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Phantasmagoria-狭間の標詩-【学生編】  作者: 阿友 出夢
予科一年生・夏〜夏休み
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040 ここから歩むもの

 生まれてこの方、何度目の前の言い争いを見ただろうかと、考えても意味のないことに青年は思い馳せた。何度目かも覚えていない繰り返しに決まって浮かぶ感情といえば呆れと軽蔑であるのは間違いないのだが。


 醜悪で低俗な言い争いは止まることを知らず、言葉で行う戦争と言うには只管に愚痴を並べ連ねるだけの様相となっているのが、ただただ愚かしい。

『終わりの見えない議論』という比喩があるが、まさにぴったりだと彼は思った。

 尤も、目の前で繰り広げられているのは議論でもなんでもなく、どこまでも自己中心的な嘆きなのだが。


『あれはまだ目覚めぬのか』


 嗄れた、低い不気味な声だった。地を這うような畏怖の気配を纏い、響かせ、肉声の温もりを持たぬはずだというのに無機質な声は不機嫌さを隠さない。

 傍目から見れば唯一愉快な点ではあるが状況が状況でもあった。素直に喜べないのは遺憾だ。


『命尽きるまでの辛抱です』

『命尽きても今は役に立たぬであろう』

『世界を巡る力のなんと少ないことよ。あれでは……』

『ヒトの子というのはああいうものなのです。知っているでしょう』

『だが元はあのお方が造った存在なのだぞ』

『調停のできぬ身に何の価値がありましょうか』


 各々が身勝手に不平不満を口にする。ふつふつと心の底から沸き上がるものはあるが、青年は眉を上げず顔色を変えることなく平然と直視していた。


『なあ風よ。そなたもそう思うだろう』


 老人が声を上げた。風と呼ばれた青年は弾かれるように顔を上げた。一瞬何と返そうか悩みそっと視線を外す。口を真一文字に引き結んだ青年は、首肯とも否定とも取れぬようただやんわりと俯いた。

 面々も次第にどっちつかずな態度に怒りを覚えたのだろう。ぴりりと気配が鋭くなっていく。


 痺れを切らしたのであろう老人が声を上げようとした、そのときだった。青年は顔を上げた。視線を再び目の前の人物たちから外し、何もない虚空へと向ける。


「時間はまだ優にあるかと。そうでしょう?」


 貴女もそう思いますよね、と青年は目のみで問うた。目線の先には、白い飾り気のないローブを纏った女性が、目を閉じて微笑んでいる。


「──そうね。私もそう思うわ」

「あの子ならきっと大丈夫。だって……そのために遺したし、遺してくれたんだもの」


 たおやかに花笑む女はいやに淑女然としていた。歳は青年よりも一〇ほど上になるだろうか。まるで品評会でも一等優れた大振りな百合の花が、その場に持って来られたかのようだった。外見からは容易に想像がつく落ち着き払われた所作と言葉は、その場にいる有象無象へ説得力を以って齎される。

 愚痴の雨嵐は止んでいた。ああと、安堵というものをここまで恋しく思う時はなかっただろう。青年の胸がすいた。


「まだ時間はあります。あの子が生まれて10年ほどでしょう。そうね、あと数年──成人するまでは」


 傾げられた首に呼応して腰まである銀糸が揺れる。成人までと、決めた猶予を言い渡すのと同時に開けられた目は桔梗の色合いだった。丸みを帯びた瞳の形の、射抜く視線の何とまっすぐなことだろうか。いつ見ても、似ていると思う。親子だとやはり似るものなのか。だが残念なことに、父母の温もりを置いていかざるを得なかった青年には見当がつかなかった。


「我々も、雌伏の時を過ごすほかないのよ」


 満足げに笑う女に、青年も心の内で頷きを返す。めいめいが納得した空気を持ち散開の雰囲気となったのを感じ取り、彼は命拾いをした自分の存在価値への執着を実感することとなった。

