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48. 瀬戸麗奈との一年半


 十九歳になったのとほぼ同時に、俺は東京へ出た。

 マオ先輩やお世話になった人たちにほんの簡単な挨拶をして、アオハルたち水泳部の三年生の卒業も待たず、逃げるように富山を出た。

 親や莉子ねえたちにも、その理由をうまく説明出来ず、説得も出来ないまま、家を出た。

 所持金は15万円ほど。事故前に石田浜海水浴場での監視員のバイトの稼働分12万円が知らないうちに振り込まれていたのが助かった。

 とはいっても、入院費、治療費、リハビリ代で、親にいくら負担を掛けてしまったのか。具体的な金額は知らないまま、それを返すあてもないままだった。


 いちばん安い夜行バスで着いた早朝の新宿は、富山よりも寒く感じた。

 

 東大法学部に在学中の水泳部初代部長の東先輩には前もって電話してあった。

 複雑な路線図を辿りながら丸の内線の方南町まで行き、東先輩のアパートにお邪魔した。

 そこで三日間寝泊まりさせてもらい、住むところとバイトを探した。

 あまり郊外だと逆に交通費が高くつくと、東先輩がアドバイスをしてくれた。確かに部屋探しバイト探しでうろうろしているだけで、どんどん交通費に消えて行った。


 京王線の明大前から徒歩12分、六畳ほどの長細いフローリングの部屋で、小さな流し台と収納戸棚とユニットバスが付いていた。家賃三万八千円と共益費二千円。それと敷金一ヶ月分を払うと、残高は七万円を切っていた。

 もっと安い部屋でもよかったのだけど、それ以下のアパートが見当たらなかった。

 アパートが決まると、家に連絡してまとめてあった段ボールを送ってもらった。当面の着替えと細々したものだけの段ボール二箱だけ。布団もなく、しばらくは寝袋に丸まって寝た。


 バイトは、昼間はスポーツジムのプールガード兼スイミングインストラクター、夜はファミレスの厨房に決まった。スイミングインストラクターは東先輩の紹介で、司法試験に力を入れ始めるので辞めるに当たっての先輩の引き継ぎの形だった。アドバンス・ライフセーバーの資格でずいぶんといい時給がもらえることになった。

 夜も昼も、できる限りシフトを入れたので、アパートにはただ寝に帰るだけ。

 そんな生活が一年続き、貯金が400万円近く貯まった。

 その金で、以前に断念した映像制作の専門学校に入学することにした。



 深夜ファミレスのバイトを始めて三ヶ月くらい経った頃、新人の女の子が入ってきた。

 瀬戸せと麗奈れいなと言った。

 最初はウエイトレスで採用されたのだけれど、あまりの人見知りで厨房に回されることになり、俺が仕事や段取りを教えることになった。調理もあまり得意じゃないようで、一から手取り足取り教えなければならなかった。

「これをこうして、次にこれをここにね。瀬戸さん、分かった?」と訊くと頷くけれど、やらせてみるとすぐに手が止まって固まってしまう。何度も何度も根気よく教えるけれど、状況を見てひとりで作業をすることが出来ない。ひとつずつ「あれを出して」「これを並べて」「それをここに」と指示することで、なんとか動けるようにはなった。

 そうしているうちにようやく少し打ち解けてきたけど、俺以外にはすぐに俯いて固まっていた。

 暇な時にちょっと話をすると、俺が行きたいと思っていた専門学校に通っていると言う。韓流ドラマが好きで、そんなドラマを作る脚本家になりたいのだそうだ。

 俺もすごく興味を惹かれて、どんなことを習っているのか、学校はどんな感じなのか、いろいろ尋ねたりしていた。

「じゃあ野木さんも一度学校に来て見たら?」という話になった。別にそこの生徒じゃなくても誰も気にしないという。


 昼間のバイトが休みの日に駅で待ち合わせして、その専門学校に潜り込んでみた。

 講義室のいちばん後ろで隠れるように講義を聞いたり、ライブ演奏用のステージ、音楽スタジオ、ダンスのレッスンスタジオ、テレビスタジオ、映像編集ルームなんかをドアの窓から覗いて回った。さすが授業料が高いだけあって専門的な設備が充実していた。こんなところで勉強したらプロになれそうな気がした。

 どこでも何人かのグループが楽しげに実習していたけど、瀬戸さんに声を掛けてくる人はひとりもいなかった。

 その帰りに、瀬戸さんがなにかご馳走するというので、和風定食の店に入った。食事をしながら、一人暮らしが寂しくて毎晩泣いてしまうと漏らした。

「今日、うちに来てくれませんか?」とぽつりと言う。今にも泣き出しそうな顔だった。

 彼女のワンルームで告白され、付き合うことになった。その晩、俺は童貞を卒業し、彼女も処女をくした。

 

