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――時は幕末。
夜の帳が落ちる。
表の町では決して語られない、もう一つの江戸。
地下深く。
迷路のように続く回廊の先に、人知れず存在する遊郭があった。
ここでは身分も名前も過去も意味を持たない。
客は一夜限りの夢を買い。
遊女は一夜限りの幸せを売る。
朝になれば、すべては幻のように消えてしまう。
そんな闇を支配している男がいた。
御影弓弦。
美しい笑みを絶やさず。
誰より穏やかで。
誰より恐ろしい男。
薬も、人身売買も、武器も。
この地下で流れるあらゆる裏の金は、最後には彼の元へ集まると言われていた。
◇◇◇
「……今日も笑ってる。」
弓弦は廊下の向こうを歩く一人の遊女を眺め、小さく呟いた。
ほたる。
この遊郭でも一、二を争う人気遊女だった。
黒髪を美しく結い上げ。
柔らかな笑顔を浮かべ。
誰に対しても優しい。
泣いている女がいれば寄り添い。
酔いつぶれた客にも穏やかに微笑む。
こんな場所にいるには、あまりにも綺麗すぎる女だった。
「ほたる。」
『はい。』
名前を呼ぶだけで。
花が咲くような笑顔が向けられる。
「少し付き合って。」
『……はい。』
断らない。
それが仕事だから。
けれど弓弦は知っていた。
彼女は誰にでも笑う。
だからこそ。
自分だけを見てほしいと思ってしまう。
◇◇◇
静かな座敷。
障子越しに揺れる行灯の灯。
酒を酌み交わし、他愛のない話をする。
ほたるは本当に楽しそうに笑う。
だから。
弓弦も自然と笑っていた。
「疲れてない?」
『大丈夫です。』
「嘘。」
『ふふ。』
「少しくらい甘えてもいいのに。」
そう言って。
弓弦はそっと彼女の頬へ触れた。
ほたるは一瞬だけ驚いたように目を丸くする。
けれど抵抗はしない。
静かな空気の中。
二人の距離がゆっくり近づく。
優しく口づけを落とす。
それだけだった。
互いの息遣いだけが聞こえる静かな時間。
こんな世界だからこそ。
一瞬だけ、本当の恋人のような錯覚を見せる。
しかし――
その静寂は。
激しい音で破られた。
「奉行所だ!!」
障子が勢いよく開かれる。
侍たちが一斉になだれ込む。
刀を抜き放ち、遊郭中へ散っていく。
「一人残らず調べろ!」
「逃がすな!」
悲鳴が響き渡る。
遊女たちは震え。
客は逃げ惑う。
その中で。
弓弦だけは苦笑していた。
「神崎、また仕事の邪魔するの?」
その先に立つ男。
奉行所同心・神崎晋也。
真っ直ぐな眼差しで弓弦を見据える。
「仕事だ。」
「真面目だねぇ。」
弓弦は肩をすくめる。
「でも。」
くすりと笑う。
「俺は捕まえられないよ。」
その笑顔が。
神崎の神経を逆撫でした。
「……。」
舌打ち一つ。
「全室改めろ。」
侍たちが一斉に動き出す。
◇◇◇
「薬だ!」
「帳簿もある!」
「こっちにも!」
次々と押収されていく証拠。
地下牢には攫われた人々。
薬の在庫。
売買記録。
十分すぎる証拠。
黒瀬が縄を手に弓弦へ歩み寄る。
だが。
「やめろ。」
神崎が静かに止めた。
黒瀬が眉をひそめる。
「ですが。」
「どうせ上と繋がってる。」
低く吐き捨てる。
「今日捕まえても明日には釈放だ。」
分かっている。
だから腹が立つ。
「証拠だけ押さえろ。」
「他の連中は全員連れて行け。」
侍たちは再び散っていく。
遊郭は騒然となった。
◇◇◇
その騒ぎの中。
弓弦はただ一人だけを見ていた。
ほたる。
彼女は何も言わない。
ただ静かに座っていた。
