★第七話 神の声を聞く者
暗闇に堕ちていく時、僕は何かを聞いた。
『じゃあその命、もーらった』
もうそれがどんな声だったのか、覚えていない。
けれど、その瞬間、僕は今まで感じたことのない深い安堵を感じた。
これまで生き、積み重なってきた【僕という人間】のデータが全くのゼロになり、何のプロフィールもついていない、ただ一つの真っ新な存在に戻った気がした。
――私たちは皆、世界から消えようとした。
――そして私たちは【神の声】を聞いた。
今日のヌンさんの言葉が、帰ってきてからも、頭の中をずっとぐるぐる回っている。ぐるぐるどころか、縦横無尽に駆けまわって、脳みそをかき回されているような気さえする。
「おっはよーーーん!」
「いや、もう深夜ですけど」
人が物思いにふけっていると云うのに、その空気を平気でぶっ壊して来るのがメムさんだ。ベートさんが離脱しただけまだマシだけれど……。
「いやなんかさー、あのケーキ食べた後めっちゃ眠くなっちゃってさー! やばくない? 絶対なんか盛られてたよね?」
「珍獣ですからね」
「え?」
「なんでもないです。全然」
何だか一気に気が抜けて来た。
「何か飲みますか?」
云いながら、僕は冷蔵庫の中をチェックする。半分齧って干からびたリンゴ、いつ開けたか分からないオレンジジュースのパック、何故かぺったんこに潰れたメロンパン……。僕はゆっくりと扉を閉めた。水道水を飲もう。この家で今最も安全で衛生的なのは水道水だ。
「いやいや、そんな呑気なこと云ってる場合じゃないよ、サメフ君!」
「サメフで良いですよ」
長い眠りから覚めたメムさんとベートさんに、改めて自己紹介をすると、なんかイメージと違うだの、いや根暗っぽい感じとピッタリだの、いずれにせよ失礼千万なことばかり述べていた。
「お前たち、名前も知らなかったのか」と呆れていたヌンさんを見て、どうしてこんなまともな人が、この人たちと関わっているのかと改めて不思議に思ったものだが……。
――皆、同じなんだ。
僕は目の前の、どう見ても尋常じゃないテンションのメムさんを見る。こんな訳の分からない人でも、人生から逃げ出そうとしたことがあるのだろうか?
あんなに強いベートさんも、あんなに落ち着いたヌンさんも、僕と同じように、絶望の淵から飛び降りたことがあるのだろうか……。
「じゃあ、サメフ! いざ、ゆかん!!」
想像することすら、難しい。
*
「ちょっと待ってくださいって、メムさん」
無駄に長身で無駄に長い脚でセッセカ前を歩いていくメムさんに、恐らく身長二十センチは差を付けられているミニマムな僕は、小走りで何とか付いていく。
「今宵は、サメフが引きこもりから脱け出した記念すべき日! 帰りにケーキ買ってこう!」
「僕はまだ、メムさんの助手になるなんて云ってないですよ」
上がった息を整えながら、なんとか言葉を吐き出す。
「でも、ヌンと話は着いたんでしょう? 熱い漢同士の握手を交わしたとか!!」
「いやあれは、あくまでヌンさんとの……」
「ヌンは俺の盟友! ということは、俺もヌンも同じ! つまり、ヌンとの契約は、俺との契約に等しい!」
いや、こんなに前後が繋がっていない「ということは」と「つまり」は初めて聞いたんですけど。
「それに」
「いて!」
急に立ち止まったメムさんの背中に、顔面から激突する。
「この仕事は、君にとっても、とても楽しいものになると思う」
メムさんは振り返って、僕に微笑みかけた。自分もそうだったと、その笑みが語っているようだった。
「メムさんとヌンさんも、昔からの知り合い、ですか?」
ようやく並んで歩けるようになって、僕はメムさんを見上げながら訊ねた。
「んー? そうだよー。ベートとの方が長いけどね。ヌンはたぶん、一番最初なんだ」
「最初?」
「ヌンから聞いたんでしょ? 俺たちは皆、世界から消えようとした人間なんだって」
「あ……」
僕は言葉に詰まった。自分だって同じ立場の癖に、そのことに軽々しく触れてはならないような気がしたから。
「俺たちの他に、【声】を聞く奴らがいるのかは分からない。確かめようがない。会ったこともない。でも多分、いない。だから、俺たちの中で、最初に神さまの声を聞いたヌンが、神さまの声を聞いた最初の人間だと思う」
「どうして? その、自……殺しようとする人は、他に幾らでもいると思うんですけど」
「それは……」
メムさんは顎に手を当てて、思わせぶりに沈黙した。そして、
「分からん!」
得意の親指突き立てポーズを取った。分からんのかい。
「でも、声を聞いた奴らは、何故かは分からないけど、出会うようになってるんだ。多分、神さまによって。俺がサメフを見つけたのも、神さまの声を聞いたからだよ」
「僕を見つけた……?」
「見つけたというか、神さまが、あそこへ行けって云ったんだよ。薄気味悪い廃工場に。そうしたら、廃工場の前に君が落ちてた。まったくの無傷で」
僕は目を見開いた。廃工場の屋上から飛び降りたのは、僕の勘違いだったのだろうか? 僕はただ、怖気づいて、工場の周りをウロウロしていただけだったのだろうか。普通、あの高さから落ちて、助かることはまずない。少なくとも、無傷では済まない。絶対に。
「神さまは、僕たちと同じ言葉を喋るんですか?」
「そうじゃない。言葉じゃないんだ。上手く云えないけど……神さまの存在みたいなのが、頭に……いや、心に現れるんだ。何も介さず、直接。そうして、何をすべきか、どこに行くべきか、それが全部分かる」
僕はメムさんのいが栗のように爆発した薄茶色の頭……ではなく、無駄に綺麗な鼻筋を見た。冗談や妄想を語っているようには見えない。メムさんは普通の、ごく当たり前のことのように話している。
「神さまは、なんで僕を選んだんでしょう? 僕がいなくなって、困る人もいないのに」
「多分ねー、神さまはそういう奴が好きなのよ」
「え?」
「神さまは、とことん見放されて、必要とされてない人間が好きなんだ」
「同情するからですか?」
「いや、そうじゃない。多分……」
「また多分、ですか」
「多分、自分と同じだから」
「ええ?」
どうしてこの人の云うことは、一から十まで凡てが意味不明なのだろう? 神さまが誰かを見捨てることはあれど、誰かから見捨てられるはずがないのに。
「さ、着いたよ!」
メムさんが朗らかに宣言した。
「サメフの初めての仕事だ」
僕たちの前には、天をも貫きそうな、高層マンションがそびえ立っていた。




