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第九章【静かな余白】

 夜明け前の治癒棟は、音がない。


 正確には、音はある。

 だが――人の意識がそれを拾おうとしないほど、静かだった。


 リヴィアは窓際に立ち、まだ昇りきらない空を見ていた。

 氷冠砦の外郭は薄い靄に包まれ、夜と朝の境界が曖昧になっている。


(……眠れていない)


 自覚したのは、三度目の瞬きをした時だった。

 まぶたが重いのではない。むしろ、妙に冴えている。

 治癒士として、これはあまり良い兆候ではなかった。


 昨日の戦闘は、数字の上では「成功」だ。

 負傷者は想定より少なく、死者はいない。

 蒼燐竜も討伐され、前線は一時的に安定した。


 それでも。

 それでも胸の奥に、細い棘のようなものが残っている。


 リヴィアは自分の手を見下ろした。

 指先は白く、わずかに震えている。


(……まだ、残ってる)


 治癒魔法を使った直後に感じる、あの鈍い熱。

 いつもなら一晩で引くはずの感覚が、今日は、消えていなかった。


「無理、してないつもりなんだけど……」


 誰に向けるでもなく呟く。答えは返ってこない。

 廊下を歩く足音がして、リヴィアは顔を上げた。


「起きていたのか」


 アシェルだった。

 鎧は脱いでいるが、立ち姿はまだ戦場のままだ。


「……ええ、少し」


 彼はそれ以上踏み込まない。

 それが彼なりの気遣いだと、もう分かっている。


「治癒班の報告は?」

「大きな問題はないわ。ただ……」


 言いかけて、言葉を止めた。


 “ただ”の先にあるのは、説明できない違和感だ。

 数字にも報告書にもならない、感覚の話。


 アシェルは促さない。

 待つ人だ。


「……ルシアンが」


 名前を出した瞬間、アシェルの視線がわずかに鋭くなった。


「昨日、判断が早すぎたわ。正しかったけれど……身体が、追いついていない」

「……見ていた」


 短い返答だった。


「あの場面で前に出る判断をしたのは、見習いとしては異例だ。だが――」

「――“慣れてしまう”判断でもあった」


 二人の言葉が、同じところで重なった。

 沈黙が落ちる。

 アシェルは窓の外を一度だけ見た。


「俺は、彼を褒めた。青年として、だ」

「それが間違いだとは、思いません」


 即答だった。リヴィア自身、そう思っている。

 それでも胸が重いのは……褒めることで、彼を一段前へ押し出してしまった気がするからだ。


「ただ……」


 リヴィアは小さく息を吸った。


「あの子は、“戻る場所”を考えない判断をし始めているわ」

「……」


 アシェルは何も言わなかった。

 否定もしない。


 ──それが、答えだった。


 遠くで鐘が鳴る。

 夜明けを告げる音だ。


「少し、休め」


 アシェルはそう言って立ち去ろうとしたが、扉の前で一度だけ足を止めた。


「リヴィア」

「はい」

「君もだ。自分の限界を……見誤るな」


 その言葉は、命令でも忠告でもなかった。

 ほとんど、祈りに近い。


 彼が去ったあと、治癒棟は再び静寂に包まれる。

 リヴィアは椅子に腰を下ろし、そっと目を閉じた。

 まぶたの裏に浮かぶのは、昨日の光。

 治癒の青が、一瞬だけ白に近づいたあの感覚。


(……気のせい、よね)


 そう言い聞かせる。


 けれど、心のどこかで知っている。

 気のせいで済むなら、治癒士は皆、長生きしている。


 外で風が吹き、砦の旗が鳴った。


 それは始まりの合図ではない。

 だが、確かに――もう、何かが動き始めている音だった。



 第九章 了

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