 何を悩んでいるんだ?」
今度、話しかけてきたのは阿佐ヶ谷だった。
阿佐ヶ谷は、いつもの暑苦しい表情を浮かべている。
『お前は、日本一のアイドルになる女だ!!』
と、所構わず宣伝するマネージャーの顔。
私は、阿佐ヶ谷の言った通り、確かに有名なアイドルになった。
そう――私は、アイドル――飯田夏音。でも、彼は知らない。
ここで、あと数十分以内に――ただの1人の飯田夏音に戻る運命にあることを。
私は、阿佐ヶ谷の顔を見ていられなくて、顔を背けてしまった。
「べ、別に……ただ、今日が上手くいくかなって不安だっただけ」
言えない。
言えるわけがない。
このマネージャーに、阿佐ヶ谷修也に、芸能界を電撃引退するなんてこと――例え冗談だとしても口に出せない。私は唇を軽く噛みしめると、蚊でも追い払うように手を振った。
「あーもう!近くにいると集中できないから、あっち行っててよ!」
視界の端に映る阿佐ヶ谷の顔が、奇妙に歪んだような気がする。
だけれども、それを気にするだけの余裕は無かった。ただただ、阿佐ヶ谷を無視し続ける。
「飯田?」
「大丈夫だから」
バンッと音を立てて立ち上がる。
その衝撃で、机の上に置いてあった紙コップが床に零れてしまった。床に、じんわりと染みが広がっていく。阿佐ヶ谷は、紙コップを黙って拾い上げた。いつもの暑苦しい表情は、どこへ行ったのだろうか。不思議なまでに、静かな表情に顔を背けられなくなってしまった。
ただただ、黙って私を見下ろしている。
「こ、零して悪かったって。
拭いておくから、さっさと出て行ってよ」
しかし、阿佐ヶ谷は一歩も動かない。
そんな彼の様子に、拳をギュッと握りしめる。
どうして、こんなに苛立っているのだろう。母親に辞めろ、と強制されたからか。いや、それだけではない気がする。
本当の理由は、自分でもわからなかった。だけれども、無性に怖くて辛くて、不安だった。
「飯田夏音」
「な、何よ?」
阿佐ヶ谷は、コップを静かにテーブルの上に置いた。
そして、開かれた口から言葉を放つ。
「飯田夏音は飯田夏音だ」
「え?」
当然のことを、静かに、しかしハッキリと言い放つ。
私は、ちょっと面食らった様に佇んでしまう。そんな私にお構いなく、腕を組んだ阿佐ヶ谷は言葉をつづけた。
「お前が何を悩んでいるか、俺にはわからない。
だがな――アイドルであっても、うろな高校生であっても、飯田夏音は飯田夏音なんだ。
その本質は変わらない。
お前のファンは、飯田夏音を応援するんだ。だから、飯田夏音として本気で応えろ!」
何を言っているのか、よく理解できない。
だけれども――剣道仕込みの良く通る声は、私の心に強く響いた。
阿佐ヶ谷は、楽屋から押し出すように私の背中を叩いた。強くてよろけてしまう程のタッチだったけれども、私には酷く優しくて暖かく感じてしまう。
それは――一体、何故だろう?
「行け、飯田夏音!
