第47話 ひだまりのベンチ
大学の講義棟から少し離れた、古い桜の木の下にあるベンチ。いつからかそこは、キャンパスの学生の間で『詩織助手の秘密の救済所』と呼ばれるようになっていた。
学内での知名度が上がり、名物講義『現代サブカルチャーと伝統文化の融合論』の助手としてすっかりと定着した詩織。けれど、講義が終わると大勢のファンや取材陣から離れ、このベンチに座って、お兄ちゃんが用意してくれた小さな水筒の緑茶を飲んでホッと一息つくのが日課だった。
「……あの、東条助手……?」
ある日の放課後。おどおどした声に振り向くと、そこには課題のファイルを持った1回生の女子学生が立っていた。
「あ……はい!東条です。どうしましたか……?」
「私……大学に入ったのに友達もできなくて。周りはキラキラして見えて、自分だけが浮いている気がして……もう、大学を辞めようかって悩んでいて」
うつむき、ポロポロと涙をこぼす女子学生。かつての自分と全く同じように『自分の居場所』を見失い、怯えている姿だった。
「ひゃ……っ!」と一瞬戸惑ったものの、そっとベンチの隣をぽんぽんと叩いた。
「よかったら……お茶、飲みませんか?琴音さんの和菓子もありますよ」
自分の巾着から出した可愛い猫耳の練り切りと、温かい緑茶を小さなコップに注いで手渡した。
「私もね……少し前まで、人の目が怖くて、誰かの服の裾を握りしめて隠れてばかりいたんです。東条家のお嬢様なのに社交性ゼロで、自分のことがずっと大嫌いでした」
温かいお茶を一口飲んだ女子学生が、驚いたように顔を上げる。
「でもね、完璧にならなくていいんだよって、大好きな仲間たちが教えてくれたんです。頭の上にこの猫耳カチューシャを乗せたら……少しだけ前に踏み出す勇気がもらえました」
自分の頭の上の『秋色キャンパス用猫耳』を優しく触りながら、ふんわりと微笑んだ。
「大学で無理にキラキラしなくても大丈夫。自分の『好き』を小さくひとつ抱きしめて、ゆるゆる歩いていけば……きっと、あなただけの場所が見つかります」
「詩織助手……」
女子学生は和菓子の優しい甘さと詩織の温かい言葉に、しゃくりあげながら何度も頷いた。
それ以来、口コミは静かに、けれど確実に広まっていった。
就職活動で行き詰まった3回生、自分の表現に悩む芸術学部の学生、研究のプレッシャーに潰されそうな大学院生ーーー。
詩織助手のベンチは、悩みを抱えた学生たちが日替わりで訪れるようになった。
彼女は難しいアドバイスをするわけではない。ただ隣に座り、お兄ちゃんが持たせてくれた温かいお茶と琴音さんの和菓子を差し出し、じっくりと話をきくだけ。
「東条助手とお話すると、肩の荷がスッと軽くなるんです」「『完璧じゃなくていい』って言葉に救われました」
学生たちは、晴れやかな笑顔でベンチを後にしていった。
「……ふむ、なるほど」
物陰からその光景をじっと観察していたのは神楽坂教授だった。隣には、『妹のメンタルと安全の常時モニタリング』を行っているお兄ちゃんが控えていた。
「神楽坂教授、妹に過度な負担がかかっているようでしたら、カウンセリングルームの設置を大学に要求しますが……」
「いや、樹君。あれこそが真の『教育』であり『心理的安全性』の提供だよ」と教授は眼鏡の奥の目を柔らかく細めた。
「東条助手は、知識を教えるだけではなく、傷ついた学生たちの心を『ありのまま』受け止める居場所になっている。……学長に掛け合って、あのベンチの周りに花壇を作り、正式な『詩織助手との対話スペース』として環境を整えさせよう」
「あ、それならセキュリティカメラと温かいお茶の自動給湯システムも僕が組み込みます」
お兄ちゃんの仕事の早さに、教授は苦笑いを浮かべた。
夕暮れ時。
「あ、詩織さん!今日の『救済所』もご苦労様でしたわ」
物陰から優しく見守っていた麗華さんが、扇子を手に現れ、西園寺さんも「詩織様とお茶を飲める学生たちが羨ましすぎます……!」とちょっと拗ねている。
「ふふっ詩織。キャンパスの『隠れた聖母』として、ますます評判が高まっているわね」と紫苑様も満足そう。
「みんな……!もう、聖母だなんて大げさだよ~」と恥ずかしそうに顔を赤くした私。けれど、自分の小さな勇気が、誰かの傷ついた心を温かく溶かしていく手ごたえをしっかり感じていた。
キャンパスの古い桜の木の下で、頭の上の猫耳をぴこぴこと揺らしながら。詩織助手の温かな『ゆるゆる救済所』は、明日も悩める学生たちを優しく迎え入れるのだった。




