イレナ・シモノヴァ 前
客間の戸口から聞こえた声はためらいがちな、細いものだった。
我々男性陣には適度な大きさに映った部屋の入り口さえ、彼女の小柄な四肢と合わせたとき、見慣れぬ巨大なものとすら感じられた。巨人の家に招かれて、スケールの違いに驚くようなものだ。
この意外な賓客を前にして我ら男性陣は途端に姿勢を整えた。
面白いことに少女の兄——つまり身内であるヤシクまでも、だらけた様子を改め、ソファにしっかりと座り直す。
あの夜、あのときの様子を回想するといつも、どこかしら微笑ましい、愉快な気分になる。
後の開明帝ニコルス五世が、あるいは後の〝官房の主達〟の一人にして皇帝の右腕オーリフ子爵が、そして私が、クリーム色のカジュアルなドレスに身を包み、遠慮がちな恥じらいの笑みを浮かべた、ただ一人の小柄な女の子のために、揃って居住まいを正したのだから。
それは客観的には、何気ない日常の一幕に過ぎない。
男性たるもの、女性、特に若い女性の前では礼儀正しく振る舞うべきである。つまりこれがノーレムリアにおける「当たり前」だ。
身分とはまた別の角度から社会を構成する軸。男女の別である。
〝大鷲の家〟の長子であってさえ、女性の前では礼をとり、時には遜りさえする。
だが、現代日本で物の見方を養った私にとって、その「当たり前」は幾分か奇妙なものに思われた。端的に言えば、その様は社会における男性の完全な優越を証明するものである。男は女をガラス細工のように扱うが、それはあくまで所有物としてである。「自分の物」を壊したくないからそうする。他の家の女は他人のもの。
例えば、未婚だった当時のイレナの場合、彼女の持ち主は父親である。私とニコルス青年が紳士として対そうとする相手はだれか。礼を失してはならないと感じるのは誰か。それは実のところイレナではない。彼女の持ち主に対してであった。この構造は兄であるヤシクにさえ適用される。彼もまた、父の権威の下にあったのだから。
これはひねくれた見方でもなければ賢しげな分析でもない。単純な事実である。証明するのは容易い。
人々——ニコルスやヤシクでも、あるいは他のしかるべき身分の男達であれ、誰でも——が、しかるべき後ろ盾を持たぬ女、たとえば隷農の名もなき少女をどのように扱うか、召使いの女たちの前でどのように振る舞うかを観察するだけでよい。
私はそう在りたくないと心から願ったし、そうならぬよう意識してきた。だが、冷静になって思い返せば実は逆かもしれない。
私が気をつけていたのは実は「やり過ぎ」の方だった。
私の常識においてはイレナも召使いの女も隷農の女も、私自身も、ただ人間であった。だから気を抜くと地が出てしまう。皆に対して同様の接し方をしてしまう。それがノーレムリアにおいて明らかに無作法、あるいは奇矯な振る舞いであることは理解していた。よって意識的に差を付けようとさえした。
とはいえ、個別の事象としてみれば、オーリフ家の末娘に対して丁寧に接すること自体には何の問題もない。
「イレナ? どうしたんだい?」
「皆様に……ご挨拶に参りました」
兄の疑問に答える彼女の声から私が読み取った幼さ、あどけなさは、恐らく彼女の側の問題ではない。実際私と彼女はそう年が離れているわけでもなかった。当時彼女は一七歳だったのだから、年相応だろう。
問題は私の方にあった。
日本で生きた時間は私の精神にしかるべき年輪を重ねていた。要するに、私にとってイレナは女子高生だった。つまり子どもだ。
「母上にでも促されたかな? イレナ、ではそうするといいよ。今日は君が初めてお会いする方もいらしているからね」
「はい。お兄様」
少女の視線は私の方へ向かう。
正直なところ、劇的な展開は何もなかった。
ホストであるヤシクが彼女を私に紹介し、続けて私を彼女に。
彼が役目を無事終えた後は、年上の男性である私の番だった。
「お初にお目に掛かります、イレナ・シモノヴァ嬢。兄上ヤシク殿にただ今ご紹介をいただいた、ボリス・イリイチ・ブラーギフです。兄上とは大学で知り合い、御友誼を賜り、今日こうして御家にお邪魔しました」
ソファから立ち上がり、軽く一礼する。
彼女は微かに笑顔を浮かべた。あくまで儀礼的なものとして。
「初めまして。ブラーギフ様。イレナ・シモノヴァ・オーリフと申します。……ええっと、お会いできて光栄に存じます」
それきり言葉が途切れた。
後に聞いたとき、彼女は〝少し恥ずかしかった〟のだと当時の心境を教えてくれたが、実際のところはどうだろうか。多分ただ不慣れであっただけだろう。