お前の力を見せて来い!!」
返事はしなかった。
いや、返事をする必要が無かった。
マイクを手に取り、晴れやかな衣装を身にまとった飯田夏音は迷うことなく進む。怖くて近づきたくも無かったステージに、足が自然と動き出す。
「あっ」
声が零れる。
溢れるばかりの人の顔が、私を見上げている。
期待に満ち溢れたような、値踏みするような、嬉しそうな、興奮した様な――様々な顔が、私を見上げている。
その数は、商店街ライブの時やショッピングモールでのライブの時よりも遥かに多い。
どくり、と心臓が波打つ。
まるで、自分の心が炎上しているかのようだ。
「さぁ、続いては――うろな出身の炎上系アイドル!飯田夏音ちゃんのサプライズステージです!!」
司会進行役の人の声が、遠くに聞こえる。
今は、ステージの前に集まった人たちの顔しか見えなかった。
皆の視線が、私に釘付けなのではないか、という錯覚を覚えてしまいそうだ。
地元だからだろう。見知った顔が多い。高校の先輩や、陰陽師大好き中学生カップル、他にも懐かしい先生の顔とかが、頑張れ!と言うかのように見上げていた。その中に混じって、1つ―――腕を組んだ母親の厳しい顔が目に留まった。
「夏音ちゃん、何か一言ない?」
「……」
「夏音ちゃん?」
「……あっ、すみません!まさか……こんなに沢山の人達が来てくれるなんて、思っていなくて。物凄く、嬉しいです!! ありがとうございます!!」
一瞬、呆けていた意識を戻す。
歓声が、会場を震わせた。どくん、と心臓が再び波打つ。
細胞のひとつひとつが急激に活性化するような、不思議な感覚に包まれる。
「それでは改めて、こんにちは! アクセルの飯田夏音です!」
この感覚は、一体何なのだろう。
生放送を収録した時も、テレビで謳った時も、こんな高揚感は感じたことが無かった。
「その、この短期間で私のことを知っている人が一気に増えて、嬉しい反面、ちょっと困惑しています。
いやー、さすがにアイドルが赤点で、夏休みも補習に通うっていうのは、さすがに不味いよなって」
だけれども、その高揚感の中に針のような痛みが刺さった。
母親の追及するような、厳しい視線。そう、母親との練習だと――この後に、私は言わなければならない。
『学業に専念するため、引退します』
と。
そう、私は言わなければならない。
引退するのだと、学業を理由に密かに抱き続けてきた夢を諦め、まっとうな道に進むのだと。
「学校の勉強も、どんどん難しくなっています。
きっと、この後――人生の岐路に立つたびに、勉学と言う言葉は私の前に立ち塞がるでしょう。
悩んだ末、私は1つの結論に達しました」
どよっと不穏な空気が漂った。
空気が変わる。誰も彼もの顔から、明るい色が拭い去られた。そう、隣に佇む司会者の顔からも。
反面――母親の顔が、優しげな色に変わった。
よく言ったわね、と誉めてくれそうな表情だ。
さぁ、あと一歩だ。
勇気を振り絞って、言葉を口にする。
「私――飯田夏音は――」
遠くで、いや凄く近くで、私の名前を呼んでくれる、叫んでくれるファンの方々がいる。
たった1月足らずの芸能活動だったけれども、私のことを推してくれる人がいてくれた。
それだけで、私は嬉しい。この選択に、悔いは無い。
だから、精いっぱいの笑顔で――大切なことを宣言した。
「アイドル活動を、辞めません!!」
言い切った。
言い切ってやった。
一瞬、しんっと静まり返る。
誰もがポカンっと口を開けている。引退しないんかい!とがっくし倒れ込む真似をする調子の良い人もいた。母親は――笑ってしまうくらい呆けた顔をしていた。
そんな母親に向けて、訣別の言葉を口にする。
「育てて来てくれた親には、本当に悪いと思います。
そりゃ、安定した職業に就いて欲しいはずですよ。アイドルなんて、博打打みたいなもので、たぶん―――このままいけば、私の人気も落ちていく一方でしょう」
でも、と言葉を紡いだ。
「この人気は、当然のことをして得られたキッカケに過ぎません。
これから――アイドル飯田夏音として、アクセル全開で走り出します!」
それは――阿佐ヶ谷のお蔭で、導き出せた結論だった。
私は私だ。誰が決めた物でもなく、
私は――私の未来に向けて、自分の力で道を切り開いていくのだ。
「今から、そしてこれからも――最高の飯田夏音を魅せていきます!!」
歓声が響き渡る。
母親には、確かに私のことを考えてくれた母親には悪いかもしれない。
でも、オーディションに合格した瞬間につかんだ運命を生かすも殺すも、私の自由だ。そこに、他人が付け入る余地は与えない。
そう、私は絶対に後悔なんてするものか。
「それでは行きます!! 夏色サイダー!!!」
シュウさんから、内村さんと榊さんをお借りしました!




