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Phantasmagoria-狭間の標詩-【学生編】  作者: 菱魚
予科一年生・初夏(梅雨)
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039 清々しき夏の雪解け

 少年は走った。そんなことを物心ついた頃から聞かされたって、ああそうですかと納得できるわけがない。赤子の頃から母親が自分を殺そうとしている事実を、飲み込めるはずがない。


 今日だってそうだ。教育係であるギデオンと住まいである離宮の廊下を歩いていただけだったのに。ちゃんとギデオンに言い含められたように、跪いて(こうべ)を垂れる。いつも通りのことだ。そしてそのまま、刺激しないように通り過ぎるのを待つ。自分たちが動けるのはそのあとだ。


 いつも通りのことだ。自分の身を守るのに必要なことだ。それでも何故だと思う。自分も王子で実の子だというのに、どうして臣下の礼をとらねばならないのだろう。

 どうして、憎しみの籠もった目で見られなければいけないのだろう。


「はっ、はっ」


 息が切れる。胸が苦しくて、ぎゅっと目をつむりたくなる。そのたびに脳裏に浮かぶのは、冷酷に嗤う女の笑みだった。多くの侍女に(かしず)かれる女主人は、彼のことを「本来いるはずのない異物」だと認識するやいなや、近づいてきた。

 初めての、ことだった。少なくとも少年が生きてきた数年間の記憶の中にそのようなことはない。


 驚いて見上げたその顔は優しく微笑んでいた。絵本や物語に出てくる母親はみなこういう顔をしていたんだろう、そう思うだけで胸が潰れそうになった。


「は……」


 一言、たった一言だ。言葉を発したのは。それを聞いた女の顔が、徐々に歪んだ。先程とは一転した冷たい笑みだった。不愉快で仕方がないという表情の裏に、悪意を持った愉悦が潜んでいた。

 そして頬を張り、蹴り飛ばしてきた。さながら、ごみを扱うようだった。


「母上?」

「大丈夫じゃよ。そなたはそこにおれ」


 汚いものに触れたのを厭う表情と、侍女に囲まれている「選んだ方の息子」への慈愛を持った声がちぐはぐだった。「母上」と自分が言えるはずだった言葉を、跡継ぎとして厳重に守られている彼は臆することなく口に出せるのだ。そして当たり前のように、女は母親としてそれを受け入れる。


 どうしてなのだろう。どうして……。

 そこから先は、痛みを覚えた少年の記憶にはない。ただ喚き声がうるさかったような、体が重くて痛く感じられたようなそんな記憶しかない。

 なぜなら、気付いたときには走っていたからだ。



 走った。走った。走った。

 どこまでも続く毛氈(もうせん)の廊下を。景色の変わらない石造りの建物の中を。涙が頬を伝って落ちて、喉がしゃくりあげるせいで息をするのが何倍も苦しい。それでも走った。衛兵たちが呼び止める声など彼の耳には入ってなかった。


「けほっけほっ」


 もうだめだ。限界を悟って、廊下を飾るサイドテーブルの下に力なく入っていく。うずくまって、誰からも見えないように一人で寂しく鼻をすする。「殿下」と頭の中のギデオンが窘めるように厳しい声を出したが無理だ。この涙は止められない。

 みっともないと分かっていても、勝手に流れてくるのだ。だんだん大きくなる吐き気と一緒に、全部流れてしまえばいいのに。そう思った。


「——ねえ」


 とりとめもなく浮かんでくるもの全てに集中してて、反応が遅れた。子供の声だった。

 はっとして顔を上げれば、自分よりも少し年上の見慣れない少年がこちらの様子を見るように覗き込んでいる。


「えっ、あ、あの」

「大丈夫?」


 離宮にいる子供は自分と瓜二つの顔をした少年だけだった。突然の、初めての事態に慌てふためいて碌な反応も返せない。きっとこの子も先程の女やその取り巻きと同じような、興ざめや失望の表情で自分を見るのだろう。そう思うだけで体が強張る。