中途半端な沈黙を破ったのは我らが未来の皇帝、ニコルスだった。
「ごきげんよう。イレナ嬢。今日も兄上の友誼にすがり、こうしてお邪魔しているよ」
「はい、殿下。殿下もお変わりなくいらして、私もとてもうれしいです」
〝うれしいです〟。
このストレートな表現は彼女の幼さを際立たせているように思われた。面識があるらしい二人だから、気安い表現もおかしくはないが、その口ぶりはどちらかというと敬語表現に慣れないところから来ているようだ。
私は再びソファに腰を下ろし、他の三人が軽く近況を語り合うさまを無言で眺めていた。
話はそれで終わりだ。
巷に出回る歌劇のような、男女ともに身を焦がす恋の物語はここにはない。その予感すらもなかった。
イレナがわざわざ我々の酒盛りに顔を出した——出すよう母親に命ぜられた——理由は理解している。
日本とは異なり、ここノーレムリアにおいてはしかるべき身分の男女が顔を合わせる機会はそれほど多くはない。
結婚適齢期に差し掛かる十代後半から二十代半ばにかけて、両性の生活ははっきりと分離されていた。
そもそも共学の学校が存在しない。中等教育の場である各都市の学院は男女に分かれており、それ以前、つまり初等教育に関しては家庭、あるいは正教会の責任範囲であった。高等教育となると分かれる必要がない。大学に進むのは男性のみであり、女性の「最終学歴」は日本で言うところの女子高校である帝立女学院止まりである。
日常生活で偶然の出会いがなければ社会が意図的に作るしかない。各家で時折開催される茶会か、あるいは宮廷で催される各種のイベントか、もしくは今日のように、兄弟の元に遊びに来た男性を見初めるか。その程度のもの。
よって、完全に伝手のない、階層が異なる若い男女が顔を合わせる機会はほぼゼロに等しい。唯一考えられるとしたら、正教会の儀式に参列した折、視線がふれあう程度のものだろう。
この過保護な状況は明らかに社会的正当性を持っていた。結婚が個人的なイベントではなく家と家の間で交わされる契約である以上、相手の身辺にはかなり気を遣う必要がある。
そう。まさに「契約」なのだ。ノーレムリアに限定せず、十九期の中央大陸における結婚を日本人がイメージする場合、最も類似性が高い行為は企業間の契約である。
一つ面白いことがあるとすれば、このシステムは女性よりも男性に負担を強いる点だろう。それも「お相手」となる男ではない。女の兄弟が頑張らなければならない。
彼らは自分の友人の中から「これは」と思った者をせっせと家に呼ぶ。そして面通しをさせるのだ。自身の姉、あるいは妹と。姉妹のみの家庭であれば、いち早く結婚した者の夫、つまり他の姉妹から見れば義理の兄あるいは弟となる男性が頑張らねばならない。
ヤシクはイレナの兄である。よって、彼が実家を〝飲み会〟の場として提供し、家の者たちがそれを好意を持って受け入れるのは当然のことだった。
私はこのとき、自分もまた「引き合わされたお相手」の一人であることをなんとなく理解していた。しかし、正直に言えば実感には乏しかった。
男女の仲は日本においては最もプライベートな関係である。少なくとも私が生きた時代においては。ゆえに頭では諒解しつつも、何やら非現実的なものとして受け止めていた。ノーレムリアの「当たり前」を。
それに加えて相手は女子高生である。自分には無関係と興味を失っても致し方ないだろう。私が観察していたのはむしろ、ニコルス太子と彼女の関係の方であった。
未来の皇帝である彼と当代貴族の娘では貴賤が過ぎる。ゆえに正式な婚姻はあり得ない。だが、イレナがどこか他の家に嫁ぎ、子を産んだ後、再び二人が出会う可能性は十分にあった。
結婚が家と家のものである以上、個人の欲求はどこか他のところで見いださねばならない。我が国の正教は一夫一婦制を強く義務づけているため、正教がそれほど真剣に受け止められていない西方諸国にかつて存在した「側妃」のごとき制度は存在しない。
だが、愛人関係は当然存在する。男にも、女にも。
実際のところ、二人はそんな「神の御裾の下、申し訳の立たない」関係にはならなかった。ただし両者は知人同士ではあり続けた。
それは当然のことだ。
私とニコルスが最後まで友と呼べる関係性を維持したのだから。
◆
「ところでイレナ、例のあれをお二人にお見せしたらどうだろう? 君がこの間、見事に拵えた……」
途切れがちな会話を引き伸ばさんと兄が助け船を出す。妹を見るヤシクの目は優しいが、それ以上に心配が勝っているように見えた。
