表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/51

1.




⭐︎1.







――時は幕末。


 夜の帳が落ちる。


 表の町では決して語られない、もう一つの江戸。


 地下深く。


 迷路のように続く回廊の先に、人知れず存在する遊郭があった。


 ここでは身分も名前も過去も意味を持たない。


 客は一夜限りの夢を買い。


 遊女は一夜限りの幸せを売る。


 朝になれば、すべては幻のように消えてしまう。


 そんな闇を支配している男がいた。


 御影弓弦。


 美しい笑みを絶やさず。


 誰より穏やかで。


 誰より恐ろしい男。


 薬も、人身売買も、武器も。


 この地下で流れるあらゆる裏の金は、最後には彼の元へ集まると言われていた。


     ◇◇◇


「……今日も笑ってる。」


 弓弦は廊下の向こうを歩く一人の遊女を眺め、小さく呟いた。


 ほたる。


 この遊郭でも一、二を争う人気遊女だった。


 黒髪を美しく結い上げ。


 柔らかな笑顔を浮かべ。


 誰に対しても優しい。


 泣いている女がいれば寄り添い。


 酔いつぶれた客にも穏やかに微笑む。


 こんな場所にいるには、あまりにも綺麗すぎる女だった。


「ほたる。」


『はい。』


 名前を呼ぶだけで。


 花が咲くような笑顔が向けられる。


「少し付き合って。」


『……はい。』


 断らない。


 それが仕事だから。


 けれど弓弦は知っていた。


 彼女は誰にでも笑う。


 だからこそ。


 自分だけを見てほしいと思ってしまう。


     ◇◇◇


 静かな座敷。


 障子越しに揺れる行灯の灯。


 酒を酌み交わし、他愛のない話をする。


 ほたるは本当に楽しそうに笑う。


 だから。


 弓弦も自然と笑っていた。


「疲れてない?」


『大丈夫です。』


「嘘。」


『ふふ。』


「少しくらい甘えてもいいのに。」


 そう言って。


 弓弦はそっと彼女の頬へ触れた。


 ほたるは一瞬だけ驚いたように目を丸くする。


 けれど抵抗はしない。


 静かな空気の中。


 二人の距離がゆっくり近づく。


 優しく口づけを落とす。


 それだけだった。


 互いの息遣いだけが聞こえる静かな時間。


 こんな世界だからこそ。


 一瞬だけ、本当の恋人のような錯覚を見せる。


 しかし――


 その静寂は。


 激しい音で破られた。


「奉行所だ!!」


 障子が勢いよく開かれる。


 侍たちが一斉になだれ込む。


 刀を抜き放ち、遊郭中へ散っていく。


「一人残らず調べろ!」


「逃がすな!」


 悲鳴が響き渡る。


 遊女たちは震え。


 客は逃げ惑う。


 その中で。


 弓弦だけは苦笑していた。


「神崎、また仕事の邪魔するの?」


 その先に立つ男。


 奉行所同心・神崎晋也。


 真っ直ぐな眼差しで弓弦を見据える。


「仕事だ。」


「真面目だねぇ。」


 弓弦は肩をすくめる。


「でも。」


 くすりと笑う。


「俺は捕まえられないよ。」


 その笑顔が。


 神崎の神経を逆撫でした。


「……。」


 舌打ち一つ。


「全室改めろ。」


 侍たちが一斉に動き出す。


     ◇◇◇


「薬だ!」


「帳簿もある!」


「こっちにも!」


 次々と押収されていく証拠。


 地下牢には攫われた人々。


 薬の在庫。


 売買記録。


 十分すぎる証拠。


 黒瀬が縄を手に弓弦へ歩み寄る。


 だが。


「やめろ。」


 神崎が静かに止めた。


 黒瀬が眉をひそめる。


「ですが。」


「どうせ上と繋がってる。」


 低く吐き捨てる。


「今日捕まえても明日には釈放だ。」


 分かっている。


 だから腹が立つ。


「証拠だけ押さえろ。」


「他の連中は全員連れて行け。」


 侍たちは再び散っていく。


 遊郭は騒然となった。


     ◇◇◇


 その騒ぎの中。


 弓弦はただ一人だけを見ていた。


 ほたる。


 彼女は何も言わない。


 ただ静かに座っていた。


「……怖がらせたかな。」


 弓弦がそっと抱き寄せようとした、その時だった。