「どうしたの? ここで何してるの?」


 応えない自分に、なおも目の前の少年は話し続ける。今度は背を折って、尋ねられた。先程自分を見るなり恨み言を吐いて突き飛ばしてきた女とは全然違う。自分よりも小さくなった目線に、不思議と緊張感と警戒が解けていく。


「あ、名前言うの忘れてた。……父上と兄上には内緒だからね。僕はグレン。きみの名前は?」

「ぼくの、ぼくの名前は……」


 グレン、と名乗られた名を噛み締めるように胸の内に反芻する。そうして、いつの間にか忘れかけていた自分の名前を、心の中で彼はそっと手繰り寄せた。


「ルイ。ぼくは、ルイ」


 忘れていた名前だった。

 一番近くで生活を共にしているギデオンにすら「殿下」と呼ばれて、忘れかけていた名前だった。二度と忘れまいとその発音を耳に刻み込む。「ルイ!」と、嬉しそうにグレンが笑った。

 自分の名前を呼ばれて嬉しそうにされるなんて、初めてだった。少し……いや結構、驚いた。


「おれたち、友達だ! そうだ。さっき思ったんだけど、ルイの目、朝焼けみたいだね! とっても綺麗だ!」

「朝焼け……」


 今まで疎まれ続けていたルイの目の色を、グレンは無邪気に褒める。脈絡なくも、屈託なく。それだけで純粋な裏表のない好意だというのが、手に取るように分かった。


 その言葉だけで、どれほど救われただろうか。当時の自分にとって、どれほど救いになっただろうか。きっと貴方(・・)は知らないのだろうけど。


「あ、ありがとう……」


 泣きたい気持ちを振り絞ってそう言うのがやっとだった。



 その後、王妃主催の茶会で毒を盛られたことが決定打となった。ルイが父王の従弟であるガスティオン公爵の元に預けられる話が出たのは、グレンと出会って半年も経たない時期だった。



***


 なんだか夢を見ていた気がする。


 確固とした意識が自分の元に戻ってた感じがして、ルイは顔を上げた。睡魔のせいでうとうとしてしまったのだろう。ずっと俯いていたせいか首が痛い。前を向こうとするだけでも一苦労だ。それだけ疲労が溜まっているのだろう。魔法薬で治したとはいえ、ルイも怪我をしたのだ。主に手と膝小僧に。


 明かりを取り込むためにある上部の壁面の窓から見える空は明るい。朝焼けの黄とオレンジよりは大空の水色の色合いが強くなってきた。時間的に登校している生徒や学生も出始めたのだろう。遠くの歓談のざわめきが耳に入ってくる。


 頑張って早起きしたは良いものの、やはり朝の弱いルイには向かないらしい。結果的に長居があまりできないことに後ろ髪が引かれつつ、滑らせるように視線を移す。

 目の前にはアーシェがいる。そしてその隣、ルイは自分の座っているベッドの主である少年を見た。


 自身の背後で安らかに寝息を立てているその様子に、魔法薬は足りて効いているのであろうことが察せられる。一応、ミレイが言うにはベルナデットの元に朝一で遣いを出しているらしいので魔法薬が切れたとしても大丈夫だろう。馬車は夜間には走らないが、朝は日が昇る前から出るのだ。


 しかし、


「懐かしい夢……だったな」


 自分とグレンが出会ったときの夢だった。あの後は大変だったのだ。いつの間にか離宮から出ていた自分を追いかけて、やっと見つけたギデオンが常ならいない子供であるグレンを警戒したり、迷子になったグレンを探しに来た彼の兄がギデオンに——恐らく、ルイ自身の正体にも——気付いて、真っ青になりながら平身低頭して頭を下げたりしていた。

