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或る指導者の青年時代  作者: 本条謙太郎
序:父の物語

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3/6

ニコルス・ニコリヴィ 前

「隷農の領導は貴人の義務と聞くが、その言を貴殿はどう受け止められる?」


 彼、皇太子ニコルスは特に気負った風もなく私に尋ねた。

 問いは単純なものだった。しかし、どこの世界のどの時代においても、単純なものこそが最もやっかいなものだ。「言」を述べているのが主に正教会であるという、この周知の事実が物事をやっかいにする。


 ニコルス一世による創建以来、西方諸国への窓の役割を果たしてきた新都ニコビルグにおいてはさほどでもないが、遷都以前、ノーレムリアの中心であったモカヴァ——古き良きノーレムリア人の故郷たる都はといえば、今も昔も純然たる宗教都市である。そこは古代帝国レムリアの遺産ともいうべきレムリア正教が初めて招じられた地であり、この極東の森の中に建った文明の証、大僧卿座所でもある。


「僭越ながら、より正確に述べましょう。隷農の、ではございません。民の、でございます。偉大なる〝大鷲の家(レムリス朝)〟の支配は、我らがノーレムリアの森の隅々まで及びますので。決して、一部に、ではありません」


 建前には建前を。権威には権威を持って対する。それ以外の道はない。


 かつて私が就いていたあの慎ましい職は、世間では「立派なもの」「特別なもの」()()()()()()()()()()()。遙かに遡れば「聖職」などと称される時代もあった。

 もちろん実情は違う。他のサービス業と何ら変わるところはない。顧客にサービスを提供し対価を得るだけのもの。だが、世間体だけは異なる。次代を担う若者を育てる立派な仕事。教育。

 私たち教師はこのイメージを巧みに使う。管理職でも主任クラスでも、あるいは教育委員会でも、とにかく上から降りてきた指令に気に食わないところがある場合、抗弁の仕方は決まっている。

「教育的見地から考えて」。

 こんな枕詞など誰も信じていないだろうと思われるかもしれないが、意外なことに言う側も言われる側もうっすら信じている。時折は同僚と居酒屋で愚痴りながら、実は心の奥底で信じている。「自分たちは特別な、神聖な仕事をしている」と。

 これこそが建前の威力だ。日常ではしばしば冷笑の対象になるが、それは人々の肌から肉の奥、神経に至るまで、実に深く浸透している。


 レムリア正教会はその招来当初から、世俗権力の「裏付け」であることを期待されてきた。滅び行くレムリア帝国から避難してきた僧たちは立派な寝床と価値、ようするに大公たちからのしかるべき敬意を提供された。当然のことながら、その見返りが求められる。ゆえに我が国の教会は時の為政者に従うことが比較的多い。

 そんな彼らの役割は単純ながら、国家にとって最重要のものだ。「現状」に神のお墨付きを与えること。皇帝がいて貴族がいて、少ないながらも都市自由民がいて、残りは大海原の如き隷農。これが我が国の現状であるのだから、それこそが神の描いた「物語」であることを説明しなければならない。どうやって? 正教唯一の拠り所である「聖句典」を解釈して。


〝声を聴くものが、遍く皆を導く〟


 分厚い聖句典注釈書をたどりに辿った末、ぶつかるのは原典のこの一文。これを「隷農を導くのは貴人の義務」と解釈するのは容易い。正教僧たちの良心にとって幸運なことに、事実に近いのだから。何しろ我が国ノーレムリアの人口の八割近くが隷農である。〝皆〟と称しても恥ずかしくない割合だ。

 だが、あえて抗弁することも可能だろう。「隷農」なる言葉は聖句典には一切現れない。ただ「皆」と記されるのみである、と。つまり、互いが聖句典という建前を以て殴り合うのだ。


「なるほど。貴殿は回古派に属するか」


 回古派、つまり現状の〝正統な〟正教会を、聖句典に従ってより正しいものへ蘇らせようと望む一派。その一団を日本の感覚で表現するならば一言、「原理主義者」といったところだろう。ゆえに、公衆の面前で相手を「なんとか派」呼ばわりすることはかなり危険な行為である。シンプルに、際どい悪口になりうるから。

 とはいえ、皇太子殿下ともなれば平然とそれを言ってのける。


 状況はにわかに緊迫した。

 私が読み切れないのは、彼の言葉がその生まれから来る傲慢の表れなのか、あるいは()()()()圧迫面接の類いなのか。前者であればあまり面白くはない。幼いだけだ。後者ならばそれはそれで重苦しいものがある。面接は「採用」に関わる業務なのだから。仕事内容も知らされぬままにエントリーするのは御免被りたい。そんな気持ちもあった。