 ──消えてたまるものかと、この感情を覚えるのも幾度目だろうか。兎も角、彼は目を閉じて息をそっと吐いた。強張った筋肉の全てを緩めるように。


***


 さて閑話休題。我らが女主人公といえば。

 とろとろとした感覚に包まれている最中だった。途切れ途切れの現実と夢の境のような感覚の癖に、これは現実だと喧しい意識が傍にいる。ここまで来ると意識を落としているのは難しく、むしろ苦痛になるのだ。眠たいのに寝られない苦痛をアーシェは一〇歳でよく理解していた。だから仕方がないと思いながら、──半分は面倒くさい、まだ眠いと思いながら──目を覚ます方向へ舵を切った。


 頭を上げた。寄りかかっていた硬くも柔らかな枕の温かさを知覚したことは、彼女が頭を預けて寝ていたという証左になった。焦点が合わずぼやける視界に、ここはどこだと頭が訴える。

 木の温もりがある部屋だ。見慣れたような、見慣れないようなひどく曖昧な記憶は頼りにならないと早々に見切りをつけた。学校の寮だと思ったが違う。匂いがまず違う。清潔だ。タペストリーや家具が置かれて生活感があるのに、酒精の鼻の奥へ入り込む匂いと薬品の癖のある匂いがして違和感に変わった。


 振り出しに戻った。ここはどこだ。

 働かない頭にまともに見えないしょぼしょぼとした目を瞬かせる。──頭に、もっと具体的に言えば『枕』にくっついていた髪のところに温かい何かが触れたこと──それによって一気に覚醒のスイッチが入ったのはそれからすぐのことだった。


「おはよう、アーシェちゃん」

「……おはよう、ございます」

「つまらないね。待つのばっかりで」


 髪を梳る手つきはやさしい。まるで宝物にでも触れているかのようだ。退屈から睡眠へと意識を飛ばした娘に同情するように、アロイトは苦く笑った。その笑みでアーシェはここまでの疑問への答えを思い出した。


 ここはベルナデットの、アーシェの主治医の診療所だ。今、自分は定期検診に来ている最中で、確か診療や検査が終わったところだった。

 そこで限界が来て糸が切れてしまったのだろう。記憶もこの部屋に来る前のものは穴開きである。


 となると、と隣のアロイトにアーシェは目を移した。枕にされていた養父はそんなこと大したことでもないとでも言うように、アーシェにそっと微笑み返す。


「仕方がないことだわ。ベルナデット様がお一人でやられているんだもの。……もう。『お手伝い致しますよ』って言っても、聞いてくださらないんだから」

「趣味でやってる診療所だからね。少しの間とはいえ、誰かが手伝っているのを知られると良くないんだろう。人手があると思って、みんなが押しかけて来てしまうからね。……僕としてはベルナデット様が君の腕を手伝いに欲さないわけがないと思うけれど」

「ふふ。いやだわアロイトったら。上手なんだから」


 褒められた女性がいつもよりも数段上機嫌になって、アーシェの耳から零れてしまった髪の数束をかけた。だが予想もしていなかった行動に、アーシェは目を白黒させて女性の顔を見遣る。

 女性はいきなり動いたアーシェの顔に、一瞬だけ面食らったように固まるもすぐに「驚かせちゃってごめんなさいね」と眉を下げて茶目っ気混じりに囁いた。

 菫色の前髪を揺らすこの養母はいつも優しい。しかもそれが上辺だけのものではなく、心根のものであることを彼女は知っていた。この養父の妻であるのが赤子でも理解できる為人(ひととなり)である。そのためアーシェも嫌な顔をしなかった。ただ気にしていないことを示すように首を横にふるふると振る。


「この本、面白いかい?」


 アロイトからの問いにアーシェは素直に頷いた。面白い。恩人の家にいたときも隣にいる二人に面倒を見てもらっていたときも寝物語を読み聞かせられたり、家にある絵本や図鑑などはそれなりに読んでいたが、それよりもずっと多くの本を読んでいると思う。

