一.炎心にうごめく
この体液のあるじを導き出せずにいる。
上体を起こし、全身を見回す。血糊は敷布団とティーシャツの腰のあたりに広がっていた。しかし、痛みはなく、傷口も見当たらない。
手についた血が腰や布団を汚したのか、それとも腰か布団についた血が手を汚したのか。できれば後者であって欲しいが、その場合の原因は思い浮かばない。前者であった場合は……。
「嘘だろ。誰か夢だと言ってくれ」
ふと横を見やると少女が立っていた。青い髪、地味な外套、いつもどこか影を落としたような表情には見覚えがある。つい先程まで見ていた夢の少女がそこに居た。ぱっと見では少女に流血の痕はない。
「良かった。無事だったか。君を怪我させたのかと思った」
「ん?」
少女は首を傾げた。表情に動きはない。
「そんな顔で見詰めないで欲しい。だって、これ……大出血」
「ん?」
「やっぱり夢と同じで、言葉は通じないか」
「ムクアート。ムック」
少女は自分を指差して、そう言った。
「……ムック」
俺が反芻すると、夢の少女ムックはうなずいた。そっか、それが君の名前か。知ることができて良かったと、素直に思う。しかし、ムック。どうしてそんな無頓着にたたずんでられる。もっと見てくれ、この洒落にならない液体を。あるいは見慣れた場景だとでも?
「ん?」
ムックは俺を指差す。ムックの中では、いま話の流れはどうやら自己紹介どきらしい。
心は混濁しきっている。どういう原理でこの状況が成り立っているのか、想像は遥か及ばない。それでも俺は考えることを放棄した。ムックのふるまいに集中し、コミュニケーションを取らなければ、話がこじれるだけだ。
「北」
「キ、タ」
「うん。北と、ムック」
「ポットクルチトン、北」
「うん。よろしく、ムック」
会話に成功したようだ。「どこから来たのか」という質問は飲み込んでおく。見当もつかない場所から見当もつかない方法でやって来たのだろう。
「北」
「どうした?」
ムックは近寄ってきて俺の背後に手を向けた。早口に何かを唱えるとあわい緑の光が広がり、布団と俺の腰元を包み込んだ。見ていると、血糊が徐々に薄れ、消えていった。
「魔法か」
「フォルテュナ」
「フォルテュナか」
ムックは小さくうなずく。
『ただいま電話にでることができません──』
麻実にムックのことを報告しようと思ったが、まだ寝てるようだ。
ちゃぶ台の対面に座るムックが俺の携帯端末をいぶかしそうな目で見つめていた。俺は端末を左右に振ってみせ、「電話」と言った。
「電話か」
「うん。ムックの電話は?」
ムックは「んー」と、しばらく考えていたが、首を横にふる。こういう端末は存在しないのかもしれない。番号交換はできなさそうだ。
一緒に居るのが麻実だったら「しーーーん」と言いたくなる空気がただよっている。部屋の四隅にそれぞれベッド、パソコン、クローゼットと箪笥、冷蔵庫に電子レンジ、そして中央にちゃぶ台がひとつ。このワンルームには静けさを打ち消す機器は何もない。パソコンはスピーカーが壊れていてイヤホン専用だ。
話したいことは山ほどあるのに、初めての体験だった。
「それにしても──」
ムックは表情に乏しい。常に無表情で、そこに時折困惑の色か、無理に繕ったような微笑のどちらかを見せる程度である。
「ん?」
積極的なことは確かだ。俺のぼやきに逐一反応し理解しようとする。その一連の動作が癖であるかのように思える。
「ん?」
「いや、何でもない」
ムックはうつむいて「困ったな」という風に微笑む。容姿は年下に見えるけど、俺にはその仕草が少し大人びて写った。
君の目的は何だろう、そう訊ねたかった。夢の中で決意したことは忘れていない。困っている様子のムックに手を貸してあげたいのだ。言葉の壁は大きく、それを口で伝えることは難しい。だから、ムックのほうから動きがあるのを待つしかない。
でも、待っているだけというのは性にあわない。
「ムック。うん?」
立ちあがって、お腹をさすりながらそう言ってみせる。
俺は態度で示してみることにした。
冷蔵庫から食材を取り出しムックに見せる。どこの出身だか分からないが、卵とハムなら普遍的に食されているように思えた。どちらも賞味期限は問題ない。
「これでいい?」
ムックは掲げられた食べ物にただ視線をよせるだけで返事はなかった。拒否しないところをみて、俺は調理に移った。四角いフライパンに卵とハムを落として炒める。目玉焼きの味付けに迷いつつ、食パンをトーストする。
配膳した目玉焼きの味付けは塩こしょうだ。食文化の違いを考慮して塩がベターだったかもしれない。しかし飾り気を出さずにはいられなかった。
静かに食べていたムックが反応を見せたのは食パンをかじったときだ。
「──────」
何と言ったか聞き取れはしなかった。「こんなに美味しいパンは初めてだ」とでも言うかのように目玉焼きそっちのけでたいらげた。
「もう一枚?」と指を立ててみせると、目をそらしながらも頷いた。
新しいトーストを渡すと、今度は目玉焼きやハムと交互に、全てたいらげてしまった。微笑ましい光景だった。彼女なんていたことないが、もしいたとしたらこういう気持ちに浸っていられるのだろうか。
ムックのそばにいて、世話したい気持ちがわいてくる。たぶん付き合いたいわけではない。従者というのも何だか大袈裟で、付き添いという言葉がしっくり来るような気がした。ムックがいったい何をしたくてやってきたのかは知らない。だけど、その目的を果たすまで支えてあげたいと思った。
『ピリリリ……』
着信音がなった。おそらく麻実だ。そう思い、携帯端末に手を伸ばす。
と、視界のすみでムックが大きく動いたのが見えた。次の瞬間、端末がまばゆく煌めき、耳元でクラッカーを鳴らしたような爆発音がした。
「あっつ」
プラズマが飛び、そのうちのひとつが俺の頬をかすめる。
卓上の端末に空いた風穴。穴のふちは熱で発光し、やがて煙をあげて黒くなった。端末の周りは放射状に焦げてしまっている。臭いが鼻を突いて、せきこんだ。
冷静を取り戻したらしいムックが俺から顔をそむける。
「フォルテュナか」
ムックは小さく頷いただけだった。
「き、きにするなよ。これくらい大丈夫だから」
エアコンと空気清浄機の電源を入れる。冷房を入れるには時期が早いが、換気しなければ有害そうな臭いがたちこめていた。
「なんだ。ずいぶん騒がしい朝だ」
背後に知らない者の気配が迫った。振り返ると白狼がいた。