 約一年半、ほとんど彼女の部屋で寝起きしていた。

 俺が自分のアパートに戻ろうとすると、彼女はすぐに不機嫌になる。どうしても必要なものを取りに戻らなければならない時は彼女もついてきた。そして用事が済むとすぐに帰ろうと言う。

 バイトに出る時には必ず「今日は何時に帰るの?」と訊く。少しでも遅くなると「どこで誰と何をしていたのか」と問い詰められる。深夜遅くなっても、じっと膝を抱えて待っている。ベッドに入ると「疲れてるでしょう? じっとしてていいよ、私がしてあげるから」と手や口で一生懸命奉仕してくれる。「したくなったら、いつでもどこでも私を使ってね」と言う。

 生活能力が乏しくて、料理や掃除や洗濯もだいたい俺がするようになっていた。

 つき合い始めて一月くらいで、彼女はファミレスのバイトも辞めてしまった。月々の仕送りで生活は出来るようだったけど、交互に部屋代や光熱費を出すようになっていた。

 彼女にいろんな韓流ドラマを見せられたけど、俺はあまり面白いとは思わなかった。どれもきれいごとすぎて都合よすぎて、現実離れした絵空事にしか見えなかった。俳優も同じでリアリティーを感じられなかった。

 いつしか彼女は学校にも通わなくなっていた。

「もうちょっとしたらハッくんもあの学校に入るんでしょ? そうしたら一緒に通うから大丈夫」と言っていた。


 俺がその専門学校に入学すると、昼のスイミングスクールのバイトは辞めざるを得なかった。とたんに生活が苦しくなる。そして、教材費だ、実習費だ、施設費だと、次々に金が消えて行く。

 課題をこなすためにグループワークで作品制作もしなくちゃならない。それにも細々《こまごま》とお金がかかる。貯金を切り崩しながら、夜のバイトを増やした。ビルの清掃、倉庫の仕分け作業、工事の交通誘導など、効率のいいバイトを日替わりで渡り歩いた。

 早朝に帰ると、彼女が寝ないで待っている。グループ制作でどんな人と仲良くなったのか、バイト先にはどんな女の子がいるのか、今日のお昼はどこで待ってる、とか。訊かれるままに女性の名前を出すと、途端に不機嫌になり、服装や背の高さや髪の長さなんかを根掘り葉掘り尋ねる。「ハッくんはそういうのが好きなの? 私も髪を切った方がいい? 胸が大きい方がいいの? 今度わたしもそういうスカートを買う。ハッくんの好みの女になるから」と涙をこぼし始める。そして俺に跨がっていつにも増して腰を振るのだった。

 彼女の依存が激しくなるにつれ、俺は精も根も尽き果ててきた。彼女とバイトと学校、その生活にがんじがらめになっていた。


「夏休みになったら、一緒にうちに帰ろう」

 うちとは、長野県の彼女の実家のことだった。つまり親に紹介したいということだ。

「え、俺はそんなつもりないよ」

「うん、今はまだ二人とも学生だからね。それは分かってる。ちゃんと会社に入ってお給料貰えるようになってから。それまでは今のままでいいから。でも先に言っておいた方がうちの親も安心すると思うの」

「俺はどこかの会社に就職するつもりもないし、自分が誰かと結婚するなんてまったく考えたこともない」

「え、就職しないって、どういうこと?」


 それからじっくりとお互いの思いについて話をした。初めて真剣に向かい合って話をした。何日も何日もかけて。

 そうして、ひとつも共通するところがないのが明確になていった。いくら彼女が泣いても、譲っても、妥協しようとしても、いつかは絶対にすれ違うことは分かりきっていた。

 いつか交わす言葉も少なくなっていたけど、ひと夏、そのままずるずると暮らしていた。

 俺は、内緒で別のアパートに引っ越した。そしてある日、彼女の部屋に帰らなくなった。

 すごい罪悪感にさいなまれた。

 俺が彼女を一方的に捨てたようなものだった。

 彼女と顔を合わせないようにと、しばらくは学校にも行かなかった。

 でも、もしかして彼女が自殺でもしてはいないかと、彼女のマンションの入り口を陰からそっと窺ってみたりもした。

 ある朝、引っ越しのトラックが彼女の部屋の荷物を積み込んでいるのを見た。

 学校に行って、事務局で彼女の在籍を尋ねると「先週、退学されました。家の都合でご実家に帰られるそうです」とのことだった。

 ほっとしたのと同時に、罪悪感がいっそう大きくなった。悪いことをしたとは思うけど、後悔はなかった。

 今となっては、彼女のことが好きだったのかどうかもはっきりしない。

 

 その秋に、学校に貼り出されていた映像制作会社のバイトに応募して採用された。自宅でも出来る映像編集の仕事で、今までのバイトよりは若干時給が良かった。なにより、締切りさえ守れば自分で時間配分が出来るのがありがたかった。以前のスイミングスクールの仕事も土曜日だけやらせてもらえることになり、これでなんとか学校とバイトの両立が出来そうだった。


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