第5話 俺の夢は、世界を旅することでした
その夜。
風の音が次第に大きくなり、東京の夜が揺れ始めた。窓ガラスがカタカタと鳴っている。人々は外出を控え、街中が明日の台風に備えて必死だった。
俺はというと、六畳間の真ん中で、布団と向かい合って正座していた。
「まずは、この布団の正体を突き止めなければ……」
奇妙なことを、いくつか挙げてみる。
一つ目は、やけに高いこと。ベッドで50万円なら探せばありそうだが、布団で50万円なんて聞いたためしがない。素材は? 生地は? 一体、何が使われているんだ?
二つ目は、寝ている間に自由に移動できること。心の中で行きたいと思ったところに連れて行ってくれる。夢にまで見たフランス、憧れの北の雪国、そして沖縄。どれも、俺が心のどこかで行きたいと願っていた場所だ。
三つ目は、見えないシールドのようなものに守られていること。パリにいたとき、街の人たちに俺は見えていないようだった。雪国では寒さを感じず、雪も肌に当たらなかった。これは間違いなく、見えない何かに守られていると言える。
ただ、昨日の沖縄は違った。台風の雨風がまともに俺を襲ってきた。しかも、記者にはしっかり見られていた。それなのに、飛んできた流木からはちゃんと守ってくれた。
この違いは、一体何なのだろう。
腕を組んで唸っていると、ふと、部屋の隅からつんとした匂いが漂ってきた。
昨夜、ずぶ濡れになったスーツだ。ハンガーにかけたまま放置していたせいで、雨と汗と、居酒屋の焼き鳥の煙が混ざった、なんとも言えない匂いを放っている。
……居酒屋。
そうだ。昨日の夜、俺は飲んで帰ってきて、風呂にも入らず、スーツのまま布団に倒れこんだ。
じゃあ、パリの夜は? 北の雪国の夜は?
俺は指を折りながら、思い出してみた。
パリの夜。ゆっくり風呂に浸かり、お気に入りのパジャマに着替えて寝た。
雪国の夜。定時で帰って、やっぱり風呂に入り、パジャマで寝た。
沖縄の夜。酔っぱらって、風呂にも入らず、スーツのまま倒れこんだ。
物件の比較表を作るのは、仕事で嫌というほどやっている。並べてみれば、違いは一目瞭然だった。
「……お前、もしかして、綺麗好きなのか?」
布団は答えない。
でも、そう考えるとすべて辻褄が合う。きれいな体で寝た夜は、行きたい場所に優しく連れて行ってくれて、見えない膜で守ってくれた。汚れたまま寝た夜は、最悪の場所に放り出され、人には見られ、雨風にさらされた。そのくせ、自分だけはしっかり乾いていた。
つまり、あれは罰だったのだ。
「……すみませんでした」
俺は布団に向かって、深々と頭を下げた。50万円の布団に土下座する25歳。誰にも見せられない光景だ。
*
仮説は、確かめなければ意味がない。
俺はいつもより念入りに風呂に入った。シャンプーは二回。体も隅々まで洗った。洗濯したての、一番お気に入りのパジャマに袖を通す。
布団の横に座り、そっと手を置く。
「昨日は悪かった。今日は、ちゃんとしてきたから」
気のせいか、布団がほんの少しだけ、ふくらんだ気がした。
行き先は、もう決めていた。
沖縄だ。
台風はもう東京に向かってきている。ということは、今ごろの沖縄は、嵐が過ぎ去ったあとのはずだ。
青い海、白い砂浜、満天の星空。修学旅行で見られなかった、あの沖縄。
窓の外では、東京の風がごうごうと唸っている。俺は布団にもぐりこみ、目を閉じた。
*
波の音が、聞こえた。
目を開けると、頭上いっぱいに星が広がっていた。
数えきれないほどの光の粒が、夜空を埋めつくしている。その真ん中を、白くかすむ川のような帯が流れていた。
天の川だ。本物を見るのは、生まれて初めてだった。
布団の下には、白い砂浜。目の前には、星明かりを映して静かに揺れる海。昨日の地獄が嘘のように、風はやさしく、空気はほんのりと温かい。
台風一過の、沖縄の夜だった。
浜辺を散歩していた老夫婦が、俺のすぐ横を通り過ぎていく。こちらには、まったく気づかない。
見えていない。
守られている。
仮説は、当たった。
「……やっと、来られた」
思わず、声がこぼれた。
その瞬間、頬を何かが伝った。
……あれ?
指で触れると、濡れていた。雨じゃない。今夜は、一滴も降っていない。
泣いているのだと気づいたら、もう止まらなかった。
なんでだろう。きれいな景色を見ただけなのに。修学旅行に来られなかったのが、そんなに悔しかったのか。いや、違う。そうじゃない。
子どものころ、俺は本が好きだった。図書館で世界地図の載った図鑑を借りては、知らない国の名前を指でなぞった。テレビでは、「世界の端まで行ってきマス!」や「地球のすみっこに日本人!?」を毎週欠かさず見ていた。画面の向こうで、芸人が見たこともない絶景に叫び、遠い国で暮らす日本人が笑っていた。
大人になったら、世界中を旅するんだ。
あのころの俺は、本気でそう思っていた。
それがいつからだろう。受験があって、就活があって、気づけば朝から晩まで物件を案内し、終電で帰って、布団に倒れこむだけの毎日になっていた。生き甲斐なんて言葉は、とっくにどこかへ置いてきた。夢があったことさえ、忘れていた。
人に「住む場所」を売りながら、自分がどこで、どう生きたいのかを、一度も考えてこなかった。
「……行きたかったんだよなあ、俺」
星空がにじんで、よく見えない。
もっと、いろんな景色を見たい。いろんな人に会って、いろんな話を聞きたい。たくさんの経験をして、狭くなってしまった自分の世界を、もう一度広げたい。
波の音が、ただ静かに、俺の泣き声を包んでいた。
布団が、背中のあたりで、ほんの少しだけ温かくなった気がした。