「……怖がらせたかな。」
弓弦がそっと抱き寄せようとした、その時だった。
「おい。」
低い声が響く。
「いつまでサボってんだ。」
「ーーほたる。」
奉行所の侍――水城宗真だった。
「仕事だ。」
その一言だけ。
ほたるは深いため息をつく。
『……面倒。』
ゆっくり立ち上がる。
弓弦の腕から離れる。
一瞬。
二人の視線が交わった。
そこには。
さっきまでの優しい遊女はいなかった。
氷のように冷たい目。
「お前、サボんなよ。」
『サボってない。』
「男と寝てただけだろ。」
『仕事。』
乱れた着物を整え。
水城から刀を受け取る。
遊女ではない。
一人の役人だった。
弓弦は息を呑む。
「ーーほたる?」
声に怒りが混じる。
ほたるは冷たい視線だけ返した。
神崎が歩きながら言う。
「ほたる。」
「帰ったら報告書。今日中。」
『……神崎さんは、人使い荒いなぁ。』
不満そうに睨む。
それだけだった。
そのやり取りだけで。
弓弦はすべて理解した。
自分が可愛がっていた遊女。
その正体は。
奉行所が送り込んだ密偵だった。
沈黙。
やがて。
弓弦は肩を震わせた。
「……ふっ。」
笑う。
「ははは……!」
楽しそうに。
本当に楽しそうに。
「ほたる。」
彼女は立ち止まる。
振り返らない。
「またね。」
一瞬だけ。
冷たい横顔が見えた。
◇◇◇
「わぁ。」
水城が肩を組む。
「気に入られてんじゃん。」
ほたるは嫌そうに肩を払う。
『……うざい。』
そのまま歩き出す。
『ーー死ね。』
ぼそりと呟き。
誰よりも早く現場を後にした。
残された弓弦は。
口元を押さえながら笑い続ける。
「なるほど。」
「……ただの籠の鳥じゃなかった。」
あの冷たい瞳。
あの狂気を秘めた表情。
「……欲しい。」
弓弦は静かに目を細めた。
まるで。
新しいおもちゃを見つけた子供のように。
「どうやって手に入れようかな。」
◇◇◇
「――カット!!」
一瞬で空気が変わる。
「お疲れさまでーす!」
「はい、撤収入りまーす!」
「照明お願いしまーす!」
時代劇の世界は消え。
巨大な撮影スタジオが姿を現した。
スタッフが走り回り。
カメラが止まり。
マイクが外される。
ほたるは、はだけた衣装の上からスタッフにそっとタオルを掛けられる。
『ありがとうございます。』
深々と頭を下げる。
長時間の撮影だったにもかかわらず。
その笑顔は、劇中の遊女のよう。
まるで太陽のように明るい笑み。
若いADが思わず顔を赤くする。
「ほたるちゃん、本当にすごかった!」
ディレクターが満足そうに拍手する。
「最高だったよ。」
続けて弓弦にも笑顔を向ける。
「弓弦くんもさすが!」
「ありがとうございます。」
弓弦も穏やかに頭を下げた。
そのまま、ほたるへ歩み寄る。
「ほたるちゃん、お疲れさま。」
『御影さんも、お疲れさまです。』
劇中の冷たい姿はどこへやら。
花が咲いたような笑顔。
そのギャップに思わず笑みがこぼれる。
もう少し話そうとした、その時だった。
「ほたるー!」
勢いよく飛び込んできたマネージャーが叫ぶ。
「次! 次の現場!」
「あと五分しかない!」
『えっ。』
「急いで!」
『はい!』
慌ただしく荷物をまとめる。
それでも。
出口へ向かう途中。
ほたるは立ち止まり。
スタッフ一人ひとりへ丁寧に頭を下げていく。
『本日はありがとうございました。』
その姿に。
神崎が苦笑する。
「売れっ子は大変だな。」
弓弦は何も答えず。
最後まで礼を欠かさず去っていく彼女の背中を、静かに見送っていた。