 いずれにせよ返答は一つしかない。何事もなかったかのように否定する。私はそうした。


「まさか。殿下、私は正統派の信徒としてあります」

「それは嬉しいなあ。なぁ、ボリス・イリイチ殿」


 緊張の後、弛緩した空気の中で彼が見せた笑みは真心からのものだ。私にはそう思われた。整った、さわやかな表情の割に、言葉は粘性を含んでいる。それは明らかに感情の表出だ。


「誤解なきように、重ねてお伝えしたいことがございます。隷農制はニコルス大帝の御代においては、確実に最良の選択であったと。——ですが、時の流れは全ての物を押し流していくでしょう。永遠に不変である存在は神をおいて他にないと、聖句典にもありますように」

「楽に。楽にされよ。ブラーギフ殿。ここは審問所でも法廷でもない。余と貴殿は同じく一学徒ではないか」


 私の明確な保身を受けて、彼は苦笑と共に右の手を二度、三度、軽く振った。

 私はこの瞬間、明確にリスクを背負っている。

 目の前の青年を恨みさえした。彼の笑顔が底抜けの、含意を感じさせないものであれば、私は変な不安を覚える必要はなかったのだから。しかし残念なことに、ノーレムリア将来の皇帝はまだ若い。心に納めた含みを消しきる術を持たない。


「では申しましょう。現状において、()()は明らかに枷です。偉大なる帝国の更なる雄飛を阻む」

「最近よく耳にする説だ。()()は時代遅れであり、文明国には相応しくない制度である、と。だが一方でこう述べる者もいる。()()こそが我が国の根幹であり、大帝の定めたもうた祖法である、と。それを失った我々はノーレムリアの輝かしい精神を失い、いつしかサンテネリやらアングランやらに取り込まれてしまうという」


 西方諸国のめざましい発展——理学と工学の——は必然的に、彼らの思想的優越を想起させる。西方諸国は国民が皆自由であるが()()()発展したのだ、と。そう考える者たちは多い。全員が貴族か富裕自由民の子息であるこのニコビルグ恩賜大学の学生達でさえ、アンケートを採れば、問いの立て方次第で七割方がその説に賛意を示すだろう。

 私? 私はどうだろうか。

 心情的には前者の意見に賛成する。しかし、国の発展を望んで、ではない。人は自由であるべきと()()()からだ。もちろん公言は自殺行為に等しい。この国において、そのような考えは回古派など問題にならないほどの過激思想である。

 加えて実際的な問題がある。隷農を解き放った後に高確率で生じるであろう凄まじい社会の混乱をどう処理するのか。私の個人的な思いなどよりも、むしろそちらの方がよほど重要だ。


「殿下がご提示の二説ですが、私にはどちらもある程度正しく感じられます」

「うん? どちらも? これは意外だ! 潔癖な君のこと、てっきりどちらか一方の信奉者かと思ったが」


 言ったきり、勢いを付けてソファから立ち上がると、私の座るソファの元へ確固たる足取りで歩み寄ってくる。そして立ち塞がり、見下ろした。私を。ノーレムリアの皇太子が。

 逆光ゆえにその表情をうかがい知ることは叶わない。このときほど肝を冷やした経験は思いつかない。私の言葉の何かが彼の心の何かに触れたのだろう。それが琴線か逆鱗か、このときの私には知るよしもなかった。


「では君はどうする? どちらも正しいのであれば、どちらも選べない。ならば座して眺めるかい?」


 底冷えする低声。先ほどまで優雅な空気を崩さなかった青年の豹変だが、十分理解の及ぶところだ。

 何年先のことかは知らないが、彼は選ばねばならない立場を占めることが確実な地位にいるのだから。要するに〝当事者〟だ。


「あえて選ぶ必要がありましょうか。——選ぶ代わりに合わせればよいのです」

「どのように?」

「文明国でありつつ、我らの精神が我らの物でありつづけるように」


 微かな呼気。吐き捨てるような。


「それは理想に過ぎない。理想であるがゆえに到達に時間がかかり、理想であるがゆえに成功は約されない。理想であるがゆえに!」


 青年の苛立ちは少々過剰に過ぎた。

 私はじっと観察した。

 観察するのは得意である。職業病と言ってもよい。大人に近づきつつある若者を指導する際に必要なのは一にも二にも対象を知ることだ。

「新人の先生」はよく誤解するところだが、彼らの中で最も単純に、わかりやすく見える者でさえ、()()()()()()()だけだ。皆、大人と寸分変わらぬ複雑で重層的な精神を秘めている。ただ違いがあるとすれば、自身を表現するための道具である言葉の持ち合わせが少ない。まるで友達と接するように教師にじゃれつく生徒は、決して人懐こい「よい生徒」ではない。もちろん、逆もまた然り。


