4.戦いの結末
「気を失ってしまいましたか」
白目を剥くフェリクスを見下ろし、イドラは不服そうに呟く。
「邪神は人間にとっては恐怖の対象だ。貴様が小僧を敬愛しようと、小僧が貴様に情を抱くことはない」
恐怖と破壊の象徴である邪神。
かつてはかの魔族──バルクレスもその闇に飲み込まれた。
人間が召喚した邪神によって、魔族の住む世界は壊滅的な打撃を受けた。当時は幼かったバルクレスの脳にも鮮明に刻まれた忌々しい記憶だ。
何もできずに逃げることしかできなかった無力感。両親に逃がされ、仲間を見捨て、懸命に逃げた自分への不甲斐なさと、世界を支配するほどの力を有した邪神への恐怖。
幼い自分とフェリクスの姿を重ね、バルクレスは吐き捨てる。
「大人しく従っておけば、殺さずに済んだものを」
滲み出る悔しさを噛み締める。
バルクレスはフェリクスを救おうとしていた。邪神を召喚できる力を得てしまった哀れな子供を救いたいと思っていた。延いてはそれが魔族を、世界を救うことに繋がるからだ。
恩寵などというまやかしの神を信じ、過ぎた力を求める人間に同情の余地はない。
しかし、子供は違う。まだやり直せる。そう信じていた。
「いや、先に刃を向けたのは俺か。仇敵を前にして冷静さを失った俺の落ち度だな」
数百年ぶりに人間を目にした時、抑えきれなかった殺意。フェリクスがいなければ、バルクレスは既に人間を殺していただろう。
結果、穏便な話し合いは叶わず、フェリクスを脅す形になってしまった。
フェリクスが力に目覚めることになってしまった。
最初からこうなることは決まっていた。たったひとつの過ちが邪神を再来させるきっかけを作ってしまったのだ。
「皆、すまない。せめて、自身の汚名は自身で拭おう」
「何を言っているのかわかりませんが、そろそろいいですか?」
決意を新たにしたバルクレスの眼前に切っ先が迫る。
レイピアによる連撃ように襲いかかる触手を避け、バルクレスが距離を取る。
触手が届かない範囲に逃げなければ。触手は全てイドラから伸びている。彼女を視界に入れておけば、攻撃を見切ることはそう難しくない。これまで積んできた戦闘経験からそう判断した。
しかし、逃げ道を塞ぐ触手が背後からその背中を貫いた。
痛みに顔を歪ませ、触手を引きちぎる。恨めしく背後に目をやると、それは自分の甘い思考を嘲笑うかのように地面に消えていった。
「貴様……地中に触手を忍び込ませていたのか」
「殺し合いの最中に過去に思いを馳せるとは、随分と悠長なことですね。よくこれまで生きられたと感心すらしてしまいます」
「貴様には理解できないだろうな。邪神を崇拝し、邪神となった貴様ら狂信者には」
「神を崇拝? おかしなことを言いますね」
これまでバルクレスの言葉を冷静に、淡々と受け流していたイドラだったが、初めて怒気含んだ声色に変わる。
逆鱗に触れたか。自身の感情に飲まれて他者の心の機微を読み取れないバルクレスにもそう判断できるほど、その声は冷たく、その目は憤怒に満ちていた。
バルクレスの知るイドラたちの行動理念とイドラの心情。そこには相互理解などとうにできないほどの大きな隔たりがあった。
イドラたちが目指す理想郷は、神への崇拝とは真逆の道を歩むものだったからだ。
「わたくしたちは神を排し、神を殺す者。『無神の花園』と、そう呼んでいます」
「ふん。貴様らが殺そうとしたのは神ではなく世界だろう。魔神様を殺し、俺たちの世界に絶望をもたらした。それは、貴様らの神が他の神の存在を許さない邪神だからだろう」
「いいえ。違います」
きっぱりと否定するイドラ。噛み合わない会話にバルクレスも少しずつ違和感を持ち始めていた。
この世界の恩寵とは、その種族が信じる神により与えられる奇跡だとされている。
人間であれば人母の女神『マリア』。亜人であれば人間と亜人との心を繋ぐ男神『リンク』。魔族であれば、古来より崇拝される安寧と静寂の神、魔神『アナゼル』を信仰し、それら神により恩寵が与えられる。
イドラをはじめとした狂信者が崇拝するのは、世界を滅ぼさんとする邪神『エクシティウム』。
その恩寵は、世界を滅ぼすほど強大な自身の力を分け与えるというものだ。
「わたくしたちは、恩寵という呪いをこの身に宿した神を許さない。神を殺し、恩寵を廃し、この世界に呪いのない正しい秩序をもたらす。それがわたくしたちの目的です」
そう告げたイドラの瞳はバルクレスを見てはいなかった。
もっと先の、遥か高みに手を伸ばし、その首に刃を向ける。
数十年前にイドラの仲間たちにより魔神が殺された時、魔族の中でその首謀者がエクシティウムの崇拝者であると断定された。
人ならざる姿。人智を超えた力。その特徴こそ、話に聞いていた邪神の恩寵と類似していたからだ。
魔族の領域を踏み荒らしたコルやアニマの名前が本人の口から出たことからも仲間であることは間違いない。
しかし、その目的は、原因は別にある。魔族が思い違いをしていたのか。或いは、偽りの動機を植え付けられたか。
イドラの真意を確かめなければならない。そう思い、バルクレスは口を開く。
「邪神……いや、イドラよ。貴様は──」
「バルクレス、時間切れです」