 同室の担任(ミレイ)が音読の課題を好んでいたのもあるだろう。毎日のように、アーシェは教科書だったり図書室から借りた本を就寝前に声に出して読ませられている。読み上げる箇所はごく少なく、言葉の発音を間違えると注意されるが全てが終わると自分のことのように褒めてもらえるので彼女としてもそこまで嫌なものではない上に、慣れているので良いのだが。

 しかしなんだ。アーシェに疑問が湧き上がる。ウェインも隣にいる養父もそうだが、何故大人というのは音読の課題がそんなに好きなのだろうか。


 それはさておき。


「面白いです」

「じゃあ次の夏休みになったら、本屋さんへ行ってみようか。貸本屋さんじゃないよ。新品の本が売ってる本屋さん。そこで新しい本も買おう」

「……いいです」


 ふるふるとアーシェが首を横に振った。だって、そこまでしてもらう義理などないからだ。

 アロイトとアーシェに血の繋がりはない。だからといって、アロイトの妻であるリーシャと実の母娘であるわけではない。

 書物は値が張るものだ。ただでさえ今このとき、魔力症の通院で迷惑もかけているし、今回の学校への入学やそれに伴う事件でかなり様々なものをすり減らしたはずだ。これ以上養子である自分が迷惑をかけてはいけない。


 そう思っているのに。どうして顔を覗き込んでくる二人の大人は、こんなにも悲しそうな顔をしているのだろう。

 アーシェには、理由が分からなかった。


「ねぇ、アーシェちゃん。私も娘と一緒に過ごしたいわ。それでも駄目かしら」


 温かい柔らかな手が本の上に置かれたアーシェの手を包む。安心感と慈愛を感じさせるリーシャの手は、半年ほど前であればいつもアーシェを抱きしめていた手だ。懐かしい感覚に、ついアーシェも頷きそうになるが駄目だ。駄目なのだ。

 だって自分は。


「私だって、娘と一緒にデートしたいわ。街でお店を眺めながらお買い物をして、可愛いお洋服も買って、美味しいご飯も食べて、歩くのが疲れたら、喫茶店に入ってお茶を飲むの。今までにあった楽しいこととか、気になる子のお話とか、私もそういうのがしたいわ」

「いいね、母娘でデートか。だけど、僕も混ぜて欲しいな。さっき言ったように本屋に連れて行きたいし、仲間外れは寂しいからね」

「それは別に行きましょう? 夏休みはたっぷりあるはずだもの。ちょっと羽目を外したってばちは当たらないはずだわ」

「そうだね。じゃあみんなのお出かけのためのプランを練るために、今度どこかで僕と一緒に、どうだい?」

「ええ、もちろん。どこへ行きましょうか」


 先ほどまでの暗く物悲しい雰囲気は、一体どこへ行ってしまったのだろう。そんなアーシェの疑問に答える者はなく、ただ残るのは大人双方が愛を確かめ合ったことで甘く煮詰まった空気だけである。

 これでいいのかアーシェには判然としなかったが、まあいいかと納得することにした。だってほら、『終わりよければ全てよし』と言うではないか。アーシェも先ほど読んだ本で知ったばかりの言葉だが。


 その時だった。

 ……親子で感動のやり取りしてるところ悪いんだけどね、と語調の割にちっとも悪く思ってはいないであろう声が飛んできたことに、誰も気づかぬわけがなかった。

 声の主人は誰もが知る人物である。三人が一斉に声の人物の方へ目を向けた。


 立腹したベルナデットが腕を組んで立っているのは迫力があった。過去、軍医として働いていたとは聞いていたが絶対にそうだと納得してしまうほどには。


「こっちはもうとっくに準備が終わってんだよ! 何度も呼んでるってのに来やしない。一回呼んだらとっとと来な!!」


 くわっと口が開かれる。

 気難しい老練な女医の──だがしかし今回の件については完全に被害者である──雷が落ちたのは、それから猶予もなくのことであった。

 お久しぶりです。約3年ぶりの更新です。

 趣味に全振りしてリハビリした結果、こんな文章になりました。意味は一応ちゃんとある予定です。

 長くなりますので、ご興味がある方は活動報告にてお会いしましょう。では。

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