プロローグ:炎の中に生まれた剣
# プロローグ炎の中に生まれた剣
その日、鉱山都市ベルナでは、町中の槌が止まっていた。
いつもなら夜明け前から響いているはずの金属音も、荷車の車輪が石畳を削る音も、鉱夫たちの威勢のいい掛け声も聞こえない。
人々は皆、町の中央広場へ集まっていた。
商人も、鉱夫も、旅人も。
普段は工房から出ようとしない頑固な鍛治師たちまで、今日ばかりは煤に汚れた作業着のまま広場を埋め尽くしている。
広場の中央には、この日のためだけに造られた巨大な炉があった。
黒い耐火煉瓦を幾重にも積み上げ、三つの送風口と、七本の太い煙突を備えた特別な炉だ。
炉の中では、昼の太陽にも負けないほど強い炎が渦巻いている。
その正面に、一人の老人が立っていた。
ガルド・レグナス。
王国一の鍛治師。
王侯貴族の宝剣から、竜殺しの槍、魔物の軍勢を退けた大盾まで、数え切れないほどの名品を生み出した生ける伝説。
老人の髪も髭も雪のように白かったが、炉の前に立つ背中は岩壁のように大きい。
右手には、長年使い込まれた鍛造槌。
左手には、黒く煤けた火箸。
その一挙手一投足を、広場に集まった誰もが息を潜めて見守っていた。
人混みの最前列近くで、八歳の少年――カイル・フェルドは、背伸びをしながら炉を覗き込んでいた。
「カイル、あまり前に出るな。危ないぞ」
後ろから父親に肩をつかまれる。
「見えないんだよ」
「なら肩車してやる。ほら」
大きな手で持ち上げられ、カイルの視界が一気に開けた。
広場の中心が、よく見える。
炉の脇には、銀色の鎧を着た騎士たちが整列していた。
その後ろには町の領主と、王都から来た役人たちが並んでいる。
今日打たれる剣は、ただの武器ではない。
王国の新たな象徴として、王家へ献上される魔剣だった。
材料には、北方の山脈で採れた黒鋼。
地底竜の骨粉。
百年ものの火属性魔石。
落雷を受けた霊木の炭が使われているという。
カイルには、それがどれほど貴重なのか、正確には分からなかった。
ただ、大人たちの顔を見れば理解できる。
これからここで、二度と見られない何かが生まれる。
「始まるぞ」
誰かが呟いた。
広場から、最後のざわめきが消えた。
ガルドが炉の前へ歩み寄る。
弟子らしき鍛治師たちが、左右の送風機を動かし始めた。
巨大な革袋が膨らみ、縮む。
ごうっ、と炎が唸った。
炉の奥で、何かが赤く輝いている。
ガルドは長い火箸を差し込み、それをつかんだ。
ゆっくりと引き出されてきたのは、剣の形にはほど遠い、黒銀色の鉄塊だった。
カイルは、それから目を離せなかった。
普通の鉄とは違う。
赤熱した表面を、細い光の筋が這っている。
血管のように。
あるいは、暗闇の中を走る稲妻のように。
鉄塊が金床へ置かれる。
ガルドが槌を掲げた。
その瞬間、風が止まった。
炉の炎まで、老人の一打を待っているように見えた。
振り下ろされる。
カン――。
澄んだ音が広場を突き抜けた。
カイルは、思わず息を止めた。
それまで何度も鍛治場の音を聞いたことはある。
町に住んでいれば、鉄を叩く音など珍しくもない。
だが、その音は違った。
耳で聞くより先に、胸の奥へ飛び込んでくる。
空気を震わせ、石畳を震わせ、見ている者の心臓まで打ち鳴らすような音。
ガルドは続けて槌を振るった。
カン。
カン。
カァン。
一打ごとに、鉄塊の形が変わっていく。
潰され、延ばされ、折り返される。
折り返された鉄が重ねられ、再び炎へ入れられる。
熱せられた鉄を見つめるガルドの目は、一瞬たりとも揺れなかった。
弟子が炭を足す。
別の弟子が送風を強める。
炎の色が、赤から橙へ、橙から白へ変わっていく。
炉の前は、離れていても肌が焼けるほど熱い。
それでもカイルは、瞬きすら惜しかった。
「すごい……」
知らず、声が漏れる。
父親が何か答えたが、もう耳には入らなかった。
カイルの世界には、炎と、鉄と、槌の音しかなかった。
何度目かの加熱を終えたときだった。
炉から引き出された鉄が、突然激しく燃え上がった。
広場のあちこちから驚きの声が上がる。
炎は赤ではなかった。
中心が黒く、その周囲を深紅の火が取り巻いている。
まるで夜の闇そのものが燃えているような、異様な炎だった。
黒赤い火が、鉄へまとわりつく。
弟子の一人が後ずさった。
「先生、魔石の出力が――」
「触るな」
ガルドの低い声が響いた。
「炉を閉じるな。風も止めるな」
「ですが、このままでは……!」
「予定どおり続ける」
老人は炎を恐れていなかった。
いや。
カイルには、恐れていないようには見えなかった。
ガルドの額には汗が浮かび、槌を握る指には力がこもっている。
それでも逃げず、燃え盛る鉄の前に立っていた。
カイルは、黒赤い炎を見つめた。
そのとき、炎が揺れた。
ただ風に煽られたのではない。
広がった火が、何かの輪郭を形作った。
細い腕。
長い髪。
小柄な少女の横顔。
炎の中に、誰かがいる。
「女の子……?」
カイルが呟いた。
「どうした?」
父親が尋ねる。
「あそこに、女の子がいる」
「どこだ?」
「火の中」
父親は炉を見てから、困ったように笑った。
「炎が人の形に見えたんだろう。よくあることだ」
しかしカイルには、見間違いだとは思えなかった。
炎の少女は、確かにこちらを向いた。
顔はよく見えない。
それでも、目が合った気がした。
少女の口が動く。
声は聞こえなかった。
ただ、その表情は苦しそうだった。
助けを求めているようにも見えた。
次の瞬間、ガルドの槌が振り下ろされた。
カァン――!