所在なげに俯き佇む少女。その控えめな性質は出会って一刻も経たぬ初対面の私にすら感じ取ることが出来た。女性が従属的な立場に置かれている凡そ全ての社会がそうであるように、ここノーレムリアでも女性の大人しさは好意を以て受け止められる傾向がある。生来のものであれ、演技であれ。
だが、度が過ぎれば機を逃す。
「はい。持って参りますね。お兄様」
中座する少女の後ろ姿を尻目にヤシクが私に語りかける。
「心根の優しい娘なんだよ。それに、ああ見えて細々したことによく気がつく」
「加えて美しい! なんとも! 彼女と結ばれる男は果報者だろう」
赤ら顔のニコルスが放言する。その賞賛の口ぶりは逆説的に、彼がイレナを女性として意識していないことをよく表していた。
「ええ、殿下。まさに。ボリス・イリイチ殿も同意してくれるかな?」
「もちろん。イレナ嬢は可憐な方だ」
それは事実だ。
小柄な四肢に繊細な、整った顔が乗っている。
余分な肉のない滑らかな頬。小さな口と大きな瞳。結い上げた漆黒の豊かな髪。そして微かに幼さを感じさせる衣服。少女とも女とも付かぬ、曖昧な年代の不揃いな美が確かにあった。
心内抱いた感想を、しかし私は述べはしなかった。初対面でのそれは少々不躾であったし、変な誤解を生む可能性もあった。
つまり、脈がある、と。
程なくして戻ってきた少女は、几帳面にたたまれた白いレースの布をその手に持っている。
長方形のそれは日本でいうところのマフラー、あるいはショールと同じものだ。
「こちらです。私一人で、一から編んだんです」
早足がたたってか微かに乱れた呼吸もそのままに、彼女は最低限の解説を加えただけでそれを見せた。
ただ、ほんの少し得意げに。母や召使いの助けを借りていないことを強調して。
「なんとも見事な大判布だ! 手が込んでいる」
ニコルスが大仰に賞賛の声を上げた。
〝大判布〟。
この大ぶりな布地——〝大判布〟は女性にとってはまさにショールの役割を果たす。男性の場合は喉に巻き付ける、いわばネクタイのようなものとなる。
歴史を辿れば騎士達が鎧の上に纏ったマントを源泉とするが、長い時を経た現代ではコンパクトに、使い勝手良くリファインされた。
この時イレナが編んだものの善し悪しについて、結局の所私にはよく分からない。ただ一つ言えるのは、それが都内のショッピングモールに並んでいたとしても、それほど見劣りはしないだろうことだけだ。
編み物は女性にとって、特に貴種として生まれた女性にとっての必須技能である。実用的なものではなく、象徴的なものとして。
「男は槍を持ち、女は鈎を持つ」
このフレーズは貴族家を示す定型句、いわば枕詞のようなものである。
貴族達がかつて戦士であった時代の微かな、だが確固たる名残だ。ゆえに、編み物に長けることは貴族の妻として相応しい存在であることの証であった。
君たちもよく知るように彼女は編み物を好む。手が空けば直ぐに何かを作り始める。その熟練の技能が娘に受け継がれたことを、私は嬉しく思う。
「あなたはきっと素晴らしい奥方になられるでしょうね。しかるべき御家の。——編み物がお好みでいらっしゃる?」
私はあえて当たり障りのない賛辞を贈った。私の生きた日本では比較的当たり障りがある言葉だが、ここノーレムリアにおいては「当たり前」の台詞だ。
加えて平凡な質問を投げかけてみる。
いや、実のところ、日本においてはそれすらも若干センシティブかもしれない。
成人した同僚同士であってさえ、少しでもプライベートに関わる内容を問うことは少々気を遣う世相だった。それが教師と生徒となれば尚更だ。
ここだけの話、女子生徒との面談は若干億劫だった。第三者の目のあるオープンスペースで、できる限り距離をとって、と様々な配慮が必要となる。
ちなみに配慮自体は全く億劫ではない。むしろ我が身の潔白を証明するために必須の行動であり、命綱でもある。面倒なのは、時折この状況に対して「先生は冷たい。よそよそしい」と難癖じみたことを言い出す者がいることだ。稀に。
男女を問わず、異性の生徒が在籍している学校に所属する教員の場合、非教員の友人に変な冷やかしを受けることがある。「若い子と触れ合えてうらやましい」やら何やら。相手は軽い冗談のつもりだろうが、言われる側は結構な苛立ちを覚えるものだ。
実際に接してみればすぐに分かることだが、高校生というのは性別・素行を問わず皆、不発弾——その多くは不活性に終わるが時折予想外に爆発する——のようなものと思っていい。犯罪行為は論外としても、彼ら彼女らが公共の場で騒いだ結果、学校に通報(大体は激高した市民の方からの)が来るのはそこまで珍しいことではない。電車内でのトラブルもしかり。