「文明は一夜にして興りますか? 精神は一瞬で変わりますか? 大事を為すには時間が掛かります」


 私は動じなかった。

 彼——ニコルス・ニコリヴィチは少々芝居がかった仕草で大きく頷く。緩やかに、肩まで伸びた赤い髪がばさりと落ちた。そして大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。微かな煙草の匂いと共に。

 我らが皇太子様は愛煙家でいらっしゃる。そして恐らく酒も好きだろう。なぜなら、ノーレムリアの男でそれを嫌いな者などいるはずがないのだから。かくいう私も見事に染まった。日本ではその辺りに潔癖だったのが、今や酒豪の愛煙家だ。


「どれほどの?」

「殿下の御代のすべてをかける必要がございましょう」

「その膨大な時間をもって俺は何をすればいい? 為すべきことを語れるか? 貴殿の大言たいげんはかけ声だけではあるまい?」

「それを語るとはつまり、我が国の歴史をその興りより紐解くのと同義です。お望みとあらば語りましょう。——ですが、この場で?」


 言い逃れではない。目の前に立つこの赤毛の青年——将来の皇帝が為さねばならぬことは国体そのものを揺るがしかねない大事だ。ざっと挙げただけでも政治、軍事、経済、宗教、文化、民族政策、その全てに多大な影響を与えることは明白である。


 かつて()()()の似たような事例を生徒達に解説した際、彼らがうんざりした表情を隠そうともせずぼやいた言葉を私は忘れられない。

「これってマジでやるんですか? まとめて答案にするなんて無理でしょ」と。

 思い返すに、日本の難関大学はひどい入試問題を出すところだった。「十九世紀ロシアにおいてアレクサンドル二世が行った諸政策の概要をまとめた上で、その影響を政治・経済・文化・外交の四点において考察せよ」なんて、ロシアとも農奴とも縁もゆかりもない日本の十八歳に尋ねること自体ハードルが高い。加えて「諸政策」と対象がぼかされているため農奴解放のみを扱えばよいわけでもない。さらに「影響」と来る。

 ただ、実はこういう〝突き放した〟問い(国立の最難関大学に多い)には答案製作のテンプレートがある。私は職務の一環としてそれを教えた。内心むなしさも感じながら。それを「覚える」ことに何の意味があるのかと思いながら。


 だが意味はあった。日本とは縁もゆかりもない——そもそも地球上の存在ですらない——異世界ノーレムリアで、当事者である将来の皇帝からご下問を頂くという、()()()()()()()()()()()()、この知識は役に立つのだ。


「ブラーギフ殿。君は今晩、暇か?」


 どうやら私は賭けに勝ったらしい。


「殿下のお誘いとあらば、私はいつでも暇を作りましょう」

「では作ってくれ。込み入ったことは飲みながら話そう。酒は意識を目覚めさせる。身体は眠らせるがね」


 要するに、次代の皇帝は漸進的な変化をお望みなのだ。時代遅れの隷農制シュラーヴィキは除かねばならないが、かといって西方諸国の少々自由すぎる気風を過剰に取り入れたくもない。折衷案とも妥協案とも呼べる結論を最初から抱いている。

 名前を同じくする先祖ニコルス一世とは真逆の人柄だろう。歴史書を読む限り、ニコルス一世は徹頭徹尾どちらかを選ぶタイプの為政者だった。次のニコルス帝はどちらをも取り込もうとするタイプだ。まだ二十代の若者にしては珍しい。

 私の肩を親しげに叩く青年に不器用な笑顔を返しながら、別の世界で少々長く生きた私は彼の前途を祈らざるを得ない。折衷案ほどに「難しい」ものはないのだから。


 つまり、どちらの陣営からも恨みを買う。

 この若者はそれを理解しているだろうか。


 恐らく直感的に推測はしているのだろう。ゆえに私をクローズドな場に誘った。しかも今晩! 貴族の社交としてはあり得ない性急さは、彼が現在そうありたいと願っているであろう身分が帝国の後継者ではなく、一大学生であることを端的に示していた。学生は多くの面において不自由な存在だが、その時分においてしかなしえないこともある。こうして面倒な身分の壁を取り払い、友人達と飲み明かす。これは学生の平等性という「建前」があるからこそ可能になる。


 学生らしく在る場は、別にこのゼミであってもよい。だが、生憎まだ陽が高い。

 愚痴を言い合うにしろ理想を語るにしろ、大体の本音は夜、居酒屋でぶちまけられる。大抵は駅前の、行きつけのチェーン居酒屋で。

 それは大人になっても変わらない。教員はお金がないのが常なので、行きつけの店すらも学生時代とさして変わらない。


 だが、こと「店」の質に関する限り、ここでは事情は違うだろう。

 私を「飲み」に誘ったのは帝国の後継者であり、私もまた歴とした名門伯爵家の長男である。いい酒が出るのは確実だった。

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