黒い炎が弾け飛ぶ。
火の粉となった少女の姿が、空へ散った。
「あっ……」
カイルは思わず手を伸ばした。
だが火花は高く舞い上がり、昼の光へ溶けて消えた。
金床の上には、すでに剣の姿を得つつある刀身が残されていた。
真っ直ぐに伸びた黒銀の刃。
その中央を走る、赤い筋。
まるで炎が金属の中へ閉じ込められたようだった。
そこから先の鍛造は、カイルには夢のようだった。
ガルドが打つたび、剣は完成へ近づいていく。
刃が整えられ、峰が生まれ、切っ先が形作られる。
水ではなく、魔石を沈めた黒い油へ刀身が入れられた。
激しい蒸気が噴き上がる。
蒸気の中から、ガルドが剣を引き抜いた。
黒銀の刃には、炎を思わせる赤い紋様が浮かんでいた。
磨き上げられた剣を、待機していた騎士が受け取る。
騎士は両手で柄を握り、高く掲げた。
陽光が刀身へ当たる。
赤い紋様が眩く輝いた。
その瞬間、剣から熱風が広がった。
広場を覆うように赤い光が立ち上り、上空で翼の形に広がる。
人々から歓声が爆発した。
「おおおおっ!」
「魔剣だ!」
「炎の魔剣だぞ!」
「さすがガルド様だ!」
帽子が投げられ、手が叩かれ、誰もが完成した剣を称えていた。
領主も、騎士も、鍛治師たちも興奮に顔を輝かせている。
父親の肩の上で、カイルも歓声を上げた。
胸が熱い。
呼吸が苦しくなるほど心臓が鳴っている。
あの剣は美しかった。
剣を掲げる騎士も勇ましかった。
けれどカイルが見つめていたのは、剣を作った老人の方だった。
たった一本の剣を生み出しただけで、これほど多くの人を驚かせ、喜ばせることができる。
何もなかった鉄の塊が、人の手で形を与えられ、魔剣に変わる。
それは魔法よりも、奇跡よりも、カイルにはずっとすごいことに思えた。
「父さん」
「なんだ?」
「俺、鍛治師になる」
父親は一瞬黙り、それから楽しそうに笑った。
「そうか」
「ガルド様みたいになる」
「大きく出たな」
「いつか、あの剣よりすごい魔剣を作る」
カイルは拳を強く握った。
「世界で一番強い魔剣を作るんだ」
「まずは槌を持てるくらい大きくならないとな」
「もう持てる」
「うちの薪割り槌もろくに持てないだろう」
「あれは重すぎるんだよ」
父親が声を上げて笑う。
カイルは頬を膨らませながらも、再び広場の中央を見た。
完成した魔剣の周囲には、大勢の人が集まっている。
騎士たちは性能を確かめ、役人たちは満足そうに頷き合っていた。
その輪から少し離れた場所で、ガルドだけが静かに立っていた。
王国一の鍛治師は、歓声にも、称賛にも応えない。
自らが作った魔剣を、険しい表情で見つめている。
まるで、完成を喜んでいないようだった。
剣が、かすかに震えた。
鞘へ収められる前の刀身が、脈打つように赤く明滅する。
だが、その異変に気づいた者はいない。
騎士も。
役人も。
歓声を上げる町の人々も。
ただ二人だけ。
ガルドと、カイルだけがそれを見ていた。
カイルは、魔剣が自分を呼んでいるのだと思った。
いつか、この剣を超えるものを作れと。
一方でガルドは、観客の中にいるカイルを見つけていた。
父親の肩の上で目を輝かせる少年。
完成した魔剣を見つめる、憧れに満ちた瞳。
その目を見た瞬間、ガルドの顔から血の気が引いた。
遠い昔。
鏡に映った若い自分も、同じ目をしていた。
強い剣を作りたい。
誰も見たことのない武器を生み出したい。
自分の技術で世界を驚かせたい。
純粋で。
真っ直ぐで。
だからこそ、何よりも危うい願い。
ガルドは槌を握る手を強くした。
「……また、同じ目をした子どもが現れたか」
その呟きは、広場の歓声にかき消された。
誰にも届かない。
カイルにも。
父親にも。
魔剣を掲げる騎士にも。
だが、黒銀の刀身の奥で、赤黒い炎が一度だけ揺れた。
それは、閉じ込められた何者かが笑ったようにも。
あるいは、泣いたようにも見えた。
八歳のカイル・フェルドは、この日、人生の目標を見つけた。
いつか、世界で最も強い魔剣を打つ。
このときの少年は、まだ知らない。
自分が憧れたその剣が、どれほど多くの血を求めることになるのか。
王国一の鍛治師が、なぜ完成した魔剣を前に笑わなかったのか。
何一つ、知らなかった。
ただ、胸の中には槌の音が残っていた。
カン――。
カン――。
カァン――。
少年の運命を打ち延ばすように。
その音は、いつまでも鳴り続けていた。
初投稿です!よろしくお願いいたします!