「おい。」


 低い声が響く。


「いつまでサボってんだ。」


「ーーほたる。」



 奉行所の侍――水城宗真だった。


「仕事だ。」


 その一言だけ。


 ほたるは深いため息をつく。


『……面倒。』


 ゆっくり立ち上がる。


 弓弦の腕から離れる。


 一瞬。


 二人の視線が交わった。


 そこには。


 さっきまでの優しい遊女はいなかった。


 氷のように冷たい目。


「お前、サボんなよ。」


『サボってない。』


「男と寝てただけだろ。」


『仕事。』


 乱れた着物を整え。


 水城から刀を受け取る。


 遊女ではない。


 一人の役人だった。


 弓弦は息を呑む。


「ーーほたる?」


 声に怒りが混じる。


 ほたるは冷たい視線だけ返した。


 神崎が歩きながら言う。


「ほたる。」


「帰ったら報告書。今日中。」


『……神崎さんは、人使い荒いなぁ。』


 不満そうに睨む。


 それだけだった。


 そのやり取りだけで。


 弓弦はすべて理解した。


 自分が可愛がっていた遊女。


 その正体は。


 奉行所が送り込んだ密偵だった。


 沈黙。


 やがて。


 弓弦は肩を震わせた。


「……ふっ。」


 笑う。


「ははは……!」


 楽しそうに。


 本当に楽しそうに。


「ほたる。」


 彼女は立ち止まる。


 振り返らない。


「またね。」


 一瞬だけ。


 冷たい横顔が見えた。


     ◇◇◇


「わぁ。」


 水城が肩を組む。


「気に入られてんじゃん。」


 ほたるは嫌そうに肩を払う。


『……うざい。』


 そのまま歩き出す。


『ーー死ね。』


 ぼそりと呟き。


 誰よりも早く現場を後にした。


 残された弓弦は。


 口元を押さえながら笑い続ける。


「なるほど。」


「……ただの籠の鳥じゃなかった。」


 あの冷たい瞳。


 あの狂気を秘めた表情。


「……欲しい。」


 弓弦は静かに目を細めた。

 

 まるで。


 新しいおもちゃを見つけた子供のように。



「どうやって手に入れようかな。」






     ◇◇◇






「――カット!!」


 一瞬で空気が変わる。







「お疲れさまでーす!」



「はい、撤収入りまーす!」



「照明お願いしまーす!」








 時代劇の世界は消え。



 巨大な撮影スタジオが姿を現した。





 スタッフが走り回り。


 カメラが止まり。


 マイクが外される。





 ほたるは、はだけた衣装の上からスタッフにそっとタオルを掛けられる。



『ありがとうございます。』



 深々と頭を下げる。




 長時間の撮影だったにもかかわらず。


 その笑顔は、劇中の遊女のよう。


 まるで太陽のように明るい笑み。


 若いADが思わず顔を赤くする。








「ほたるちゃん、本当にすごかった!」



 ディレクターが満足そうに拍手する。




「最高だったよ。」


 続けて弓弦にも笑顔を向ける。




「弓弦くんもさすが!」


「ありがとうございます。」



 弓弦も穏やかに頭を下げた。





 そのまま、ほたるへ歩み寄る。



「ほたるちゃん、お疲れさま。」


『御影さんも、お疲れさまです。』




 劇中の冷たい姿はどこへやら。


 花が咲いたような笑顔。



 そのギャップに思わず笑みがこぼれる。


 もう少し話そうとした、その時だった。






「ほたるー!」



 勢いよく飛び込んできたマネージャーが叫ぶ。





「次! 次の現場!」


「あと五分しかない!」


『えっ。』


「急いで!」


『はい!』




 慌ただしく荷物をまとめる。



 それでも。


 出口へ向かう途中。




 ほたるは立ち止まり。


 スタッフ一人ひとりへ丁寧に頭を下げていく。




『本日はありがとうございました。』





 その姿に。


 神崎が苦笑する。

  



「売れっ子は大変だな。」




 弓弦は何も答えず。


 最後まで礼を欠かさず去っていく彼女の背中を、静かに見送っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