家出も勘弁してほしい。
大学入試を控えた男子生徒が塾から帰ってこないと深夜に連絡を受けて、なぜか塾の先生と一緒に手当たり次第夜の街を探し回ったこともある。ある程度教員歴が長くなると、この手のプチ失踪に際してある種の勘が働くようになる。なぜか「あの辺りにいる」と当たりを付けられるのだ。
面白いことに、そのときは私と塾の先生の〝勘〟が同じ場所を指し示した。河川敷。
振り返ってみればその生徒は面談の際に、近所の川縁を部活動の走り込みで使っていると言っていたので、多分その記憶からの類推だろう。
果たして彼は河川敷を当て所なく歩いていた。
理由を尋ねると「風を感じたかった」とのこと。
ゆっくり散歩していた生徒よりも、いい年をして全速力で街を走った私と塾の先生の方がよっぽど風を感じていたことだろう。
比較的治安の良い私の勤務校ですらこの有様なのだから、いわゆる「教育困難校」において日々勃発する事件など想像するだけでも恐ろしい。とはいえ若い頃の少し奇矯な行為は皆が通る道。特段珍しいことでもない。
ただ、対応の当事者を長くやった者として、子どもと対するとき少々よそよそしくなってしまうのは許してほしい。
「はい。編み物はとても好きです。……本当はもっと立派な、大きいものも作れます。 でも、今はこれしか無くって……」
自負と主張、そしてかすかなためらいは彼女を年齢相応の存在と感じさせた。
「ええ。恐らくそうでしょう。このように繊細な作品を作りあげるには、よほどの忍耐と精神力がいる。それは家を取り仕切るのに最も重要な素質ですから。やはりあなたは素晴らしい奥方になられると、そう確信しますよ」
彼女は兄二人を持つ末娘。
日本であれば——加えて、比較的安定した家庭であれば——蝶よ花よとかわいがられる立ち位置だが、ここノーレムリアにおいては恐らく軽んじられているはずだ。大切にされているのは間違いないが、彼女自身の意志や性格、存在を重視されてはいない。
ノーレムリアは男の世界である。女はどこまでいっても裏方であり、女であるという生物的特性が贈り物としての価値を持つがゆえに重宝される。中身は凡庸で構わないのだ。むしろ、平凡であることをこそ求められる。
二十歳の青年が十七歳の美しい娘(しかも身分的に釣り合いの取れた)と出会いながら、心の中で思うのが味気ないことばかりだったとは、思い返せば申し訳ない気持ちになる。だが、そんな即物的な内心とは裏腹に、私の口は彼女が望んだ言葉を半ば無自覚に、半自動的に発していたようだ。
生徒の言動の根源にある欲求や悩みを推測し、表面ではなく内面に対して答えを与えることは教師の役割の一部である。そして職業病でもあった。
不運なことに、私の日本での経験はノーレムリアを生きる上でほとんど使い物にならなかった。中でも最も自信を持っていた〝異世界の歴史知識〟ですら、後にその無価値が判明する。
ただ、幸いにも、この出会いにおいてだけは役に立った。
私は制作物よりも、制作者たる彼女自身を褒めた。それが求められていると判断したからだ。
しかるべき家の立派な女主人として尊敬を集めることは貴族の女性が思い描く一つの到達点である。立派な奥方となって初めて女性はその内面を評価される。
私自身は全く賛同できないながら、それがノーレムリアの「常識」であった。
「……ブラーギフ様。本当に?」
「ええ。嘘は申しません」
イレナはその深い茶の瞳から発する、疑わしげな、だが微かな希望を秘めた視線を私に投げ、やがて伏せた。薄ら赤く、首元が色づいていた。
◆
君たちもイレナからこの一幕について聞いたことがあるだろう。その話がどのように脚色されているかは分からないが、恐らく良い方に振れているはずだ。多少大げさにも。
実際はこの程度の、波一つ立たぬ平凡な出会いだった。だが、イレナはそれを好意的に受け取ったらしい。この後起こった一連の出来事への印象が、彼女の記憶を少なからず修飾したのだろう。
出会いから長い時を経た今も、彼女は事あるごとに、口癖のように言う。
「私は我慢強い女なんです」と。
その台詞は時に愚かな男達(つまり、私と君たちのことだ)が取る愚かな行動への警告だが、機嫌のよいときのそれは誇りの表れなのだろう。
実際、彼女は我慢強かった。
君たちはもとより、君たちよりもはるかに手の掛かる娘をさえ、立派に育て上げたのだから。