 そうだった。そのときに二人は第二騎士団の副騎士長の子供だと判明したのだ。


 ちゃんと身分が保証された人物だったということと、王族とその側近しか立ち入りの許されない離宮の外だったということで、兄弟二人は厳重注意で済んでお咎めなしとなった。その後、グレンとは王都にあるガスティオン家の屋敷で再会して、今がある。将来的に自分の側近として仕えさせるつもりだと、ゲイルから聞いたときには驚いた。


 それでも嫌じゃなかった。むしろ安心した。グレンとならきっと友人としても、主従としても良好な関係を築けると。


「ああ、そうか」


 ルイは唐突に理解した。アーシェにとってのグレンは、ルイにとってのグレンと同じなのだ。

 拠り所なのだ。グレンは「自分自身」を繋ぎ留めてくれる存在だったのだろう。あの頃のルイ自身と同じように。


 一気にアーシェに対して共感が湧いた。ついでに見た彼女が身じろいだことに気付いて、ルイはベッドからするりと降りた。


「アーシェ」

「……ルイ」


 うっすらと目が開いて、寝ぼけ眼ながらもじっとルイを見つめる。何を言おうか、逡巡しているルイを気にする風もなく「教えてくれてありがとう。グレンは無事?」と、アーシェは尋ねてきた。たったそれだけを。


「ええ」


 罪悪感に押しつぶされそうだった。ルイは何度も頷きながら助かった、助かったよと言った。彼の目からは大粒の雫が零れ落ちていた。その涙に安心したようにアーシェが目を閉じる。すぐに寝息が聞こえてきた。

 ルイは心底自分を恥じた。大切な人を助けようと努力しない自分を、そしてアーシェに嫉妬して嫌った自分自身を。誰よりも、グレンは大切な友人なのに。


 たった一つの間違いで、彼をこの先ずっと傷つける過ちを犯しかけた。


「本当に、さすが兄妹ですよ」


 ルイは二人を見た。血の繋がりなどないはずなのに、寝顔がとても似ている。いや、それだけではない。


「考え方とか、行動とか、本当にそっくりなんだから……」


 ひと月前のカタリナとの事件と今回のことの顛末を比べて、ルイは溜め息を吐いた。同時にこれから二人と仲良くするにはどうすればいいか考えることにした。


 ひと先ずは友人というより味方であれば良いかと考える。グレンを繋ぎ留めるために仲良くなり、そして彼女自身の手綱のためにグレンと良い関係を築く。

 そうすれば、きっと色々な負担は減るだろう。多分。


 うまくやらねば。味方も、友人作りも。この学校にいる間しかきっとできないことだから。そろそろ鐘が鳴りそうだ。保健室を後にして、行儀悪くルイは目的地の教室へ走り去っていく。

 様子を密かに壁の陰から見守っていたミレイには気付かずに。



 グレンが目を覚ましたのは、その日の昼だった。



***


「そっか、そんなことが。ありがとうな」

「いえ、動いたのはアーシェですから」

「だけどあいつを助けてくれたのはルイだろう。……本当にありがとう、感謝してもしきれない」


 妹として、家族としてアーシェを大事に思っているというのが表情から見て取れる。それぐらいグレンの表情は柔らかい。


 結局、グレンには「アーシェが勝手に外へ出て魔法薬を取りに行こうとした」ということしか話さなかった。というより、話せなかった。ミレイを始め、アーシェの探索に関わった関係者全員がそのように認識していたからだ。

 ありがたく、ルイは真実を墓場まで持っていくことにした。

 その代わり、二度とこのような過ちを犯すものかとその身に誓った。


 ちなみにアーシェに罰はない。本来はあって然るべきだが怪我人だからというのと、怪我自体が罰になり得ると判断されたのだろう。ちなみのちなみに今は隣のベッドにもいない。

 ルイが保健室に来たときはおろかグレンが目を覚ましたときにはいなかったので、きっと先生と一緒にどこかにいるのだろう。

 墓場まで持っていくつもりだし襤褸を出すつもりは毛頭ないが、いるとグレンと話すのに緊張するのでいなくて良かったと心底思う。


 安堵していると、グレンが目を見開いてじっと窓の外を見ていた。いや、外というより空を見ていた。朝より曇りがちになってどんよりとしている。見ているだけで気分が暗くなりそうだった。