どこからともなく声が聞こえた瞬間、バルクレスの影が割れ、黒い人型の異形が姿を見せた。
やがてドロドロとした黒い幕は剥がれ、一人の女性が姿を表す。
黒く艶やかな長い髪。ルビーのように赤い瞳。蝶が刻印された扇子がひらりと舞い、黒一色のドレスの背中には小さな翼が生えている。
どれも魔族の特徴と一致しているが、バルクレスよりも薄い色素の肌は人間に酷似していた。
「フィサロ……」
「ここは引きますよ。私たちだけでは邪神の忌み子には傷ひとつ付けられませんから」
フィサロと呼ばれた女は忌々しくイドラを睨む。双方顔を合わせるのは初めてだったが、イドラはその真っ赤な瞳からただならぬ思いを感じ取る。
バルクレスといいこの女といい、魔族とは無関係な自分に対しこうも明確な敵意を向けてくるあたり、魔族はこの恩寵を持つ人間を余程嫌っているのだろう。
或いは、コルかアニマが裏切り、本当に魔族を蹂躙したか。
どちらにしても今は関係のない話だとイドラは切り捨てる。
彼女がバルクレスに対して敵意を持っているのは、偏に主を害そうとしたからに他ならないからだ。
「大人しく逃がすとお思いですか?」
フィサロという女に恨みはないが、バルクレスを連れて行かれるわけにはいかない。
この男は危うく主を殺しかけた。いや、明確な殺意を持って殺そうとした。バルクレスを殺すのにそれ以上の理由は必要ない。
牽制の最中にも触手を散らして逃げ道を塞ぐ。地中からの奇襲はもう見せた。次は対処されるだろう。
破壊力はあっても奇策や搦手には乏しい。それがイドラの恩寵の特徴だ。
今度は物量で確実に仕留める。そのための準備を進める。
「傷は付けられなくとも、逃げることは容易ですよ。試してみますか?」
余裕か慢心か。目の前の女は不敵に笑う。
先程の影から出てきた謎の能力。あれがフィサロの恩寵であることは間違いない。
ただ、詳細は掴めずにいる。繋がった影を移動する力なのか。それとも影を伝うテレポートの類か。その対象はどうやって選択するのか。自分だけなのか。それとも触れた相手も対象になるのか。はたまた範囲を指定しているのか。
いくつもの可能性を模索し、それぞれの対応策を考える。
影に潜るスピードは、恐らくそう速くない。もしも一瞬で移動できるのであれば、傷ひとつ付けられないなんてことはありえない。
いや、それすらブラフということも有り得る。
警戒心を緩めず、相手の動きを窺う。
勝負は一瞬。フィサロが動きを見せた瞬間に決着する。
刹那、眼前の女が口角を緩めた。
「そう警戒せずとも、私の言葉に嘘はありませんよ」
フィサロの足元が黒ずむ。先程影から姿を見せた時と同じ、沼に引きずり込むような粘性のある影だ。
イドラは反射的に数本の触手を伸ばす。一つひとつが当たれば致命傷。二人を二つの肉塊にする物量の暴力。
一瞬の勝負を見極め、身構えていた分イドラの方が一手速い。全身が影に包まれる前に触手が二人を叩き潰せる。
はずだった。
パチン、と静寂をもたらす音が鳴る。
時間が止まったかのような錯覚を覚えた。扇子を閉じただけ。ただ、それだけの音だった。
フィサロの周囲に真っ黒な蝶が舞う。
既に人ならざる力を手にしたイドラにとって、蝶諸共フィサロを叩き潰すことは蟻を踏み潰すのと大差ない。
そのはずなのに、触手が微動だにしない。見えない何かに阻害され、力任せに押し込もうと一点に切っ先を集中させようとフィサロまで触手が届かない。
「『不傷の界』。彼らの鱗粉が届く範囲では何人たりとも傷つくことはありません」
イドラが抱いていた疑問の答えが術者本人からもたらされる。
勝ち誇った表情のフィサロ。しかし、イドラは自ら種明かしをするとは愚かなものだと内心辟易する。
攻撃が届かない原因がわかれば対処はそう難しくない。今すぐその顔を苦痛に歪めることもできるだろう。
それでもイドラは動かなかった。いや、動けなかった。
無茶をすれば、背後で気を失ったままの主を傷つけるかもしれない。そうなれば実質敗北したようなものだ。だから静観するしかない。
まさかこの女がそこまでイドラの事情を理解しているとは思えないが、今この場でイドラを封じるには有効な手段だったことは間違いない。
「これが私の奥の手であり、これ以上仲間をあなたたちに傷つけさせない私の覚悟です」
「そうですか。それはご苦労なことですね」
本心と煽りの半々から出た言葉だったが、フィサロは気に食わなかったのか余裕を見せていた顔を歪ませる。その表情だけでイドラの溜飲は少しだけ下がった。
「次はありませんよ。必ずあなたを殺しに来ます。その気色悪い触手も好き者には高く売れそうです」
「お気に召したのならお土産にどうぞ。貴女の仲間が千切った断片がそちらに転がっていますから」
「結構です。私は忌々しい邪神に触れるのもおぞましいので」
短い煽り合いの末、魔族を取り囲っていた蝶の数が増していく。
やがて二人は黒い影に包まれ、蝶が高く舞う頃にはその姿は跡形もなく消えていた。
相対する敵が居なくなり、木々のざわめきが残る。
そこには気を失った人間と幾重にも伸びた自身の半身が蔓延るだけだ。
「忌々しい姿ですね」
その声は誰に届くこともなく、静寂に飲み込まれた。