 しかし、グレンは息を深く吸い込むと、何かに気づいたように匂いを確かめる。何度も鼻を鳴らしながら、空気を吸うのだ。

 

「グレン、どうしました?」

「ルイ、もしかして……」

「はい?」


 呼びかけというより、呟きに等しかった。間を置かず、グレンがベッドの掛け布団を剥いで飛び起きた。今度はルイが目を見開く番だった。上体を起こしていたとはいえ、早すぎる。


「ルイ! 早く!」

「ええ!?」


 突然のことに何が何だか分からぬまま、保健室の入り口で自分を呼ぶグレンの元へ行く。と、思ったら追いつく前にダッシュで走り去られた。

 その背を見失わぬようにルイも走る。昨日倒れたばかりだというのに、一体どこにその体力があるんだと問い詰めたくなった。


「ああ、もう!」


 痺れを切らしたように、グレンに手を掴まれる。そうしたらすることは全力疾走一択だ。

 グレンの速度に足がもつれないように注意しながら必死でついて行く。


 たどり着いたのは、本科生の校舎の屋上に続く階段だった。ここなら鍵が開いてるんだと得意げにグレンが笑う。珍しく年相応の、悪戯っぽい笑いだった。


「前言ってただろ。ずっと見せたかったんだ!」


 階段を駆け上がって、彼は屋上へと続く扉を開けた。

 開けた視界に映る大空は、綿埃(わたぼこり)のような曇天そのものだった。意味が分からなくて首を傾げた、その瞬間。

 風が、強く吹いた。踏ん張らなければ吹き飛ばされそうなほど強く。


「上だ!」

「え……」


 空を見た。灰色の重そうな雲が、渦を巻いていた。風に吹かれて動いている、そんな生易しい速さではない。視界で捉えられるほど速く、大空のとある一点へと吸い込まれていく。


 空が水色に光った。錯覚ではない。

 今まで重々しく大空を支配していた雲の毛布は、清々しい青空に吸い込まれるように無くなった。


「おー今年も見られたか」

「ミレイ先生!?」


 突然後ろに現れた担任は何事もなかったかのように空を仰いでいる。


「グレンがな、お前もアーシェも見たことがないから見せたいって言ってたんだよ。『梅雨開き』を、な」

「すごかっただろ!?」


 興奮気味で捲し立てるグレンを見て、昨日の彼とアーシェとの会話の内容に合点がいった。

 きっとこの話をしてたのだ。


 確かに以前、ルイもグレンに言った気がした。『梅雨開き』とはどういう現象なのかと。そして、グレンは見せてやると約束してくれた。そんな記憶がある。

 それこそ、ルイがガスティオンの家に来たばかりの頃だ。


「でも、アーシェが」


 いないと、言いかけてルイはミレイの方をちゃんと見た。

 いた。ミレイの影に隠れていただけだ。見慣れた焦茶のおかっぱを揺らして、こちらを窺っている。

 こうして改めて見ると小さいと思う。同時に彼女も見ることができて良かったと心の底から思った。 


「うん。綺麗だった」


 アーシェが笑った。年相応のはにかみだった。

 応えるように「だろう」と胸を張るグレンは誇らしげで嬉しそうだ。二人の絆の強さがルイにはとても眩しく思えた。けれども、妬ましいだなんて、そんなの微塵も感じなかった。



 ヴォルセナの短い梅雨が明けた。

 美しい、夏の到来だった。







 まさかここまで濃くて長い付き合いになるとは思わなかった、苦笑と共に彼がそんな感想を抱くのは、この出来事からおよそ二〇年後のことである。

 自分の子供たちに彼らの昔話をして、グレンに目線だけで怒られるのが青年期のルイの日常となっているのはまた別の話である。

 今日で第一話更新から一年だそうです。これまでありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。

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